02 三秒で恋に落とす男のモノローグ

 深木爽ふかぎそう、二十五歳。営業部社員。

 特技、三秒で恋させる。ただし女の敵。


  ◇◆


 コーヒーカップを置くときのすこし粘着質な音で、あぁ来るなって予感した。

 来る。恋が落ちてくる。

 深木爽には、ひとが恋に落ちる瞬間がわかる。踏切が降りるまえの警報音みたいに。

 社用メールを打ち終えたタブレットを閉じて、ことさらゆっくり目を上げる。大学生くらいのカフェ店員がうかがうように爽を見ていた。突然目が合ったことに驚いたのか、一度視線を外したあと、また何かを期待するような顔で見つめてくる。くりっとした小動物っぽい茶色の眸が、刺すような熱をたたえている。

「お仕事ですか?」

「うん。でもいまからは休憩」

 置かれたばかりのカップを持ち上げ、「君はいつもいるよね」と続ける。

「え、きづいてました?」

「そりゃあね」

 かんかんかんかんと窓の外では踏切の警報音が鳴っている。恋はいつも相手から落ちてくる。きちんと遮断機を下ろして警報音も鳴らしているのに、それでも勝手に落ちてくるおまえがわるい、と爽はいつも思っている。


「総務部に新しく入った女子、かわいいよなー」

 外回りから帰ってきた新庄しんじょうがデスクに鞄を置きつつ言った。

 五月に入り、にわかに気温は上がっている。だがノーネクタイ、ノージャケットにはまだ早い。ネクタイを緩め、新庄は年中卓上に置いている扇風機を回した。

芹澤せりざわさんですか?」

「あー、そんな名前の子。偶然、給湯室で一緒になったら、俺のぶんの珈琲も淹れてくれた。いい子だよな」

 珈琲を淹れたくらいで好印象になるんだから、新庄はちょろい。というか、珈琲くらい自分で淹れろ、ひとに淹れさせるなと思う。爽は飲食店以外で他人が淹れた飲みものなんか口にしたくない。

 爽より七つ年上の新庄は三十二歳の主任で、去年結婚した。学生時代からつきあっていた彼女とだという。十年以上もひとりの女とつきあい続けるなんて、爽にはちょっと考えられない話だ。

静香しずかさんに報告しておきますよ」

 新妻のなまえを持ち出すと、「おい、やめろ馬鹿」と新庄は顔をしかめた。

 口ほどに怒ってはいない。おおらかな新庄は、仕事のほうもおおらかで、ちょいちょいミスをかますが、人柄ゆえか周りがうまくフォローするので、なんとなくうまく回っている。話好きだが、同僚以上のつきあいは求めてこないし、まあまあつきあいやすい相手といえる。

 爽は社内恋愛はしない主義なのだけど、新庄のまえに組んでいた相手は爽がつきあって別れた女が大学の後輩だったらしく、しかも一方的に相手に惚れていたらしく、なにかにつけ爽の揚げ足を取り、用意していた資料をわざと忘れてきたり、わざとまちがった打ち合わせ時間を教えたり、ちまちました嫌がらせを繰り返したので、正直面倒くさかった。

「そういや大地は、芹澤さんに社員証拾ってもらってたよな」

 話を振られて、ちょうど出がけだった大地はじめが「あーあれ、ほんと助かりましたよ」とくしゃっとわらった。

 大地はじめは爽の同期である。卒業後ストレートに就職した爽とちがって、大地は三年ほど別の企業で勤めていた転職組なので、歳はちがう。ただ同期のよしみでため口を使っている。大地は動物にたとえると、豆しばに似ている。本人はきりっとしているつもりで、どこか抜けている。顔もなんとなく豆しばっぽい。

 日魚子ひなこは最近、大地はじめに夢中である。

 きっかけは、大地が落とした社員証だった。偶然拾った日魚子が恋に落ちたのである。社員証を持って訪ねてきたときには大地とは会えなかったものの、翌日、大地が総務部にお礼に言いにいったので面識ができたらしい。以来、廊下ですれちがうたび、にこにこと笑顔で会釈をしている。すれちがう回数が多くないか?と爽は思う。大地も新庄もおおらかなので、きづいていない。日魚子のことだから、大地の予定をチェックしたうえで、すれちがいそうな時間を狙っているにちがいなかった。日魚子にはストーカー的な資質がある。

