幸せになって

増田朋美

幸せになって

幸せになって

梅雨時らしく、のんびりした曇りの日であった。時々、何処かの地方で大雨が降ってきて、そのあとで又すっきりと晴れてしまうという事象をテレビでは放送していた。まあそれが当たり前になってしまうんだろうが、それではいけないという人もいて、意見の対立が続いているから困ったものである。

「あった。あそこだ。あそこなら疲れた気持ちを癒してくれるって、前に聞いたことがある。」

田沼武史君が、同級生の中澤舞さんを連れて、竹村と表札がある家の前で止まった。

「ほら、ここだよ。クリスタルボウルの竹村って、ちゃんと書いてあるもん。だから、間違いない。」

「呼び鈴を鳴らして。」

舞さんにいわれて、武史君は呼び鈴を鳴らそうとしたが、しかし、届かなかった。仕方なく、すみませんと言って、ドアを叩く。すると、玄関のドアがギイと音をたてて開いて、竹村優紀さんが、そんなにドアを叩かなくても聞こえますよ、といいながら出て来てくれた。

「あの、先生。先生のクリスタルボウルをこの舞ちゃんに聞かせてやってくれませんか。本当に寂しそうだったから、あの、中澤舞ちゃんっていうんです。僕の学校の、クラスメイトです。」

こういう子供らしくない、妙な大人びた発言ができるのも、武史君ならではであった。普通の小学校の一年生であれば、こんなに大人びた発言なんかできるはずがない。

「分かりました。二人とも、どうぞお入りください。」

竹村さんは、二人を家の中へ入れて、とりあえず、クリスタルボウルが置いてある和室へ案内した。武史君のような子供は、大人のしていることを、嘘偽りなく話してくれる能力がある事を、竹村さんは知っていた。

「えーと、中澤舞さんですね。何を困っているのか、具体的に話して頂けないでしょうか?」

「はい、ママに放置されっぱなしで、寂しい思いをしているので、竹村先生のクリスタルボウルで癒してあげてください。」

と、武史君ははっきりと答える。

「放置されっぱなし。武史君、それはどういう意味なのかな?」

と、竹村さんが聞くと、

「はい、舞ちゃんは、昨日一人で夕ご飯を食べて、朝一人で起きて、朝ごはんも食べずに着替えて、学校に来ました。とても寂しそうなので、僕が連れてきました。」

と、武史君は一年生らしい言い方でそういったが、これは見方によっては重大な事をいっているかもしれないと、竹村さんは思った。

「武史君、それはね、もしかしたら、虐待という大きな犯罪というものにもなるんだよ。」

竹村さんがそういうと、

「そうかもしれないけれど、僕はただ、舞ちゃんがかわいそうなので、癒してやりたいと思ったんです。舞ちゃんの事をどうのこうのというよりも、先ず、舞ちゃんの気持ちを和らげてやってほしいと思って。」

武史君はそういうことをいうのだった。小さな子供がそんな発言するなんて、本当に珍しいなと思いながら竹村さんは、

「いいですよ。じゃあ、割と刺激の少ない楽器から、はじめてみましょうか。」

と、沢山置いてあるクリスタルボウルの中から、赤や青などの色がついている、アルケミークリスタルボウルを七つ置き、マレットをもって、それをたたき始めた。武史君も舞さんも、にこやかな顔をしてクリスタルボウルの音を聞いている。

「はい、クリスタルボウルの演奏はこれにて終了です。どうかな?少し楽になったかな?」

と、竹村さんは二人の子供に優しく言うと、

「おなかすいた。」

と、舞ちゃんは小さい声で言った。

「それは何も恥ずかしいことではありません。クリスタルボウルを聞くとね、体の代謝がよくなる、つまり、五臓六腑の動きが活発になるので、そういうことになっても何も不思議ではありませんよ。むしろ、奏者としては光栄。クリスタルボウルが、体に作用した、つまり効いたということですから。」

