病的な恋のロンド

本編

01 三秒で恋に落ちる女のモノローグ

 芹澤せりざわ日魚子ひなこ、二十五歳。契約社員。三度の転職経験あり。

 特技、三秒で恋に落ちる。ただし男難の相あり。


  ◇◆


 今日は朝からなんだか来るような気がしていた。

 来る。恋がやってくる。

 芹澤日魚子には、恋の予感がわかる。朝の天気予報みたいに。

 爪先にくっついた花びらをかがんでつまんでいたら、後方から足音が近づいてきた。エッグトゥの革靴は、端に微細なかすれ傷がいくつも走っている。でも革の色は艶やかだ。磨いて、ちゃんと手入れをしているひとの靴だ、と思ったら、きゅんと胸が高鳴った。

 立ち上がった日魚子の横を靴の持ちぬしが通り過ぎていく。

 急いでいるのか、わき目もふらない。ぽかんと男を見送ったあと、道に落ちた社員証を見つけて拾いあげる。赤のストラップが取れていた。

「……わぁ」

 この間、三秒。もう恋に落ちている。


大地だいちさんって、どこの部署のひとですか?」

 拾った社員証を片手に、昼休憩を終えた同僚の水城みずきに尋ねると、「だいち?」とふしぎそうに訊き返される。日魚子は写真が入っている社員証を水城に見せた。それで思い当たったらしい。

「営業部じゃない? 営業部の大地はじめ。拾ったの?」

「ビルの入口のとこで。急いでいるっぽくて、声をかけそびれてしまいました……」

 届けてきます、と席を立つと、「営業部どこかわかる? 芹澤さん」と水城が尋ねる。

 日魚子より五つ年上で主任の水城は面倒見がいい。一週間前に契約社員として総務部に配属されたばかりの日魚子を何かときづかってくれる。前職では職場の人間環境が泥沼で、人間不信気味だった日魚子にとって、この環境こそがすでに天国である。

 芹澤日魚子、二十五歳。

 大学を卒業したあとふつうに就職して――この会社が四社目。

 じつに一年と続かず、三度の離職をしている。この会社だって、三度目の離職になって、廃人になりかけていた日魚子に呆れた幼馴染が紹介してくれたのだ。

 離職の理由は人間関係もとい、痴情のもつれである。

 一度目もそうだし、二度目もそうだし、三度目もそうだった。

 世に男のヒキがわるい女がいる。日魚子がそれである。

 いつも出会って三秒で恋に落ちる。告白する。つきあう。ここまではよい。日魚子だってひととして守るべき倫理と道徳はわきまえている。不倫と浮気はしない。

 だけど、ここからだいたい泥沼ルートに入る。日魚子は男のヒキがわるい。加えて、恋愛というものが生み出す快楽物質に弱い。いつも理性が働かなくなって、相手の男にずぶずぶに流されてしまう。

 一度目の解雇は、「勤務時間中に不埒な行為を行っていたため」宣告された。言い訳のしようがない。勤務時間中じゃなくていちおう休憩時間だけど、会社の給湯室で相手と「不埒な行為」をしていた。片手で足りないくらいの数。

 幼馴染には「なんで給湯室なんだよ、ホテル行けよふつうに」とつっこまれた。でも、そういうはなしじゃない。目が合ってキスするまでのあいだにホテルなんて無機質な単語は差し挟まれない。

 でも全面的に日魚子がわるいので、おとなしく会社は辞めた。ただ、相手のほうはおとがめなしだったのは、なんでなのか。誘ってきたのは芹澤日魚子。相手の言い分を受け入れ、社内ではそういうことになったらしい。世のなか理不尽すぎると思う。

 次の恋人は、日魚子も学習してやさしくて誠実そうなひとを選んだ。選んだ、と思っていたのに、蓋をあけたらやばい宗教にはまっているやばい男だった。霊水を二リットルボトルで毎月、箱買いさせられた。そのうち謎の壺や謎の石まで買っていた。

 わずかばかり貯めていた貯金はあっという間に底をつき、もうお金がないから箱買いできないよって打ち明けたら、知らない名前の金融を勧められた。あとでちゃんと調べたら闇金だった。迷ったけれど、でも霊水を買うのをやめたら別れを切り出されるだろうなって思ったらどうしたらいいかわからなくて、とりあえず十万を――借りようとしたところで幼馴染にぼこられた。彼氏のほうもぼこられた。一発殴られただけなのに、彼氏は赤ちゃんみたいに泣いて、以来二度と日魚子のまえに現れることはなかった。