 芹澤日魚子は、かわいい、と評される容姿をしている。

 爽は文鳥っぽいと思っている。白くてすべすべした羽をくるっと閉じて、桜色の嘴をひらきたそうにしている。従順で、鳥籠のなかにしまっておきたくなるかんじ。うさぎやリスみたいな、いかにもかわいい系の女子より、日魚子は男にモテる。正確に言うと、女を鳥籠にしまっておきたいような、ちょっとやばい男にモテる。本人はきづいていないので、たびたび大惨事である。

 昔からああだっただろうか。ああ、というのは、ちょっと隙があって、ぱっと見は従順そうで、だめな自分も受け入れてくれそうな甘さを醸している、今の芹澤日魚子。

 幼い頃はもうすこし生意気なお転婆娘だった気がするけれど、だいぶ記憶が薄い。

 日魚子と爽は、おなじ街でおなじ日に生まれた。

 爽には五つ離れた姉がいるけれど、日魚子もまた爽にとっては生まれたときからあたりまえにいる家族みたいな存在だった。というか、園児の頃はほんとうに家族だと思っていた。ちがうよ、日魚子ちゃんはよそのうちの子だよ、と姉に教えられたときは衝撃を受け、じゃあひなと結婚すれば家族になれるな、と思った。爽はだいぶあほの子だったのだろう。

 小学三年生のとき、日魚子の母親と爽の父親が不倫した。

 ぽろぽろと泣く日魚子の横で爽が考えていたのは、もし日魚子の母親と爽の父親がくっつきでもしたら、俺とこいつは姉弟になるのか?ということだった。その頃はさすがに日魚子と家族になりたいなんて本気で考えてなかったけれど、なぜか最初にそんなことを思った。

 結局、日魚子の母親と爽の父親はあっさり別れて、だけども爽の母親は夫がゆるせず、苦しんで、嘆いて、もう別れればいいのになかなか別れられなくて、ふたりが離婚するにはその後、実に五年の月日がかかった。日魚子にとっては、あれは瞬間的な刺し傷だったのかもしれない。爽はむしろ、ひとはこんなにもひとりの人間を見放すまでに時間がかかるのかと、そのことにぞっとする日々だった。

 だから、場当たり的な恋愛を繰り返すようになったのか?

 なんとも言えない。ただ中学を経て、高校に上がる頃にはすでにこういう性格ができあがっていて、手頃な女子をとっかえひっかえしては適当に遊んでいた。

 爽は飽きっぽい。女に関しては燃え上がるのは一瞬だけで、直後、だいたいもうどうでもよくなっている。一度関係を持ったら次はない。いまはもう少しつきあう相手を選ぶけれど、高校時代は校内でそんなことを繰り返していたので、爽の悪評はすさまじかった。すさまじいのに、女のほうは絶えることなく爽に落ちてくる。

 彼女たちは言う。わたしは。わたしだけは、と。

 その幻想を丁寧に踏みしだく。誰かへのあてつけみたいに。

『そうちゃんさ、おねえさんが心配してるよ。ずっと家に帰ってないって』

 あれはずいぶん前。高校生の頃。

 当時の日魚子は、若い教師に恋をしていた。

 生徒に人気の爽やかなスポーツマンだったけど、十七歳女子に手を出している時点でやばいやつである。でも日魚子のほうはぜんぜんわかってなくて、これは運命の恋なんだと真面目な顔で言う。爽は、もって三か月だろうな、と見立てている。あの教師に卒業まで日魚子とつきあい続ける度胸があるようには思えない。日魚子が誰と恋をして、誰に捨てられたって、爽には関係のないことだけど。親がいっとき不倫しただけの他人だし、昔はともかくいまはもうほとんどしゃべらないし。

