03 日魚子、合コンに行く。

 クロケッタというのはスペイン料理ではコロッケを指すらしい。

 すり潰したタラとマッシュルームが入ったクリームコロッケ風の料理で、日本のコロッケとはだいぶちがう。

「コーンクリームコロッケ?」

 訊き返した日魚子に、「そう」と大地がうなずく。

「子どもの頃、ばあちゃんち行くと必ず出してくれたんだよね」

 箸でクロケッタを取りながら、「あれおいしかったなー」とつぶやく。

「じゃあ作りましょうか?」と言いたくなるのを日魚子はすんででこらえた。頭のなかではもうすっかり大地の部屋のキッチンで、衣をつけたコロッケを揚げるところまで想像できていたのだけども、大地とちゃんと話すのはこれがはじめてだ。序盤から前のめりになって引かれたら困る。

 爽が設定した合コンもとい飲み会に日魚子は参加していた。

 男性側のメンバーは、爽と大地、それにふたりの同期の沢渡さわたりにしき。女性側のメンバーは、錦の大学時代の友人ふたりと日魚子だった。女性メンバーはあとひとりいるが、地下鉄の遅延でまだ着いていないのだという。

 狭い店内の外にあるテラス席は、五月ということもあり、爽やかな風が吹いていて心地よい。店のシンボルツリーであるオリーブには電飾がつけられ、頼んだ白ワインに星のようにひかりが映っている。

 店のチョイスは爽だという。家ではおっさんみたいに日本酒とつまみで通しているのに、爽はこういう店の選び方のセンスがいい。適度にカジュアルで、適度にスマート。外でかたちづくっている深木爽の印象そのもののようだ。

 大地はじめは、ストライプのシャツに紺のネクタイを締めていた。おしゃれというよりは、無難というかんじの服装。左手首にはまっているのは、ちょっとごつい、年季ものの腕時計。ゆるやかなラインを描く大地の手首は、大樹の枝のようにがっしりしていて、小鳥がいたらたぶん留まりたくなる。

「すてきですね、それ」

 ワイングラスを置いて、日魚子は大地の左手首を示す。

「あぁ」ときづいた大地が眦を緩めた。左目に泣きぼくろがある。そのせいか、屈託なくわらうのに、なんだか色気がある。すき。ぽろっと口から出そうになった言葉をのみこむ。

「これはじいちゃんのおさがり」

「さっきのおばあさんの?」

「いや、ばあちゃんは母方で、じいちゃんは父方。動物のお医者さんやってる。俺が就職したときに、お祝いにくれたんだよね。いかすでしょ」

「うん、とってもいい」

 目を合わせて、はっきり告げる。

 大地はすこしびっくりしたような顔をしてから、「……時計すきなの?」と尋ねた。すきなのは時計じゃなくて大地だけど、この際どちらだっていい。

 大地の対面の席は、飲み会がはじまったときからキープしていた。幸い今日は爽がいるので、ほかの女子たちは爽に夢中である。ひとあたりがよい爽というのは、かりそめのすがたなので、どこがそんなにいいのだろうと日魚子はふしぎに思うのだけど、爽はとにかくモテる。高校時代から、異様にモテる。

 ひとあたりがよくて、端正で、だけどもそれだけではない、底のほうに隠し持つ毒の気配。女子というのは往々にして、ちょっと性格がわるそうな男にときめくのかもしれない。少なくとも、恋愛対象としては。 

「芹澤さんは、うちの会社に来る前はなにしてたの?」

 爽に群がる女子たちに沢渡と錦は微妙そうな表情をしていたが、大地はあんまり気にしてないようだ。日魚子という話し相手がいるからかもしれないけれど、たとえ日魚子が爽に夢中でも、大地はおいしくクロケッタを食べていた気がする。

「えーと、人材派遣会社の事務してたかな」

「あ、そうなんだ」

「いろいろあって辞めることになっちゃって」

 取引先の社員との不倫が原因で、心が出社拒否して辞めたとはとても言えない。

 いろいろ。いろいろあったのだ、わたしの人生。解雇とか闇金とか不倫とか。

「うちの会社、まあまあホワイトめだから、転職先としてはよかったんじゃない?」

 察し力が高いのか、大地は根掘り葉掘り、前職を辞めた事情を突っ込んで訊いたりはしなかった。そういえば、大地も転職組だって爽が言っていた。みっつ年上の二十八歳。だからか、同い年の男たちよりも落ち着いて見える。日魚子はどちらかというと年上好きである。今までつきあった男たちも全員年上だ。というか、そろそろ自然な雰囲気でラインのIDをゲットしたいな。などと考えていると、