 ただし、日魚子はやばい宗教にはまって闇金に手を出したという噂が流れてしまい、手は出してないのに、と思いつつ、試用期間は打ち切られた。謎の壺と謎の石は幼馴染がリサイクルセンターに売った。霊水のほうはふたりで川に流して捨てた。もうやばい宗教の彼氏はつくらない、と神さまに誓うつもりで告げると、ふつうそんなやつ彼氏にしないから、と幼馴染は冷ややかな声で突っ込んだ。

 三番目の解雇の理由となった恋人は、日魚子が下手を打った。

 やばい宗教にはまっていない、誠実でやさしそうで、仕事もできる年上の、取引先のシステムエンジニアだった。だったのに、じつは結婚していて小学生の子どもまでいた。彼の入浴中、スマホロックを解除してこっそりメールをチェックしていたら、写真フォルダに家族写真がいっぱい保存されていたのを見つけてしまったのだ。

 このとき、日魚子は猛烈に怒った。これまでの人生でたぶんいちばん怒った。相手も相手でスマホを勝手にのぞくなんてルール違反だ、最悪だ、と言い立てた。彼氏は風呂上がりで素っ裸のまま、殴り合いの喧嘩になった。喧嘩は日魚子が勝った。折った相手の歯を握り、わんわん泣きながら帰って、でもまだ怒りがおさまらなくて、マンションの窓ガラスを破壊していたら、幼馴染がぎょっとして止めにきた。日魚子は血まみれだったし、殴り合いの喧嘩のせいで顔がお岩さんみたいになっていた。幼馴染はマンションの管理会社に連絡を入れてから、日魚子を病院に連れていった。「重い」「きもい」「ドン引く」「顔がホラー」と百回くらい罵倒された。

 こうした恋愛遍歴を繰り返すなかで、社会に出て得たわずかな友人はすべて失った。ちなみに学生時代の友人は卒業前に失っている。我ながら胸を張れることをあまりしていないので、しかたがない。こんなに嫌な思いばっかりしているのに、もう恋なんてしたくない、と思わないどころか、今日もまた三秒で恋に落ちてしまうあたりが、日魚子が日魚子たるゆえんである。病はなかなか治らない。

 ――大地はじめ。社員証に書かれた名前を復唱する。

 だいちはじめ、だいちはじめ。声にしてみる。胸がぽかぽか温まってくる。

「楽しそうですね、芹澤さん」

 だいちはじめの復唱に夢中だったので、若干反応が遅れた。声をかけられたほうを振り返ると、青磁のマグカップを手にした男が人好きする笑みを浮かべてこちらを見ていた。

 ブルーグレーの三つ揃えを嫌味なく着こなし、きれいに磨かれた革靴とベルトは同系色。シャツは一分の乱れもなく糊が張っていて、マグカップを手に持つたたずまいだけでも絵になる。顔の造作も整っているが、全体としてなにか有無を言わせぬ雰囲気がある男だ。

「そこ、邪魔なんだけど」

 にこやかに微笑みながら言うこの男は、深木爽ふかぎそう。日魚子と同い年だが、待遇はちがって正社員。所属は営業部。

 入社したてのとき、深木くんには気をつけてね、と水城にそれとなく忠告された。

 いわく深木爽は月単位で彼女が変わる。泣かせた女は数知れず。貢がせた贈り物は山のよう。でもぜんぶ身体めあて。顔はいいし仕事もできるけど、女の敵。絶対にちかづいちゃいけない。

「失礼しました、深木さん」

 一歩引いて道をあけると、「なんの用?」と深木が訊いた。

 ふしぎと艶のある声である。

「営業部に大地さんっていますか?」

「いるけど、今出先。仕事のことなら、代わりに聞いておこうか?」

「仕事というか、落としものを見つけたので」

「なに?」

「社員証」

 日魚子がストラップ付の社員証を差し出すと、深木は眉を下げてぷっと噴き出した。

「落とすかふつう。漫画かよ」

 日魚子からストラップを受け取って、「ありがとう、芹澤さん」と深木が微笑んだ。そこですぐには足を返さず、廊下に軽く背をもたせて、珈琲を一口飲む。ひとを魅了する顔のなかで唯一わらっていない目が日魚子を見つめている。

「どう? 慣れました? 仕事」

 深木は新任研修の応援に駆り出されていて、各部署の概要やビルの案内をしてくれたので、いちおうそれで面識がある。ということになっている。

「はい。水城さんがいろいろ教えてくれます」

「へえーいろいろね。たとえば?」

「電話の応対とか会計システムの使い方とか……おいしいランチの場所までいろいろですよ」

「あと営業部の深木には気をつけろとかね」

 あっけらかんと深木は続けた。

 ずばりそのとおりだったので、一瞬顔を引き攣らせてから「イエ、ソンナ」と否定する。棒読みである。「イエイエ、ソンナ」と深木は棒読みをまねした。この場では強く出られない日魚子で遊んでいる。