「そうなんだね、竹村先生。」

と、武史君がいった。

「そういうことなら、料理について、専門家並の知識を持っている人に頼みましょう。」

と言って竹村さんはスマートフォンを出して、電話アプリを立ち上げた。

「すごい食欲だなあ。」

杉ちゃんは、おいしそうにカレーライスを食べている舞さんを眺めながらそういうことをいった。

「まあしょうがないじゃないですか。成長期の子供なんですから、大食いで当然ですよ。食欲があるってことは、いいことだってほめてやらなくちゃ。」

隣に座っていたジョチさんは、舞さんを見て、そう言う。

「本当にありがとうございます。子供さんが喜ぶような料理なんて、僕は知らなかったものですから、杉ちゃんに御願いしましたが、すぐに引き受けてくださって。」

と、竹村さんは杉ちゃんに御礼を言った。

「いやあ、良いってことよ。なんでも餅は餅屋。素人ができないことをやるより、こういう奴を頼ってくれた方がよほどいいよ。」

「おいしい!お代わり!」

杉ちゃんがそういうと、舞さんはすぐにいった。

「はあ、よく食べますね、もうお代わりですか。四杯目ですよ。」

とジョチさんがいうと、

「ほんとだ、こんなふうに食べるものを食べて、楽しくてしょうがないと思っている奴は久しぶりに見た。」

と、杉ちゃんはカレーを盛り付けて、舞さんの前におきながら、にこやかにいった。舞さんはおじさんありがとう!と言って、又カレーを食べ始めた。

「本当においしそうに食べますね。よかった、子供らしいところがあってほっとしました。」

と竹村さんは、おいしそうに食べている舞さんを眺めていった。

「ところで竹村先生。」

ジョチさんが心配そうな顔をして言う。

「先ほど、武史君から話を聞きましたが、舞さんが、家族不在で夕食を食べて、朝食も食べずに学校へ来たというのは、これは本当でしょうか。もし、そういうことになったら、明かに児童虐待だと思いますね。」

「そうですね。僕もそれは思いますね。この猛烈な食欲が何よりの証拠ですよ。おそらく、武史君たちの話しが何よりの証拠でしょう。」

竹村さんも不安そうな顔で答えた。

「えーと、中澤舞さんですね。カレーを食べているときに申しわけないんですが、あなたのお母さまの名前を教えていただけますか?」

ジョチさんがそう聞くと、

「もう、ジョチさん、なんで子供にも老紳士みたいな言葉で話すんだよ。其れよりももっと親しみをもっていわなくちゃ。お前さんの母ちゃんの名前と商売をおしえてくれないか?こういう風に聞けば良いと思う。」

と、杉ちゃんがいった。

「ママの名前は、中澤良子よ。」

舞さんはそう言った。

「中澤良子。なんか聞いたことがある名前ですね。僕の家にはテレビがないのですが、それでも、名前は聞いたことがありますよ。」

ジョチさんがそういうと、

「じゃあ、お前さんの母ちゃんは、何をやっているんだ?もし、公務員とかそういう具体的な名匠がわからなかったら、何をやっているだけでもおしえてくれないかあ?」

と杉ちゃんがまた聞いた。

「うん、ママはね、紙に何か字をいっぱい書いているお仕事をしているの。」

舞さんがカレーを頬張りながらそういうと、

「はあ、紙に字を書くお仕事。というと、作家とかそういうものかな?」

「作家の中澤良子。ああ、聞いたことありますね。今本屋を賑わせている、恋愛小説で有名な作家ですよ。確か、映画化もされたので、それで名が知られているのでしょう。その内容は、正直、子供さんには見せたくないような内容ばかりですけど。」

杉ちゃんと竹村さんは相次いでそういうことをいった。

「しかし、幾ら高名な作家であっても、子供に長期間食事を与えないで放置しておくというのは、やってはならないことですよね。舞さん、ちょっと体を拝見させて貰ってもいいですか。」

そう言ってジョチさんは、舞さんの袖をめくりあげた。すると、腕にいくつか痣のようなものが見られた。

「舞さん、これは大事なことですので、正確に答えて頂きたいのですが、お母さまに、ひどく叱られたり叩かれたりすることは、どれくらいの頻度であったのでしょうか?もし、日常的に虐待があったなら、お母さまは警察に逮捕される可能性もあります。それを確かめるためにも教えてもらえませんか?」

「理事長さん、舞ちゃん本当にママと別れなければならなくなるの?」

不意に武史君がそういうことをいった。

「ええ、もちろんです。よかったじゃないですか。武史君が彼女をここへ連れてきてくれたおかげで、早く虐待を発見することができました。最近は、子供を殺してしまう親も大勢いますからね。そうなる前に、彼女を発見できてよかったですよ。」

「でも、かわいそうだよ。」

武史君は涙を浮かべた。

「どうしてかわいそうなのか、武史君、おしえてくれるかな?」

と、竹村さんが聞くと、

「だって、舞ちゃん、ママと二人きりで暮らしてたんだもん。舞ちゃんが寂しそうだったから、家政婦さんでも来てもらったらどうかって、僕のパパが勧めた事もあるんだけど、舞ちゃんのママは其れすら頼めないほど忙しそうだったし。舞ちゃんも、ママのお話が売れすぎているからそうなったんだってちゃんとわかってたし、、、。」