「ごめーん、遅れちゃった!」

 囀りみたいな声を響かせて、テラス席にひとりの女子が入ってきた。

 ダークブラウンの髪をゆるやかに巻き、ぽってりめの唇に淡いさくら色のリップ。ピンクベージュのブラウスにはオフホワイトのタイトスカートとバレエシューズを合わせている。初夏のコーデ特集にいたフェミニン女子をそのまま召喚したような恰好だ。いや、そうではなく。

「ほんと遅いよー、美波みなみ

 土屋つちや美波。

 この子のなまえを日魚子は知っている。

 なぜ。どうして。こんなところで。

 見間違いだったりして、と首をひねり、もう一度顔を上げると、ちょうど隣の椅子を引く美波とばっちり目が合った。くりっとした茶色の目が驚いた風に見開かれる。

「やだ、もしかして芹澤さん?」

「土屋さん……」

 やはり見間違いではない。前職で同僚だった土屋美波だ。

 前職、つまり取引先の社員と不倫騒動を起こした人材派遣会社の。

「えー、すごい偶然。じゃあ、錦くんの同僚の女子って――」

「わたしです」

 そして錦の大学時代の友人のひとりが土屋美波だったらしい。世間が狭すぎる。なぜ世間は広くてよいときに四畳半的な狭さを打ち出してくるのか。

「なに、ふたりって知り合いなの?」

 尋ねた錦に、「うちの会社で半年前まで芹澤さんも働いていたんだよ」と美波が説明する。

「ほんと、こんなとこで再会すると思わなかったなー」

 かわいらしい顔にくすっと意味深な笑みをたたえて、美波は目を細めた。

 土屋美波のことはよく覚えている。

 世の中にはひとの不幸は蜜の味という人種がいる。美波がそれである。

 恋人だった不倫男の歯を折り、日魚子自身も頬を腫らす大惨事が起きた数日後。社内でまことしやかに取引先の社員と日魚子の不倫と破局の噂が流れた。どこから漏れたのか。日魚子は好意をうまく隠せるタイプではないので、知る人は知っていたのかもしれない。それが腫らした頬と包帯を巻いた手の異常さと結びついて、ぱっと噂として広がった。噂を流していたのは美波である。

 ――かわいそうだよね芹澤さん。佐々木さんが妻子持ちって知らなかったんだって、殴られたんだって、ひどいよね。

 一見、日魚子の側に立った噂話は、実際はぜんぜん日魚子の側に立ってなんかいない。妻子持ちの男とうっかり不倫をしたうかつな芹澤日魚子。同情できる人間はかなり少数派だ。ふつうはだいたい馬鹿な女だなって嘲笑う。確かに馬鹿だった。でも、他人に馬鹿だとか尻軽だとか言われる筋合いはない。――と言えるほど強かったらよかったのだけど、あのときの日魚子は弱っていたので、心が出社拒否をして、結局会社は辞めた。退職届は爽が書いて送った。

「芹澤さんのこと、ずっと心配してたんだよ。就職できたんだねー」

「うん、おかげさまで」

「錦くんとおなじ会社で働いているの?」

「うん、この春から」

 あぁこの話さっさと終えたい。美波もはやく爽に夢中になってくれないだろうか。

「でも芹澤さん、俺らと歳変わらないよね? 辞めたって何かあったの?」

 話を切るタイミングを狙っていたのに、あろうことか錦が乗ってきた。爽に女子ふたりを持っていかれてずっと暇そうにしていたから、話し相手が欲しかったのかもしれない。

「えー、わたしから言うのはちょっとなー」

 美波が頼んだ赤のサングリアが運ばれてくる。

 ちょっとなー、と言いながら、サングリアを一口飲むと、美波は断りもなく口をひらいた。

「芹澤さんね、当時取引先のひととつきあってたんだけど、そのひとがまあ、なんというか……ね」

「なに、やばいやつだったの?」

「奥さんと子どもがいたの、しかも小学生の」

「うわ」

 不倫じゃん、とまでは錦もさすがに言わなかった。

「ひどいよね、そいつ芹澤さんも騙してたんだよ。最低」

 睫毛を伏せるその仕草のしらじらしさに辟易として、日魚子は白ワインを飲み干す。この子はいつもこう。こちらの側に立つふりをして、平然と足蹴にしてくる。

 噂を流された直後、女子トイレで偶然一緒になった美波に、『なんで?』と訊いたことがある。『なんでひとの噂をばらまくの。それって楽しい?』と。

『噂?』

 美波はふしぎそうに瞬きをしたあと、『なにか怒ってる? 芹澤さん』と首を傾げた。ほんとうにふしぎそうな口ぶりで――男に捨てられたあげく同僚にまで突っかかるようになってかわいそうだなこのひと、という憐憫が彼女のぽってりした口元には浮かんでいた。