 適当に絡んですぐ飽きたらしく、「じゃあ」と深木はきびすを返した。日魚子のほうもとくに話を続ける理由がないので、「はあ、じゃあ」とうなずく。大地に会いたかったけれど、出先ならしかたない。

「今日のつまみは桜海老のしんじょうですよ」

 去り際に深木がひとりごとのように言った。


  ◇◆


 爽がつくった夕飯は、桜海老のしんじょうに生姜ごはん、肉豆腐、ミョウガときゅうりの漬物だった。これに故郷の日本酒がつく。爽は日本酒にあうごはんを作るのが得意で、さっと手際よく何品も用意する。

 ローテーブルに料理を並べ終えた爽は、飼っている猫のマンチカンに餌をやっている。爽が中学生のときから飼っている老猫である。

「水城さんに言ったら?」

 持ってきた日本酒をさっそくあけながら、日魚子は言った。

「拾ってきたマンチカンを十年飼ってるって」

「は? なんで?」

 爽が顔をしかめる。会社では完璧なスーツで武装しているけれど、帰宅した今は無地のパーカーにスウェットで隙がありまくりである。パーカーのフードがひっくり返っているので、直そうと手を伸ばしたら、自分できづいて戻した。

「あのひと猫好きだよ。仲良くなれるかも」

「なんできなこをだしに仲良くなんの。俺はひとんちの猫には興味ない」

 老猫のきなこは、最近咀嚼する力が弱って、やわらかめのごはんでないと途中で吐いてしまう。以前きなこが体調を崩してごはんをぜんぜん食べられなくなったときも、爽はドライフードをふやかしてちょっとずつスプーンであげたりして世話をしていた。

 爽は口はわるいが、弱っているものを放っておけない。

 日魚子も弱っていると、だいたい悪態をつきつつ助けてくれる。一度目の不埒な彼氏のときホテルに行けよと呆れ顔でつっこんだのも、二度目の宗教かぶれの闇金男をぼこったのも、三度目の不倫男との喧嘩のあと、頬を腫らした日魚子を病院に連れていったのも爽である。

 友人だったひとたちはみんな日魚子を見放したが、爽だけはなんでかずっと友だちでいてくれる。面倒見がいいし、料理はおいしいし、マンチカンにも愛情深いし、いい男だなあ、と思うのに、爽はただ一点、だめなところがあって、女の敵である。

 深木爽は月単位で彼女が変わる。泣かせた女は数知れず。貢がせた贈り物は山のよう。身体めあて。貢ぎ物以外はぜんぶ事実である。きなこなら甲斐甲斐しく世話を焼くのに、女は飽きるとぽいぽい捨てるのである。それさえなければ、誰とでもしあわせになれそうなのに、もったいないなあと思う。

「ね、あの子どうなった? 犬のブリーダーの彼女」

「だれだよ」

 いえ、一か月前にあなたの彼女だったはずのひとですけど。

 爽の女性遍歴なんて興味ないけど、ブリーダーの子は偶然、爽と街でデートしているときに鉢合わせてしまったのだ。その場では他人のふりをしておいた。帰ってから、「あの子が今の彼女?」って訊いたら、「うん、犬のブリーダー」って言っていた。爽のニットには確かに犬の毛がくっついていて、日魚子はくしゃみを連発した。

 このようすだとまた別れたんだろう。

「わたしが言うのもなんだけど」

 みょうがの漬物はぴりっと咽喉にしみる。

 ローテーブルの対面にあぐらをかいて日本酒に口をつけている男に、日魚子は言った。

「そうちゃんも、もうちょっとひとりとの愛をさ? 育んだほうがいいよ。そんなんだと畳のうえで死ねないよ」

「窓ガラスを割った芹澤さんには言われてもなー」

 お猪口を置いて、爽は真ん中に並べた大皿から桜海老のしんじょうを取る。爽はお箸の使い方がきれいだ。指が長くて手が大きい。すらっとした指先に木のお箸がおさまっている。