と武史君はいった。

「そうですか。確かに日本では、お手伝いさんを雇うということは、なかなかしにくい文化でもありますしね。でも、お手伝いさんのような人がいれば、舞さんへの虐待は防げたのかもしれないですよ。そういう面からも、暴力をふるう親からは離した方がいい。直ぐに警察へ通報しましょう。」

ジョチさんはそう言っているが、

「うーんそうだね。でも舞ちゃんにとって、家族はお母さんだけなんだよね。それを今、奪い取って、本当に彼女は嬉しいと思うかな?それは僕からしてみると逆効果だと思うんだがなあ。」

と、杉ちゃんは腕組みをしていった。

「しかしですね。この、腕の痣が動かぬ証拠ですよ。もし、母親の暴力が続くようであれば、肝心の舞さんの命まで奪われてしまうかもしれません。其れではいけないでしょう。だからそうなる前に。」

ジョチさんは強い口調でそういうのだが、

「いや、どうですかね。無理やり母親と引き離してしまうことは、子供さんにとって辛い出来事になりますよね。それは、杉ちゃんや武史君のいう通りだと思いますよ。それに、あれだけ有名な作家が虐待で逮捕となれば、報道陣だって黙ってはいないでしょうし。そうなったら、さらに舞さんにストレスがかかってしまうと思いますね。」

と、竹村さんがいった。

「結局のところ、彼女の命を守るのは、日本の法律では対処しきれないということだな。まあ、親が片っぽだけじゃ、ダメってことでもあるよね。そうなると、父親は何処にいるんだろうかな。」

杉ちゃんは大きなため息をついた。

「おい、お前さんは、お前さんの父ちゃんについて、母ちゃんから聞いたことはあるか?」

「ママの話しでは、あたしが生まれた時、あたしとママを捨てていったって、言ってた。」

と舞さんは小さい声で言った。

「でも、僕のパパが言ってた。何処かで生きているんだって。僕のママと一緒だよね。なんか、大人って、僕たちの事を、本当にいらないような感じで、捨てていくよね。」

と武史君がそう発言した。子供ならではの発想なのかもしれないが、こんな発言を小学校の一年生にいわせるなんて、大人もずいぶんおかしくなったものだと思った。

「そう言えば、もう、かなり昔ですが、中澤良子が離婚したというニュースで、週刊誌が騒いでいた時期がありましたよね。慰謝料とかそういう話しばかりが書かれていましたが、一番被害を受けたのは、間違いなく彼女でしょう。」

「はい、僕もそのニュースはなんとなく覚えています。赤ちゃんを産んだ直後に離婚した、スピード離婚というニュースでしたね。何か、中澤良子は、結婚するよりも、離婚してからのほうが、本を意欲的に出すようになりましたよね。」

ジョチさんと竹村さんがそういう話をしていると、

「もう、そんなこと言ってないで、彼女をどうしようかを考えようよ!確かにさ、その中澤という馬鹿は、ここまで舞ちゃんを追い詰めたんだから、法で裁かれなきゃいけないだろうが、彼女、舞さんは、これからも生活していかなければならないんだぜ!」

と、杉ちゃんがデカい声でいった。

「そうですね、僕が、買収した福祉法人で聞いてみましょうか。もしかしたら、彼女をあずかってくれるかもしれませんね。」

とジョチさんはいうが、

「でも、できれば、一人ぼっちになってもらいたくないな。だって、一人で家の中にいるって、本当につらいもん、、、。」

と武史君が小さい声で言った。経験者は語るという顔だ。ちなみに武史君の家は、たまにお手伝いさんが来てくれる事になっているようだが、それでも寂しくなってしまうのだろう。

「そうだね。武史君の気持ちはよくわかるよ。武史君は、自分のような思いを、舞ちゃんにしてほしくないから、僕たちのところに連れてきたのでしょう?だったら、何とかしなきゃならないよね。」

と、竹村さんがいった。

「竹村さん、短い結婚生活だったかもしれないが、その中澤良子の配偶者というのはだれだか知っているか?」

杉ちゃんが聞くと、

「ええ。確か、小磯とかいう男性だったと思います。中澤良子は、スキャンダラスな報道が多い作家でもありまして、編集者の男性と不倫関係に成ったりしたことは多かったようですが、結局この人を選んだんだと、報道されていましたから。」

