羅生門は誰に開く

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下女

腕を挙げると、下女の指先は、じん、としびれた。最近の朝は酷く冷えるようになってきた。日もまだ登らず薄暗い中、布団から苦労して這い出、彼女は主人の為の火桶と茶の準備にかかることにした。

早朝の屋敷は、全ての生き物が息をひそめているかのような静けさである。自分の足音と床の軋む音しか聞こえない、否、それ以外の何かが聞こえたら一巻の終わりである。故に、下女は早足で、出来るだけ足音を立て、かつ後ろを振り返らないよう廊下を渡っていた。

少なくとも、彼は妖怪やその他の怪異を信じるたちではない。どちらかといえば、実際に遭遇したとしても、疲労による幻か何かだろうと感じるような、鈍い女であった。

だがしかし、近頃は例外である。災い続きであった京では、今は比較的落ち着いたものの、盗人や乞食が増え、事件の見聞が絶えなかった。この屋敷に大金になるようなものはないにしろ、用心しておくに越したことはない。


火桶は少し下女には重かったが、運べないことはない。茶葉も切れておらず、まだ買いに行く必要はなさそうだ。しかし、用意した湯呑の飲み口が欠けている。口元を怪我するといけないから買い替えるべきだと思うのだが、主人はこれを気に入っているらしい。

ああそうだ、客人が茶を誤って倒したときにこれは欠けたのだ。下女は無意識に、とある男を思い出していた。男は、主人に言われて急ぎ足で雑巾を取りに行っている。頭に浮かんですぐ消えるような回想であったが、下女の頭には少し長く残り続けた。

あれは、ごくごく平凡な、素朴さと田舎臭さが残る男の顔だった。強いて非凡なところを挙げるなら、右頬に赤い面皰が居座り続けているということぐらいで、しかもそれを構う癖のせいか、一層田舎臭さが増していた。

おまけに、然程仕事に一生懸命な様子も見せていなかった気がする。もちろん、雇われている以上、給料分は働く。しかし暇を見てはどこか遠くを見、たまにため息をつく、それの繰り返しであった。きっと趣味という趣味もなく、今を生きるのが精一杯。明日の飯と寝床位しか気にしない生活を送ってきたのだろう。

あんな乾いた人間にはなりたくないものだ、と自己完結しようとし、ふと、「あのとき屋敷から追い出されたのがあの男ではなく、自分であったなら」という問いが頭をよぎった。

冷たい空気が、ひょう、と廊下に流れる。自嘲するようにため息をついた。そんなもの、考えても無駄なことだ。自分なら間違いなく、餓死を選んでいるだろうことは分かりきっているからだ。

目の端で、少し大きなきりぎりすが跳んだような気がした。

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