奈良迷い道

@tonegawa_abiko

手紙

美しき山々 美しき海、美しき和歌山

和歌山よ 永遠に


 伊沢さん、神谷さん。私は今、大変悩んでいます。行くか行くまいか、何か良い

方策がないか、誰に相談したら良いのか。

また、たとえ誰かに言っても信じてくれないであろうし、逆に頭がおかしくなった

と疑われてしまうのが目に見えています。警察に届ける訳にもいきません。

私も、もし誰かがそんな話を私に告げたら、ばかげた話だと笑って相手にしないで

しよう。


 きっかけは、私の和歌山への単身赴任からなのです。突然1週間前に内示があり、

7月7日七夕の日に和歌山に赴任してきました。

結婚をして短大生と小五の子供がいる身には、家族と離ればなれの単身で赴任せざ

るをえなかった。和歌山での単身生活は炊事、洗濯は自らしなければならない。

その内だんだんに慣れてくるであろうと思いますが、大変です。

 5日以上休みがあれば東京の家に帰るけれども、2日や3日しか休みがない場合

は、和歌山市から計算上は我が家へ帰る事ができるが、往復にかかる時間の割には

短時間しか居ることができないし、疲れてしまうので、帰らず和歌山市の寮に静か

にしているほかありません。

しかし、2日も連休があると、何もせず寮にいる事は苦痛です。

そこでせっかく和歌山にいるならば、休みには、少しでも大阪、京都や奈良、和歌

山等の名所旧跡を歩いてみようと思った。歴史は大変好きだったので、今まで行っ

たことのない神社仏閣旧跡を中心に尋ねてみようと思った。

勿論、最初に和歌山を紀三井寺、根来寺、粉河寺。それに高野山も行きました。

京都は、高尾の神護寺、西明寺、高山寺、それに岩清水八幡宮等を尋ねた。


 伊沢さん、神谷さん。その悩みは、奈良を回った時から始まったのです。

その時は、夏休みで家族が全員和歌山に遊びに来たので、家族旅行を兼ねて、皆で

奈良の飛鳥をサイクリングしながら高松塚古墳、石舞台、飛鳥寺を回ったのです。

ところが飛鳥を観光している間、何か私は、異様な気分になってきました。

何故か一度も来た事のないこの地が、以前、来た事があるような、見た事があるよう

な不思議な感覚がしてきたのです。

石舞台からの麓の景色、飛鳥寺から見た回りの山々、雰囲気、じっとして見ている

と体に震えが来るほどでした。

学生時代、また結婚する前まで、いろいろな山や、地方へ行ったことがあるので、

どこかその場所に似ていて、それがそのような感情にさせるのかと、いろいろ思い

浮かべますが何故だか、どこだったのか思い出せませんでした。


私はそのような感情を気どられないように、笑ってごまかしながら飛鳥のあっち

こっち散策し回りましたが、妻は、その時、多少、私の態度に不信感をもったよう

です。「今日のあなた、いつもと少し違う」と言われました。


 秋に入り、私は「山の辺の道」という奈良の古道を天理から桜井まで歩くことを

思いついた。日本書記にも、のっている我が国最古の官道で、今で言う国道です。

あの聖徳太子、蘇我氏、物部氏、柿本人麻呂など奈良時代に活躍した人々が歩いた

道が、現在も残っているのを知り興味を持ったからです。

 雲一つない秋晴れの日、平日で朝早い為か、私以外、山の辺の道を散策する人は

おらず、奈良公園や飛鳥に比して大変静かであった。

官道といっても、今の国道をイメージしないで欲しい。人が一人、二人やっと通れ

る位の細い山道である。

私は、この道を歩いて始めて、奈良を歌った古歌によくでてくる言葉の、あおに

よしとか、青垣山と言う意味が分かりました。

それほど周りの山々は青々と自然のままに残り、美しく、山々は高く、まぶしいほ

ど光り輝きそびえていました。

私はその美しさに、たいへん感動しました。

 

