04 爽、おせっかいをする。

 大地がおかしい、ときづいたのは社用車の中でのことだった。

 いつもは適度に新庄の会話にのってくる大地がぼんやりしている。社用車のハンドルを握っているのは爽で、助手席が大地、後部座席が主任の新庄だった。頬杖をついた大地は車窓から流れる景色を目で追っている。考えごとをしているらしい。

 物思いにふけるような仕事内容だったか? 爽は今日の行き先を思い浮かべる。

 爽が勤めているのは、中堅の食品メーカーである。とくに乳製品が強く、最近では育児ミルクや栄養食品でも売り上げを伸ばしている。年に数回、各メーカーや生産者が参加して行われる展示会のブース設営が今日の仕事だった。

 バンの後方には展示会用の乳製品を詰めたダンボールが積まれている。爽は別件で朝に出先で打ち合わせがあったので、最寄り駅まで大地と新庄がバンを回してくれた。そこで運転を代わったのだが、その時点で大地はもうこんなかんじだった。

「総務部の芹澤さんってさ」

 カーナビに表示されたルートを確認していると、おもむろに大地が言った。

「深木の知り合い?」

「……あー、新任研修で面識はあったけど。なんで?」

 ほんとうは新任研修どころか、入社前からずっと隣室で暮らしているのだが、日魚子と爽ははじめに話し合ってそういうことにしている。同郷の幼馴染だなんてバレたら、いろいろ面倒だ。

「このあいだの飲み会で、なんか知り合いっぽく見えたから」

「そうかな」

「おい、まさか芹澤さんとまでつきあってないよな、おまえ」

 後ろから茶々を入れてきた新庄に「ないですよ」と肩をすくめる。

「まだ」

「まだってなんだ。ああ、芹澤さんにはこいつの毒牙にはかからないでほしい……」

 給湯室で珈琲を淹れてもらってから、新庄は日魚子がお気に入りである。珈琲一杯で安いものだ。しかし、大地の鋭さにはちょっと驚いた。日魚子とは席が遠かったし、特段ふたりで会話もしていなかったと思うのだが、よく見ている。そこまで考えてからふと思いつくことがあり、新庄が煙草休憩で車外に出たタイミングで鎌をかけてみることにした。

「でも、このあいだの飲み会、あれは引いたよな」

 顔を上げた大地に、なめらかに続ける。

「妻子持ちの男と不倫って。本人はひらきなおってるし」

「そう? ああいう風に言い返せるのってすごいと思うけど」

 きょとんとして大地は言った。

 こういうとき、大地は周囲に無駄におもねったりしない。おかしいと思ったことはおかしいと言うし、いいと思ったことはいいとためらわずに口にする。どうやら大地は心の底から、美波に言い返した日魚子をすごいと思ったらしい。人間というのはどこに響くかわからないものだ。

「でも意外」

「なにが?」

「深木は不倫とか妻子持ちとか気にしないタイプに見えたから」

「俺はひととしての倫理は守って恋愛するので」

「倫理かー」

 すこしもの言いたげな間が空いたが、大地は苦笑するにとどめてミネラルウォーターのボトルをあけた。今日の大地はやっぱり反応が鈍い。爽はこういう機微には鋭いほうなので、すぐにぴんとくる。日魚子が気になっているらしい。もしかしたらそうじゃないかと思って、鎌をかけてみたのだが、あたりだった。

 ふうんと自分のぶんのペットボトルのキャップをひねりながら、爽は考え込む。

 爽は基本的には他人の人間関係には干渉しない主義だ。誰かと誰かの仲をとりもつなんてお節介はまず焼かない。先日の飲み会を設定したのだって、ただの気まぐれだった。大地が日魚子によろけたらちょっと面白いかも、という程度の。ほんとうに一発でよろけたので、逆に気分は萎えた。どうせ日魚子は大地にコツコツアタックを続けるのだろうからもう放っておこう、と思う。