 他人の不幸は蜜の味、という人種は少なからずいる。

 べつに美波との仲がとくべつ険悪だったわけではない。廊下で会ったら、すこし世間話をする程度の相手だった。でも美波は、自分の目が届く範囲の人間にはできるだけ不幸でいてほしいのだ。なぜだろう。不幸な人間を見ると、すこしだけ安心するからだろうか。そういえば、退職したあと、爽の部屋で日がなお昼のワイドショーを見ていた頃、日魚子は人生のお悩み相談を見ているのがすきだった。自分もたいがいしくじっているが、出てくるひとも皆しくじっているので、まあ生きていてもいいか、と思えた。ああいうかんじか。

「結局、芹澤さん会社に来られなくなっちゃって。ほんとかわいそうだった」

 対面の大地がなんともいえない顔で、ビールを飲む。さすがにクロケッタは食べていない。

 爽に夢中な女子ふたりはこちらの話に気を留めたようすはなく、爽はきづいているかもしれないけれど、こういうとき助け舟を出す性格ではない。あーあ、と思った。大地と話せるはじめての飲み会だったのに、とんだケチがついてしまった。ツイていない。取引先の社員と不倫して会社を辞めた女子なんて、ふつう恋愛対象には選ばない。聞き流そうって思っていたのに、なんだかむかむかと腹が立ってきて、日魚子は空にしたグラスをテーブルに置いた。

「かわいそうじゃないよ」

 と言う。

「べつにかわいそうじゃないから」

 錦と美波が眉をひそめてこちらを見た。借りてきた猫のように黙っていた日魚子が急にしゃべったのでびっくりしたのかもしれない。でも止まらなかった。たぶんずっと日魚子は誰かに叫びたかった。

「失敗はしたけど、わたしはかわいそうじゃない。勝手に外から決めつけないで」

 うそだ。かわいそう。かわいそうだ、わたしは。とってもかわいそう。

 運命だと思っていた相手に騙されていたあげくぶん殴られて、もちろん殴り返したし歯も折ってやったけど、でもわたしだって、わたしだって心も身体も傷つけられた。この世にはもっと楽々しあわせになってる男女がいっぱいいる気がするのに、なんでわたしばっかりだめなんだろう。わたしがわるいから? 

 いつも恋に落ちると、好きの気持ちで頭がいっぱいになって、冷静に相手を見ることができなくなってしまう。きれいな恋なんてできた試しがなくて、「日魚子」を求めてもらえたことも本当は一度もなくって、いつも簡単に騙されて、捨てられて、なにがいけなかったんだろうって途方に暮れる。わたしはほんとうにみじめでかっこわるくて、だけども、わたしのこのかっこわるさについてわたし以外の人間が何を饒舌に語れる?

 こちらの異様な空気を感じ取ったらしく、しん、とテーブルが静まり返る。爽に夢中になっていた女子たちまでも、何かを囁きあいながらこちらを注視している。視線が痛い。

 ふ、と爽が鼻でわらった。

「何飲む?」

 テーブルのうえに置いてあったメニューをひらいて、美波に差し出す。

 美波のサングリアが空になっていた。

「俺はビール」

「あ、じゃあわたしも……」

 ほっとした風に美波が顎を引く。メニューを差し出してくれた爽が、美波には救世主に見えたことだろう。うるんだ茶の眸がじっと爽の横顔を見つめる。その眸にじわじわと赤と表現したくなる熱が滲みだす。爽はどんな状況でも、三秒で女を落とすらしい。


 十時過ぎに飲み会はおひらきになった。

 おのおの最寄りの地下鉄や在来線に別れる頃、爽はいつの間にか美波と消えていた。よりにもよって土屋美波。趣味がわるくないか? 

 ひとりマンションに帰宅した日魚子は部屋の扉を閉じるなり、「あー!」と叫んだ。

 ソファに倒れこみ、「あー!」「あー!」「あー!」「あー!」と叫んでごろごろと悶えまわる。

 あれはいったいなんだ。かわいそうじゃないって。

 他人の不幸は蜜の味の土屋美波に、マウントし返してどうする。しかもマウントの方向がおかしい。わたしはかわいそうじゃない、と言い張る女は、存在そのものがかわいそうだと言えなくないか? ぜんぶなかったことにして消えてしまいたい。

 しかも、沢渡と錦と大地は日魚子の同僚である。前職の離職の原因である不倫までバラされてしまったし、あしたからどんな顔をして会ったらいいのかわからない。順風満帆に見えた会社生活は、今日で終了したらしい。今度こそ健やかなオフィスラブを手に入れようとがんばっていたのに、大地とどうにかなりたいって欲目を出したせいか。それにしたって、なにも今日現れなくてもいいじゃないか、土屋美波。ほんとうに日魚子はヒキがわるい。