 私はその時、再び、私は以前、絶対この地、この場所に来たことがあると悟った

のです。

それとともにだんだんに体が興奮してくるのに気がつきました。


 石上神社を過ぎてから私は、左側に見える山々を仰ぎながら何もかも忘れて夢中

に前へ前へと進みました。そして、だんだん深く狭い山道に入ると山の辺の道から

離れ、竹と杉、檜の大木に覆われて、他より黒く深く茂っている山の方向へ道なき

道を選びました。

私には、絶対そこに何かあると感じたからです。

何かにひっぱられるような、見えない気流の渦の中に吸い込まれるように、体が前

へ前へと進みました。後で考えると、自分の意思であの時は、動いたのではなく、

逆らうことが出来ない、ある力によって動かされた。体が一定の方向に自然に動か

されたと言うのが正しかったのかもしれない。

猛烈な強い風が吹き、時々飛ばされないように木につかまりながら、30分、40分位、獣道のような、あるような、ないような道を歩くと、突然展望が開け、割合大きな建物の後ろに出ました。

それは何やら古風な社殿風の建物でした。しかし建てられてからまだ新しく、木々

も香り、柱も光り美しかった。

私は、奈良のガイドブックに、こんな建物は掲載さていないし、この辺りは何も神

社仏閣は無いはずだと考えながら、建物の横を通り前へ出て、よく見ますと、建物

は神社のようでした。

 建物の前方に太く高い丸太の柱を2本立て、その間を太い綱を3本緩く編んだも

のを渡してあり、鳥居のような感じです。大変古いタイプの神社の様でした。

戸が開いており、中には榊のような草木で祭ってあり、きれいに手入れがなされて

いました。

榊のような葉についた水滴や、お供えの饅頭のような食物がまだ新しい所から、つ

い数時間前になされた感じです。

 私は、最初、変わった形式の社殿だが、なにか懐かしさを感じさせる建物だと思

いながら眺めていましたが、はるか遠い何かが、頭の中からわきあがって来るよう

な感覚がして、しばしその場所で、たたずんで考えました。

わき上がる感情と、何故だろうかという、疑問が早く解けるように混乱した心を集

中しようという気持ちの入り組んだ複雑な心境で、物音も人の気配も全く感じるこ

とができませんでした。

一時、茫然自失していたようです。


その時ふと、後ろから女性に声をかけられたのです。

振り返ると突然その女性は、私に向かって飛びついてきたのです。

泣き声の為、言葉はあまり理解出来ませんでしたが、夢中で抱きついてきたのです。

私も、彼女を見て体中がジーンとしびれてくるのを感じました。

と言うのは、その女性は、最近たびたび夢の中に現れて、いつも、何か訴えるよう

な悲しいまなざしをして無言で私を見つめていたのです。

私はその度に目が覚め、誰だろうか思い悩みつつ、その女性に魅せられていきまし

た。

まさにその女性だったのです。


薄青の細長に、上は薄黄色した朝鮮の民族衣装のような服で、襟と袖は紫で縁取り

され、紫の紐で後ろから前に結んだ、古い中国か朝鮮の服装に似た格好をした女性

です。

「生きていた------。再び会えるのをいつもお祈りしていた------、------神様の

おかげです-------」と涙でぬれた顔を、何度も強く私の頬につけてきたのです。

私は何と言ってよいかわからず、唯、ぼう然としていました。その時、いつの間

にか、少し離れた所に、60才台の白い細長の衣服を着た男女の二人が立っていまし

た。その二人も涙を浮かべて、我々二人を見ていました。


伊沢さん、新谷さん。私はこの時、まだ気が付かなかったのですが、私は、大変な

所に来てしまったのです。予想をもしなかった運命が待っていたのです。信じられ

ないででしょうが、私はあの奈良時代の大化の改新が行われる直前の時代、蘇我入

鹿、中大兄皇子や中臣鎌子(藤原鎌足)がいる時代に、来てしまったのです。

本当なのです。

私はこの女性、この社(磯久延神社)の神官の娘、名は磯久延郎女(シキクエノ

イラメ)と言います。と結婚していたのです。

しかも二才半の男の子もいたのです。

 