 ――失恋したから。

 そういえば、本人は失恋した気になっていたのだったか。

「まずい」

 つらつらと栓のないことを考えていると、煙草休憩から帰ってきた新庄が急に蒼褪めた。後方のバンに積んだダンボール箱をあけて見せながら、「中身ちがうの持ってきた」などと言う。

「え、マジすか」

 大地が顔色を変えて反応する。

「外からバンの後ろ見てたら、ダンボール箱ちがうじゃんって。たぶん俺が来週使うほうまちがえて積み込んだ……」

 爽は朝から出先に直行してしまったので、バンに荷物を詰めたのは大地と新庄である。新庄は抜けたところがあるからありえるが、大地が確認を怠るのはめずらしい。新庄があけたダンボールとは別のダンボールを開封するが、やはり入っていたのは今日使うのとはちがう商品だった。具体的にいえば、今日出展予定だった乳製品が育児ミルクと介護用流動食に変わっている。やばい。

 とりあえず営業部に電話をかける。誰か休日出勤している社員がいればと思ったが、コールを二十数えても出る気配がないので通話を切った。

「だめですね。誰も出ない」

「こっちも誰も反応しない。今坂本に電話かけてるけど――」

「坂本さん、いま出張中ですよ」

 行動予定表を思い出して爽が伝えると、「え、どこ!?」と新庄が振り返る。

「確か沖縄」

「海越えてるじゃねえか!」

 あー!と新庄が頭を抱える。

「とりあえず物は会社にあるから、いったん引き返して――」

 すでに埼玉の展示会場間近だ。ここから引き返すと、開始時刻に一時間は遅れる。出だしの一時間、出展物が何もないというのは痛い。とはいえ、すぐに連絡がつく人間がいない以上は大地と新庄に本社に引き返させて、そのあいだに爽がひとりで会場の設営を済ませておくしかないか。

 ――と考えていて思いつく。

 爽は着信履歴から見知った番号を呼び出した。

 通話ボタンを押すと、コール三回ですぐにつながる。

『はい。なに、そうちゃん?』

 日魚子は電話を取るのが早い。

「芹澤さん」と爽は言った。

「車の運転ってできる?」

『……ねぼけてんの?』

 爽と日魚子は新潟の下越地方、冬になると雪がどさどさ降る港町出身である。故郷は完全な車社会だ。車の免許を持っていない奴のほうが少ない。日魚子もポンコツの軽自動車を持っていて、爽はときどき買い出しで車を借りている。

「ねぼけてない」

 爽は手短に今の状況を日魚子に伝えた。話を聞いているうちに日魚子にも爽がどうして電話をかけてきたのかわかったらしい。

『つまり、新庄さんがまちがえて置いてきちゃったダンボールを会場に運べばいいってこと?』

「そう。スピード違反にならない程度に至急で」

『……わかった。じゃあ、お礼にコーンクリームコロッケ作ってね』

「それよりいいもの拝めるかもよ」

『え?』

 日魚子が次の言葉を発するまえに、爽は通話を切った。

「総務部の芹澤さんが届けてくれるらしいです」

 新庄に声をかけると、「はあ?」といぶかしげな顔をされた。

「芹澤さん? つうか、なんでおまえ芹澤さんの番号知ってんの?」

「このまえ飲み会やったときに交換したんですよ。とりあえず持ってきてくれるらしいから、俺らは会場行きましょう。大地運転代われる? 俺は芹澤さんに会場の場所とか送るから」

「わかった。芹澤さんにありがとうって言っておいて」

「あとで自分で言えば?」

 車の鍵を大地に渡すと、助手席のドアをひらく。

 べつに同じことを頼める女子ならほかにいくらでもいた。お礼に晩飯でもおごればそれでチャラだ。けれど、とっさに爽は日魚子の番号を選んだ。緊急事態とはいえ、自分にしてはめずらしく気を利かせている。大地にこれ以上腑抜けられると仕事に支障が生じるからか? 動機は謎だ。