と、竹村さんが言った。

「小磯。」

杉ちゃんは腕組みをする。

「何とかして、そいつに舞ちゃんを託せないかなあ?まだ小学校の一年生、まだまだ保護者がいないとやっていけない年だぜ。」

「そうですね。では、こうしましょう。中澤を警察に逮捕してもらい、センセーショナルに報道して貰うんです。そうすれば、父親というひとが現れるかもしれません。」

と、ジョチさんはいった。みんなはその意見を実現させてしまうことにした。ジョチさんが警察へ虐待の疑いを通報すると、警察もそれを疑っていたようで、中澤良子はすぐに逮捕されてしまった。マスコミは、杉ちゃんたちが予想した通り、映画化もされた作家が、児童虐待で逮捕されたという事件に絡みつき、ワイドショーは、その話でにぎわった。肝心の舞さんのほうは、武史君の家であずかっていた。本人は気丈にふるまっていたようであるが、彼女は深く傷ついているだろうな、と、武史君を初めとして、竹村さんも、そう言っていた。

其れから、数週間たったある日の事である。製鉄所で、舞さんと武史君がお絵描きをして遊んでいるところ、玄関前に一台の車が止まった。そして、スーツ姿の男性が、インターフォンのない玄関の戸を開けて、ごめんくださいという。

「はい。どちら様でしょうか?」

と、応答した杉ちゃんがそういうと、

「あの、中澤舞という女の子がこちらにいると聞いたものですから。」

と、その男性はいった。

「お前さんが、もしかして小磯というやつ?」

杉ちゃんは、彼の全身をねめまわした。身なりもきちんとしているし、何もおかしな雰囲気はない。「ええ。その小磯義男です。以前、中澤良子と数か月だけ結婚していました。あの、舞はこちらにいるのでしょうか?」

と、彼はいう。

「はあ。そうなのね。舞ちゃんは、お前さんの事を、自分を捨てた悪い奴だといっていたけど、果たして本当にそうなの?」

と、杉ちゃんが聞くと、

「そんなことありません。捨てたのは良子の方です。あの人は、今よりもっといい本を書きたいからと言ったんですよ。僕が、舞を養えないという理由があって、舞は良子に引き取られていきましたけど、こういう結果になってくれたならよかったと思っています。僕は、舞を取り戻そうとして来ましたが、子供は母親の方が良いっていう、変な概念で結局僕のところには、来なかったので。」

と、小磯さんは答えた。

「まあ確かにそうだよねえ。あの、中澤というひとは、作家としては、すごい能力あったかもしれないが、お母ちゃんにはなれなかったな。でもお前さんもさ、本気で舞ちゃんの事見てあげられると思う?一回、舞ちゃんの事捨てたこともあるわけだし。もし、舞ちゃんのこと、思ってくれてるんだったら、すぐに引き取りにくるのが当然だと思うけど。違うの?」

杉ちゃんにいわれて、小磯さんは、ちょっとうつむいた。

「そうかもしれませんが、こちらも、報道陣が嵐みたいにやってきて、今まで動けなかったんです。だって、中澤良子の元夫ということで、テレビとか雑誌とかの記者が凄かったですもの。それに答えるというか、そこから逃げることで精いっぱいで、舞を呼び戻すことができませんでした。」

「そうかもしれないが、ためらわずに舞さんを引き取りに来るのが本当の親だと思うけどなあ。」

杉ちゃんは、はあとため息をついた。

「杉ちゃんどうしたんですか。そんなところでお客様を立たせたらまずいですよ。」

ジョチさんがやってきて、そういうことをいった。

「あの、すみません。わたくし、小磯と申しますが。」

小磯さんがそういうと、

「ああ、舞さんのお父さんですね。いらしてくださるのを心待ちにしておりました。これからは舞さんが幸せになってくださることを願っております。どうぞ、こちらにいらしてください。」

ジョチさんはそう言って、小磯さんを部屋の中に案内していく。杉ちゃんは、本当にこれでよかったのかなという顔をしてそれを見送った。小磯さんの喜ぶ声は聞こえたが、舞さんがお父さんに再会して嬉しそうにしている声は聞こえて来なかった。

「あの子は、果たして幸せになれるのかな。まあ、僕たちもいるし、竹村さんもいるから、何かあったら、すぐに相談に来いよ。」

杉ちゃんは、誰もいない廊下に向って、ふっとため息をついて、そう漏らしたのだった。

その日も、梅雨空らしい曇り空だった。梅雨の季節だから当然といえばそうなんだけど、何か長すぎるというか、そんな気がした。



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幸せになって 増田朋美 @masubuchi4996

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