 その後、いろいろありましたが、不思議なくらい簡単にこの時代の環境や、皆

と打ち解けました。しだいに遠い過去の記憶のような思いが、甦ってくるようで、

感動を覚えるくらいです。

ある日、服装を換え変装し、都の飛鳥にも行ってきました。この目で見てきたの

です。素晴らしい大きな都です。

現代の飛鳥は、はっきりと言って田舎ですが、奈良時代の飛鳥は都会です。

飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)、法興寺(今の飛鳥寺)など、大きく美しい宮や、

いろいろ寺や、社が建っています。古墳も造られたばかりで、手入れもされ美しく

輝いています。

現代の私達が想像した以上に、この時代の人々は技術も能力もあるようです。

その後の律令制度で人々が苦しんだ時代と異なり、一般の人々はのびのびと明るく

暮らしています。


 ところが私は大変な立場になっていたのです。

私は一度殺されそうになった? 殺されたのかもしれない。

私がある密命をもって中臣鎌子を従者と二人で尋ねて行く途中、蘇我氏の一族と思

われる者に襲われ、傷つき倒れながら明日香川に落ち流されていったと、負傷した

けれども何とか逃げ帰った従者が磯久延神社の私の義父母に告げたのです。

私を親子縁者総出で、明日香川の川沿いあらゆる所探したそうで、結局見つからず、

多分死んだのであろうとあきらめ、そろそろ葬式をあげようとしていたのです。

ところが、私の妻の磯久延朗女が絶対に生きていると言い張り、反対し,親もどうし

たらよいのか困っていた。そこに今、私が帰って来たのです。


 その密命とは日本の歴史にかかわる大変な使命です。

この時代の蝦夷(エミシ)、入鹿親子の蘇我氏一族と次の天皇(大王と呼んでいる)