 会場でひととおりの設営を終え、開始十五分前になったところで日魚子から着信が入った。

 会場に着いたという。新庄にその場を任せて、大地と駐車場に向かう。

 日魚子のスカイブルーの軽自動車はすぐに見つかった。トランクからダンボールを台車におろしていた日魚子がこちらにきづいて、ぱっと顔を上げる。着替える暇がなかったのだろう。今日の日魚子は、家で着ているようなワイドパンツに無地のニットだった。化粧はたぶんしてないし、セミロングの髪は後ろで適当にゴムでまとめてある。汗がひかる顔に満面の笑みをひろがる。

「そう……深木くん! こっち!」

 ――恋。

 ひとが恋に落ちる瞬間を爽は何十回目かに見た。

 爽でもない。日魚子でもない。

 爽のとなりの、ちょっと目をみひらいている男である。

「あれっ、大地さんも……いたの?」

「いたよ」

 噴き出した大地が、日魚子の抱えた荷物を横から持ち上げる。

 持て余した風に空になった腕を振り、日魚子はうれしそうに頬を染めた。台車にダンボールをのせて運ぶ大地の背中を見つめつつ、「そうちゃん」とそっと耳打ちする。

「ありがと。めっちゃいいもの拝めた!」

「どういたしまして」

 肩をすくめて、スマホをポケットにしまう。

 なんだかうまくいきすぎている気がする。日魚子ならそれも運命だというのかもしれないけれど。


「ほんとありがとう、芹澤さん! すごく助かった!」

 イベント終了後、設営の後片付けまで手伝った日魚子に、大地は感謝しきりである。

 その女はただ気立てがいいんじゃなくて打算があるぞ、と爽は思うのだが、大地の目にはそう映っていない。とはいえ、日魚子が駆けつけてくれて助かったのは爽も同じだ。ここに来るまで日魚子は大地が現場にいることも知らなかったわけであるし。

「今度、飯おごらせて。な、深木」

 声をかけてきた大地に、「や、商材まちがえたの俺じゃないし」と爽はそっけなく言う。

「ふたりで行けば?」

「いや、ふたりだけっていうのも……」

「行きましょう! わたし、おいしいクリームコロッケのお店知ってます!」

 ためらいを見せた大地に、すかさず日魚子が押した。

「あー、よく覚えてたね」

 眉を下げてわらった大地がスマホを取り出す。アドレス交換を始めたふたりはそのままにしておき、爽は新庄がいる喫煙所に向かう。予期せぬ休日出勤の見返りに、煙草一本ぶんくらいはふたりきりにしてやってもよいだろう。


 駅前のスーパーでコーン缶を買う。

 牛乳や卵は家にストックがあるからそれを使えばいい。クリームソースを作る手順を脳内で思い描く。コロッケはときどき作るが、コーンクリームコロッケは作ったことがはなかった。ソースづくりといい、揚げる手間といい、いかにも面倒くさそうなメニューだ。それでもなぜか作る気になってしまったのは、日魚子がコロッケコロッケと毎日連呼していたせいか。

 爽が住むマンションは駅から徒歩十分ほどだ。

 街灯がともる川沿いの道を、食材の入った買い物袋を提げて歩く。今日はナントカムーンの日だった。ビルのあいだからのぞく月は巨大で、赤く染まった色といい、不気味さすら感じる。

 やがて月のそばに見慣れたマンションが見えてくる。爽の部屋のとなりも灯りがともっていた。あのポンコツ車とともに、日魚子は一足早く部屋に帰ったのだろう。

 日魚子と大地がうまくいったら――となんとなく足を止めて、爽は考える。

 いちぬけだな、という言葉がよぎった。いちぬけ。日魚子はいちぬける。それを頭では望んでいるのに、爽はかくれんぼでひとり取り残された子どもみたいな気持ちになってしまう。爽は一生いちぬけられないってわかっているからだろうか。

 まあ、これがはじめてではない。いつもそうだ。日魚子は恋多き女なので。

 口の端に苦笑を滲ませて歩き出す。そのとき、ポケットに入れた端末に着信が入った。アドレス帳にはない、けれど確かに見覚えがある番号が画面上に表示される。通話拒否のボタンを押そうとして、一瞬ためらう。

 爽にとっては忌まわしい、それはある女からの電話だった。

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