 だから、日魚子とクソ教師がこそこそと資料室に入っていくところを見かけたときも、知らないふりをして通り過ぎてから――戻って資料室のドアを蹴りつけた。がん、と大きな音が廊下にこだまする。日魚子を雑に扱うクソ教師にも、それを運命の相手だなんて言ってる日魚子にも殺意が湧いた。でも、爽には部屋に踏み込む理由がひとつもない。そのことにもむしゃくしゃする。

 蹴りつけられたドアにびびったのか、日魚子はわりとすぐに教室に戻ってきた。

 高校の下校時間を五分ほど過ぎていた。秋の夕陽は透明に翳り、足元には群青の影がひたひたと広がっている。爽は手すりに腕をのせて、半分あけた窓から下校する生徒たちを無為に眺めていた。教室には爽しか残っていなかった。白いカーテンがひるがえる。爽にきづいたらしい日魚子が、あっ、とつぶやき、ばつが悪そうな沈黙をあけた。

『……そうちゃんさ、おねえさん心配してるよ。ずっと家に帰ってないって』

 今日は帰るんだよね、と訊いてきた日魚子に、『深木くん』と爽は言った。

『――って呼べって言わなかったっけ、芹澤さん』

『あ、……ごめん』

『芹澤さんはこんな時間までなにしてたの?』

『えーと』

 日魚子は困った風に視線をそらした。日魚子のブレザーのリボンの片方がほどけている。どうして日魚子はこんなに隙があるんだろう。爽は辟易とする。

『あの資料室』

 手すりにのせた腕をするりとほどいて、爽は日魚子に向き直った。『壊れてる、鍵』

 面食らった風に日魚子は瞬きをした。

『見てたんじゃん。あー、外からキックしたのもそうちゃ……深木くん?』

『さあね』

『したんだ』

『女子高生に手を出す教師って最悪だと思うけど』

 自分の最悪さは棚にあげて爽はつぶやいた。

『たまたま歳がちがって生まれてきちゃっただけだよ』

『ふーん?』

『なに』

『おまえは言うことやることぜんぶ軽いんだよ』 

 明確な悪意をもって告げると、さすがに日魚子もむっとした表情になった。

『それ、深木くんに言われたくないんだけど。家帰ってないんでしょう。いまは誰の家に転がり込んでいるの? 相手はひとり? ふたり? もっと?』

『芹澤さんには関係ないだろ』

『ねえ、そうちゃんはいったい誰に復讐しているの』

 投げかけられた言葉に、刺されたような気持ちになって視線を跳ね上げる。

 復讐。それはとても的確な言葉だった。

 復讐。ずっと復讐をしている。

 でも、相手はわからない。幼い爽の世界をぶち壊した父親に対してなのか、ずるずると重ったるい愛を引きずる母親に対してなのか、あるいは単純に日魚子の母親に腹を立てているのか、それとも。……それとも。

『誰だと思う?』

 手すりから離れ、教室の出入り口のあたりに立っている日魚子のまえに立つ。

 中学校の三年を経て、以前は同じだった目の高さは、爽のほうが二十センチくらい高くなった。手を伸ばして日魚子のブレザーのリボンをつかんだ。互いに引き寄せられるように見つめ合う。

 一秒。

 芹澤日魚子は三秒で恋に落ちる。

 二秒。

 深木爽は三秒で恋に落とす。

 三秒。

『……なに、そうちゃん』

 俺たちは見つめ合っている。

 互いに透明な、決して病まない熱をたたえて見つめ合っている。

 落ちない。落ちないな。落ちられないんだな。俺たち、きっと十年後も。

 そのことを確かめて、安堵して、落胆する。

『なんでもない』 

 潰したリボンから手を離す。それから腰をかがめて、もう一度よれたリボンに手を伸ばすと、結び直した。

 小学三年生のとき、爽が喪ったもの。父親。円満な家庭環境。親の手料理。……ナナカマドの下で肩をくっつけあった女の子と恋をする未来。

 

 あの教師は結局、三か月で別れたのだったか。

 爽ももう覚えてはいない。修羅場になったやつだとさすがに記憶に残っているので、日魚子の恋愛遍歴では穏便に別れたほうだったのだろう。

 パソコンの電源を落とした爽は、今日の夕飯の献立を考える。昔のことを思い出していたら、姉がときどき作っていたカレーが食べたくなった。

 鞄に突っ込んでいた私用のスマホを確認すると、メッセージが一件入っていた。昼間にカフェでアドレスを交換した店員の女子からだった。手癖のような言葉で返信しつつ、まだ部屋に残っている大地に目を向ける。