「あれはびっくりしたよね。ちょっと切った手から噴水みたいに血が出て」

「殺人現場みたいになってたもんな、ひなの部屋」

 くくく、と爽はわらった。家では、ひな、と日魚子を呼ぶ。

 日魚子と爽は同郷の幼馴染で、ふたりして上京して、マンションの部屋も隣同士だ。だから、あの夜も女の子と遊んで帰ってきた爽が、部屋の窓ガラスを叩き割っている日魚子を発見した。すごい音が鳴っていたから、爽が帰ってこなくても警察に通報されていたかもしれないけれど。

 ――こんなのはひどい。あんまりだ、あんまりだよ。

 窓ガラスに叩きつけた突っ張り棒を片手に、日魚子は叫んだ。

 ――不倫、だなんて。どんな嘘よりもひどい。わたしには。

 日魚子と爽は、おなじ街でおなじ日に生まれた。あの頃から家も隣同士だった。

 小学三年生のとき、日魚子の母親と爽の父親が不倫した。日魚子の母親はシングルマザーだったけど、爽の家には両親がいて、ふたりともわかっていたうえでの不倫だった。なら隠し通せばよかったのに早々に露見して、ふたりは一晩だけどこかに逃げようとしたものの結局戻り、近所にはあっというまに噂が広まった。

 ふたりの愛が醒めるのは早かった。噂が広まる頃には別れていた。爽の家は不倫が原因で離婚になったし、養育費がらみで長くもめていたので、あとのほうがずっとずっと大変だったわけだけど。

 親たちの不貞を知った日、雪のかぶった庭のナナカマドの下で、日魚子は泣いた。

 ――こんなのはひどい。あんまりだ、あんまりだよ。

 嗚咽を繰り返していると、探しにきた爽が隣に座って肩をくっつけた。ダッフルコートを着た爽の頬は、白く透きとおっていた。そこに涙の痕はない。雪の重みに耐えかねたナナカマドが枝を揺らして、さらさらと雪を地面に落とす。

 さらさらさら。あれは信じていた愛が壊れる音だった。

 なんて軽やかな音なのだろう。わたしたちのあいだにあったもの。こんなに簡単に壊れた。壊れるようなものだった。わたしはなにもわるくない、と思うのに、他方でわたしと母のあいだにあったはずの愛の粗悪さに泣きたくなってしまう。

「――今日さ、恋に落ちたんだよね」

 ごはんを作ってもらった代わりに引き受けた洗いものをしながら、日魚子は言った。

 爽は膝のうえのマンチカンをごろごろと撫ぜている。あの手を見るたび、爽はとっかえひっかえする彼女たちより、よほどやさしい手つきできなこを撫でているんだろうなと思う。

「大地だろ」

「……なんでわかるの?」

「顔に書いてある」

「えっ、そんなにわかりやすいかな、わたし」

「飲み会、設定してやろうか」

 本気なのか冗談なのか、いまひとつ判別がつかない口調で爽が言った。

 拭いていたお皿を置いて、「うん、して。して!」と日魚子は赤ベコみたいに首を振る。爽は呆れた風に日魚子を見た。爽が思っていることはなんとなくわかる。両手で足りないくらい回数、恋愛で失敗しているのに、まだやるのかこいつ、と思っている。たぶん。

「だって次の恋こそ運命かもしれないじゃん?」

「へー」

「今度こそ、健やかなオフィスラブを手に入れる」

「給湯室でやらかした女がねー」

 ぷぷっと爽は嫌味たらしくわらった。

「あれは若気の至りとやらですよ。大丈夫。もうやらない」

「ひなの学習力、信用ならないけど。だいたい、三秒程度で相手の何がわかんの?」

「わたし、勘がいいからね」

「ないだろ、見る目。絶望的に」

「大丈夫だってば。今度こそ、運命のひとだよ」

 爽は軽く目を瞠らせたあと、いじわるく口の端を上げ――ふっと笑みを逃した。

「まあ、がんばって」と一言言う。

 爽はふしぎな男だ。日魚子は三秒で恋に落ちる。でも爽に恋に落ちたことはない。だから、爽だけは関係が続いている。女の敵なのに。

 爽も女といえば、ぜんぶ親の仇みたいにぽいぽいつきあっては捨てるし、簡単に関係を持つし、たくさん泣かせてきたのに、日魚子にだけは手を出さない。闇金のときは本気で怒ってくれたし、血まみれの手にはためらわずに自分のハンカチを結んだ。そういう爽のすべてがいとしい、と日魚子は思う。恋はしないけれど。

 とりあえず今日も爽のごはんはおいしかった。あした大地さんに話しかけてみようと思いながら、マンチカンを撫ぜる爽のとなりで日本酒をじっくりあじわう。

 故郷の雪解け水でつくった日本酒は甘さ控えめ、ぴりりと辛い。

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