 しばらくソファのうえで身悶えたあと、さすがに転がりまわるのにも疲れて、クッションに顔をうずめる。はー……と深いため息が落ちた。

 ――今日で終了かな、わたしの恋。

 年季ものの腕時計をはめた大地の左手首を思い出した。

 いいなあって思ったのだけど。もっと話してみたかったし、できればコーンクリームコロッケを一緒に食べたかったし、あのなだらかな手首のラインをなぞってみたかった。きっととても、しあわせな気持ちになったはずだ。

 幸いというか、今日は金曜であしたは休みだった。

 化粧を落とすのも面倒くさくて、爽のために買っておいた日本酒をあけてしまう。爽の部屋にはしゃれた切子硝子のお猪口があるけれど、日魚子は持っていないので、コップに注いで適当に飲む。パソコンをつけて、映画配信サイトを立ち上げた。

 日魚子はへこむと、「タイタニック」を見る。

 ジャックにもローズにも感情移入はできなくて、ローズに去られてしまう婚約者のキャルがいちばんすきだ。金で必死にローズを振り向かせようとあがくキャル。でも真実の愛には敵わない。「タイタニック」は最後にみんな海に沈むところがいいと思う。みんな等しく沈む。宝石もパンも、愛もそれ以外も。……肝心のキャルは沈めずに生き残ってしまうわけだが。それもいい。

「タイタニック」ノーカット版を二周したところで、隣でドアが開閉する音がした。

 爽が帰ってきたらしい。時計を確認すると、いつの間にか朝の六時だった。タイタニック号の沈没を二度見届けて徹夜してしまったらしい。

 換気のためか、ベランダをあける気配がしたので、日魚子は台拭きを干すそぶりで、自分もベランダに出る。日魚子と爽の部屋のあいだには、防災用のパネルがはまっている。ベランダに腕を置いて、ちょっと伸びあがるように隣の部屋をのぞきこむと、ちょうど網戸のまえにいた爽と目が合った。

「おはよう。朝帰りですか、深木くん」

「そちらは徹夜明けですか、芹澤さん。酒臭いですよ」

 日魚子の嫌味に、胡散臭い微笑みをたたえて言い返す。まだ着替えていないのか、爽はシャツにスラックス姿だった。室内干ししていた洗濯物のうち、まだ乾ききっていないものを外に出す。

「そうちゃんって、女の趣味わるいよね」

 この時間に帰ってくるということは、土屋美波とどこかで寝たのだろう。爽の女性関係についてとやかく言うつもりはないけれど、今朝はくさくさしていたのでつい刺してしまう。

「そう? 芹澤さんの男の趣味のほうがやばいと思うけど」

 それはまあ、そのとおりでもあったので、日魚子は口を閉ざした。爽には日魚子の人生のかっこわるい部分をぜんぶ知られているので、こういう口喧嘩では絶対に勝てない。

「俺はわりとすきだけど。ああいう性根がわるい女。一周まわると、わかりやすく見えなくもない」

「そうちゃんの趣味がわたしにはまったくわかりません」

 一周まわらなくていいだろうそこは。

「まあ、安心したら。あいつ、ひなのまえにはもう現れないから」

「……え、なにそれ」

 不穏な言葉が飛び出て、日魚子は眉根を寄せる。

 爽は首をすくめただけである。口にはできない想像が駆けめぐり、冷や汗が滲んだ。

「土屋さんになにかへんなことしてないよね」

「へんなことって?」

「あーるじゅうはちのビデオになりそうなやつ」

「痴女かよ」

 爽は朝から口がわるい。

「俺は性癖ふつうだから。芹澤さんと一緒にしないでくれません?」

「わたしだってふつうだよ」

「ひなは相手が縄を持ち出したら、喜んで縛られるタイプだろ」

「それは時と場合によるよ」

「よるのかよ」

 呆れた風に言って、爽は部屋に引っ込む。

 ベランダ用のつっかけサンダルに朝のひかりが当たっている。足にまとわりついてきたマンチカンのきなこを抱えあげて、爽がガラス戸を締めようとする。

「そうちゃん」と日魚子は爽の背中に呼びかけた。

「コーンクリームコロッケつくってよ」

「なんで」

「失恋したから」

 あの甘ったるいコーンクリームがたっぷり詰まったコロッケが食べたい。帰りにコンビニで買って帰ろうと思ったのに、売ってなかったのだ。コーンクリームコロッケと失恋がちゃんと結びついたのかはわからないが、爽はきなこを抱えたまま、つめたく鼻でわらった。

「いやだね。シャワー浴びて寝る」

 そしてガラス戸は閉ざされた。

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