 社内コンペ用の資料準備で、大地は最近、連日残業続きである。今日もまだ残るつもりなのか、そばにコンビニで買ってきたらしいカップラーメンと惣菜パンが転がっている。中学高校とラグビーをやっていた大地は大喰らいである。といっても体形は豆しばのようにしゅっとしている。

「なに?」

 こちらの視線にきづいたらしく、大地が目を上げた。

 カフェ店員あてのメッセージを送信して、「べつに」と爽は言った。

「まだ残るの?」

「あ、もしかして手伝ってくれるわけ?」

「しない。帰る。今日カレー」

「なにカレー?」

「鯖カレー」

 しぶいな、とからりと笑って、大地はパソコン画面に目を戻す。

 大地はじめにはちょっとした借りがあって、爽が新庄のまえの同僚に嫌がらせを受けていた頃、あすの朝イチで準備しなければいけない資料がぜんぶ修正前のバージョンで刷られていたことがあった。めずらしく準備を手伝ったと思えばこれである。百部。きづいたとき、時計は二十三時過ぎだった。せせこましい。嫌がらせの質がせせこましい。とはいえ、ぜんぶ刷り直していると終電は逃す。舌打ちしつつ、コピー機の電源を入れていると、帰りがけだった大地が声をかけてきた。

 これぜんぶ刷り直し、と資料をどさっと紙ゴミ入れに落とすと、大地は噴き出した。

 やられたなーと腹を抱えて笑い、デスクに引き返した大地を見たとき、あっこいついいやつだな、と思った。爽はいいやつは苦手である。世の中にときどきいる、ほんとうに、ただ、いいやつ。こういうやつは無敵だ。

 大地はあの頃は彼女がいたけれど――確か一年前に別れた、と言っていた。

「大地って、いまも彼女いないの?」

「いないなー」

 世間話だと思っているらしく、大地は適当に返事した。

 日魚子に恋をしたら、こいつも歴代のクズ男に名を連ねるのだろうか。

 面倒くささと微かな興味が引きあい、爽は一度置いたスマホを取った。


 鯖の水煮缶とトマトで作った鯖カレーは、日魚子には好評だった。

 今日は日本酒ではなく、地ビールをあけている。つまみに作ったタコわさと豆苗の塩昆布和えがよく合う。カレーを食べ終えたあとも、残ったビールでタコわさをつまむ。

「大地さんってさ、どういう女の子が好みかな?」

 女性向けのファッション誌をめくりながら、日魚子が尋ねた。

 一度恋に落ちると、日魚子の頭はそいつでいっぱいになる。いつもの風景である。

 膝のうえにのせたマンチカンのきなこを撫ぜながら聞き流していると、

「こっちとこっちだったら、どっち?」

 初夏のコーデ特集のページを日魚子が掲げた。左ページのボブカットの女子はシャツブラウスにチノパンのきれいめな服装をしていて、右ページの毛先をくるんと巻いたロングヘアの女子はフェミニンなブラウスにタイトスカートをはいている。

 ちなみに日魚子はいまはゆるく巻いたセミロングを後ろで結んでいる。三番目の彼氏との不倫事件で、三か月くらい廃人になっていたので、誰の好みも反映していない、素の芹澤日魚子である。リボンのタイを結んだブラウスに紺のガウチョパンツ。

 爽はパソコンに向かっている大地の横顔を思い出した。

「俺が知るか」

「えー、じゃあコーデは? フェミニンなのとコンサバと」

「芹澤さんならなんでも似合いますよ」

「はい、適当。そうちゃんは? どっちが好き?」

「ひとの服とかどーでもいいな」

 素直に答えたのだが、日魚子は不満そうだった。

 キリムのうえで伸ばした素足を緩慢に振る。ブラウスとガウチョパンツには見覚えがあったけれど、ストッキングは脱いで化粧も落としてきたらしい。契約社員の日魚子と正社員の爽は、勤務時間に一時間くらいズレがある。爽の残業がなく、予定もない平日の夜、日魚子は夕飯を食べにやってくる。独り暮らし歴が長いし、日魚子も家事は一通りできるはずだが、ごはんはひとに作ってもらうほうが好きらしい。ひとりぶんもふたりぶんも変わらないので、適当に作ってやる。日魚子は必ず酒を持ち込む。材料費は爽がもって、酒代は日魚子がもつ。だいたい、とんとんである。