になるかもしれない、中大兄皇子や中臣鎌子を中心とする一派が、互いにしのぎ合

い、どちらが権力を握るか争い、一発即発の緊迫した状態でした。

 ところがある企てが蘇我入鹿によって立てられていたのです。

その秘密の企てとは、蘇我入鹿が板蓋宮にて祈年祭(としごいのまつり)の儀式の

日に、参列する中大兄皇子ら反対する一派を御神楽の行われる機に全員、捕えて抵

抗する者あらば、殺してしまおうという企てです。

蘇我入鹿は既に山背大兄皇子を殺している。次に中大兄皇子を殺し、地位を固め最

後には大王になろうと考えているようです。

 この秘密の情報は蘇我入鹿に使えている、ある舎人よりもたらされたのです。

この舎人は仏教が伝来して以来、その流布に力を入れている蘇我一族の動きを監視

するため、反仏派の神祇伯(神祇、祭祀をつかさどる)の一族より依頼され、磯久

延一族の縁者を舎人として密かに潜入させた者です。

しかし、その後,この舎人も行方不明です。多分、私と同様殺されたか、捕らわれて

いるのではないだろうか。

 私達は、歴史で中大兄皇子と中臣鎌子(藤原鎌足)等が、蘇我入鹿を倒し、大化の

改新が行われたと習った。しかし、今は逆に蘇我氏が、中大兄皇子派を倒そうとし

ているのです。

磯久延神社の親は、何とかしてこの企てを阻止しようと、中大兄皇子らが、その日

出席しないよう、またこのような重大な企てが行われていると告げるため私が使者

として向かわせたのです。

ところが途中で、襲われ、舎人も行方不明の今、もう防ぎようがない。義父母たちは

残念だが傍観することしかないと決めたようです。

しかし、歴史、大化の改新という事実を知っている私にとっては、唯、傍観していて

よいのだろうかと、大きく悩まされることになってしまったのです。

 もし、このまま傍観して中大兄皇子らが蘇我氏に滅ぼされ、大化の改新も行われな

かったとしたら、蘇我氏の一族はますます力を得、これを機に権力を握り大王になっ

てしまうであろう。

日本の歴史はその後、どのように変わって行くのだろうか。

私は、あくまで成り行きに任せ、傍観しててよいのだろうか。

私が殺された後、再び私がこの時代に何らかの事情で派遣されたのには、この企て

を防げという、ある力、意図、使命があるのではないだろうかと私には感じてくる

のです。


 私は悩みました。

磯久延の親は、あきらめた、もうよいと言いますが、大きな歴史に対する変更挑戦

がなされようとしている事実、それを単純に忘れ、無視してよいのか、考え苦しみ

ました。

再び、密かに中大兄皇子等を尋ねる事は、前以上に危険である。反蘇我派は蘇我氏

一族によって事実上監視されているため、近づくのは大変困難のようです。

また試みて失敗したならば恐らく、今度は磯久延一族の命も危険になるでしよう。


その結果、私は一時、この時代から退避出来ないかと考えたのです。

そして期待しながら社殿の後ろへ戻り、来た方向目指し歩くと再び現代に無事戻っ

てこれたのです。


 今の石上神社や天理の大きなコンクリートの建物がある町を見て、私は、ほっと

しました。

途中、ある店の前の販売用新聞を見ました。「山の辺の道」に向かった日付と同じ日

です。

六日間、あの時代で過ごしたのに、夕方になっていましたが「山の辺の道」来た日に

戻れたのです。

ほっとしました。一週間近く奈良の時代に居て現代に戻ったら、遥か異なった時間で

あったとしたら大変なことになります。たとえ一週間だったとしても勤務している会

社は無断欠席になり、私が行方不明になったと大騒ぎになります。

まず安心しました。

そこで急いで駅前の本屋に駆け込み、日本の歴史の本を見ました。やはり「大化の改

新」は変わらず実行されておりました。

私が何もしなくてもよかったのです。

 しかし、現代に戻った私には、依然、悩みが変わらず残っています。

あの、時代に戻り、何とかして中大兄皇子、中臣鎌子に会い、蘇我氏の陰謀を伝え

防がなければならないのか?

それとも大化の改新は行われた歴史の既定の事実なのだ。蘇我氏の陰謀は無かったの

だ。または何らかの事情で防げたのだと、何もせず忘れてよいのだろうか。

悩みました。

それに私を待ち続けてくれている、愛しの磯久延郎女、吾が子。それを考えると私

は夜も眠れないほどです。仕事は他の人に気付かれないよう何とか、こなしています

が、誰かに相談しても、きっと笑われるか、単身で来ている為、気をまぎらわす事

ができず、とうとうあいつは精神に異常きたしてきたと思われるでしょう。

戻って、密命を何んとしてでも果たすか。しかし大変な危険が待っていると思わ

れる。

もう全てを忘れ去り、現代で生活していればよいのだろうか----。今、私は大変苦し

い立場です。


 私はほとんど寝食忘れて考えた末、このような結論を立てました。

再びあの時代へ行き、再度中大兄皇子、または中臣鎌子に会うことを試みてみよう。

大化の改新は、当然の事実として記録されている。したがって行かなくても歴史は

変わらないであろう。

しかし逆に言って、行って防いできたから歴史、大化の改新はあったとも言える。

このまま現代に残っていると、いつまでも永久に苦しみ悩み、後悔するだけだと思

うのです。

歴史には埋もれたままの部分、後世から見えない、語り伝えられていない影の部分、

裏の部分があります。直ちには大きな歴史の流れには影響がないが、しかし後世に、

あるいは今いるわれわれの時代から前の歴史に、些細な部分かもしれないが、影響

を与える役割、しておかなくてはならない部分があるのかもしれない。

歴史の大きく滔々と流れる本流と、脇に小さな支流があり、その支流が後々になっ

てから、また本流にそそぐ様になったり、支流が多く集まり、大きな流れになるこ

ともある。

私を過去から現代へ、現代からあの時代に戻させた、何かの大きな意志があり、あ

る役割を求めているのかもしれません。

私はそのとおり果たさなければならない運命、義務なのかもしれません。

磯久延一族も私が動くことを、口には出さないが期待しているようでした。

そのためにも行かなくてはならない。

 歴史を守るために、

 またあの愛しの磯久延郎女に会うためにも--------。


伊沢さん、新谷さん。

また山の辺の道へ行き、あの神殿を通り、あの時代に行ってきます。

もしかすると永遠に現代に戻れないかも知れません。

失敗するか、成功するか。

 もし私がこのまま現代から消え、戻って来なかったら、蒸発した、あるいは自殺

したとか、皆が騒ぐかもしれません。

伊沢さん、新谷さん。

あなたたち二人だけが私の行方不明の真の理由を知るのです。

しかし誰にも言わないで下さい。言っても笑われるだけでしょう。

現在の妻にも同じような文面の手紙を書き郵送しました。直接、言うことは出来ま

せんでした。多数の生命保険に入り、許して欲しい、行くことを詫びるとともに、

二人の子供を頼むと書きました。

妻にはたいへん申し訳ないと思っています。


明日、会社を休み、ふたたび行ってきます。たぶん二度と現代には戻れないような

気がします。役立つかどうかわかりませんが、武器も持っていきます。

大阪に行き、ガードマンなどが持つ28cmから77cmに伸縮する警棒、催涙ス

プレー、それにスタンガンを購入しました。前のように簡単に傷つき倒されないよ

うに、腕に装備する鎧のような防護金具も買いました。


伊沢さん、新谷さん。この手紙を読んでいるころ、もう多分、私はいないでしょう。

さようなら

皆さまのご多幸を祈ります。



    大和は国のまほろば

    

    たたなづく青垣

    

    山こもれる大和しうるはし


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