「鯖カレー、彼女さんにつくってあげないの?」

「なんで?」

 爽は恋人は家にあげない主義である。

 相手の家にもあまりあがらない。外で遊んで、外でキスして、外でやることぜんぶやる。

 つきあった女たちはたぶん、爽が料理をつくるってことも知らない。爽は生活感がないらしい。風みたいで、きづいたら消えてそうだと、言われる。やることやっておいて、生活感もなにもない気がするが、ちがうのか。

「そうちゃんのいいとこって、鯖カレーとかきなこにぐっと詰まってる気がするんだけど」

 爽は日魚子を見た。

 真剣な表情をしている。日魚子は爽とちがうので、常に直球である。

 きなこの頭に置いていた手を離して、ローテーブルに頬杖をつく。探るように日魚子を眇め見たあと、ふふんと口の端に笑みをのせた。

「おだてたって、大地に取り次いだりしませんよ、芹澤さん」

「……ばれましたか」

「わからいでか」

「でも、飲み会設定するって言ったじゃない」

「しようか?って訊いただけだけど」

「それは、ずるくないかなあー?」

 眉根を寄せて、日魚子は息をついた。

 とはいえ、それ以上せっついたりはせず、雑誌にふむふむと付箋を立てている。日魚子は基本的に努力家である。方向性がおおいにまちがっていたりするので、ときどきおかしなことになっているけれど、学生時代から自分の恋に関して本気で爽を頼ったことはない。

 ――運命のひとに出会うの。そして、愛し愛されるの。絶対に。

 爽は知っている。ナナカマドの下で泣いたあの日から、日魚子はこの世界に喧嘩を売っている。あの日自分を傷つけた男と女にカウンターパンチを喰らわせようとしている。芹澤日魚子はいつだってがむしゃらに恋をしている。重くて、きもくて、ドン引くような懸命さで。もう壊れることがない愛が、欲しいのだ。

 頬杖を倒して、日魚子のリボンのタイに指を絡める。

 紙面に落としていた目を日魚子が上げる。

 一秒。

 芹澤日魚子は三秒で恋に落ちる。

 二秒。

 深木爽は三秒で恋に落とす。

 三秒。

 ――……どちらともなく噴き出した。

「見すぎ」

「そうちゃんが先に見てきたんでしょ。にらめっこでも始めたのかと思った」

「じゃあ、あいこか」

「もっかいやる?」

「いや、もういいや」

 絡めたリボンの結び目から指を抜く。

 透明な、決して病まないぬるい熱は、十年経っても変わらないままだ。こんなにもたやすくひとは恋に落ちるのに、この女だけは爽のほうに落ちてこない。胸がすくような、それでいて最後通牒を突きつけられるような、妙な気分だった。日魚子だけは爽に落ちなかったから、爽も日魚子だけは手を出さなかったから、いまも変わることなく、となりで鯖カレーと地ビールを飲んでいるわけだけども。

 この関係は果たして病んでないといえるのか?

「来週の水曜。駅前のスペインバルに夜七時」

 空になった缶を潰して、爽はおもむろに言った。「呼んでおいた、大地」

 瞬きをした日魚子がみるみる顔を輝かせる。

「そうちゃん……!」

「お礼は一升瓶で」

「とっておきのを贈るよ!」

 ここから日魚子の運命の恋がはじまるのか、はじまらないのか、爽にはわからない。

 大地はいいやつだが、日魚子に落ちるかわからないし、日魚子のダメンズ製造機の性能のほうが上回るかもしれない。それでもいつか、この女が愛なき世界に復讐を遂げるすがたを見てみたいと思ってしまった。爽もたいがい気狂いなたちである。

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