空虚な言葉

 それから3日後、朱里はオフィスに出社してパソコンに向き合っていた。途中で電話が鳴ったので応答すると、先日商談をした会社からの電話だった。契約を結びたいという内容を聞き、ガッツポーズしたくなるのをぐっと押さえて具体的な手続きの流れを説明する。


「落合さん、また契約取ったんですか? さっすがうちの課のエースですね」


 朱里が電話を切ったところで隣の席から声が聞こえた。朱里が振り向くと、後輩の矢部貴子やべたかこが感心したような目つきで朱里の方を見ていた。

 彼女は昨年度の4月に入社した新入社員だ。営業課に配属されたのは今年度からで、朱里は彼女の教育係を務めていた。3か月の同行期間を終え、独り立ちしてから今月で3ヶ月目になるが、彼女の営業成績はあまり芳しくない。矢部は社交的な性格で、コミュニケーションが苦手なわけではないはずなのだが、どうもまだ『営業職として求められる姿勢』を理解できていない節があった。


「うん。感触は悪くなかったから、いけるとは思ってたんだけどね。連絡あってかなりほっとしてるとこ」朱里は答えた。


「そんなこと言って、落合さん契約取れなかったことないじゃないですか。いいなーデキる人は」矢部が椅子にもたれて頭をもたげた。


「矢部さんの方はどう? 確か昨日、新規の取引先に行ったのよね?」


「行きましたけど、たぶん駄目です。自分で説明しながらこれ必要ないなって思ってたし、相手にもそれが伝わってる気がします」


「一見必要ないと思えるものを、いかに必要だと思ってもらえるかが営業の仕事でしょう? 最初から自分で必要性を決めつけるのはよくないと思うけど」


「うーん、でもあたし、自分が思ってもないこと言うの嫌なんですよね。何か騙してるみたいで気分悪いし、だから営業向いてないと思うんです」


 矢部は平然と言ってのけた。彼女のこの言動は今に始まったことではない。新入社員であるにもかかわらず意欲に乏しく、不本意なことは平気でやりたくないと言う。そのために社内に波風が立つことも少なくなかったので、朱里は彼女の振る舞いを矯正しようと身を砕いていたが、今のところ成果は上がっていない。


「ねぇ、矢部さんはどうしてこの会社に入ったの?」


 朱里は尋ねた。彼女の初心に訴えかけることで、意識を変えられないかと思ったのだ。


「何でって、ここしか受からなかったからですよ。別に保険に興味あったからじゃないです」矢部がにべもなく言った。


「そう。私も最初から保険に興味あるわけじゃなかったけど、自分が提案したものでお客様が喜んでくれたら嬉しいと思わない?」


「別に思いませんよ。だってどこの会社が保険に入ろうが、あたしに関係ないじゃないですか」


「でも……ほら、頑張って成績を上げたらお給料も上がるし、そのために頑張ろうって気にならない?」


「別にならないです。そんなにたくさんお給料が欲しいわけでもないんで」


「……そう」


 朱里はため息をついた。矢部の考えを頭から否定するつもりはない。ただ、彼女のように自己主張が強いタイプの人間は周囲から顰蹙を買いやすい。今は新入社員だから大目に見てもらえているけれど、この先40年にわたって社会で生きていく以上、いつまでも我を貫くやり方が通用するわけではない。朱里は矢部のためにも、せめて表面上は周囲と協調するスタンスを身につけてほしいと思っていたのだ。


(でも……考えてみれば、私と矢部さんって3つしか歳が変わらないのよね)


 自分だって彼女くらいの年齢の頃には、同じように仕事への不満を感じていたはずだ。それなのに、会社員と日々を重ねるうちにいつの間にか毒気を抜かれ、兵士のように従順に会社の命令に従っている。そして今、自分とそう歳の変わらない新入社員を前にして説教を垂れている。その事実に気づくと、朱里は自分の語った言葉が急激に空虚なもののように思えてきた。


「あ、12時回ってる!」


 矢部が唐突に声を上げた。時計の針が12時5分を差している。


「あたし、今日外にお昼食べに行く約束してるんですよ。もう行っていいですか?」


「え? あ、あぁ……どうぞ」


 朱里が面食らいながら答えた。矢部は鞄を取り上げると、小走りにオフィスを出て行ってしまった。朱里は呆気に取られてその背中を見送る。


「……矢部さん、いいご身分だよね。」


 前方から声が聞こえて朱里は振り返った。池田という男性社員がキーボードを叩く手を止め、呆れ顔で矢部が消えた廊下の先を見つめている。


「せっかく落合さんが話してくれるのに、自分の都合優先させて出て行っちゃってさ。こんな時くらい協調性を見せてもいいのにね」


「まぁ、まだ2年目だから、学生気分が抜け切ってないんだと思う」朱里が苦笑しながら答えた。「3年目、5年目くらいになったら、だんだん社会人としての自覚も出来てくるんじゃないかな」


 『社会人としての自覚』。自分で口にしたその言葉は、いったい何を意味するのだろうと朱里は考えた。子ども時代の記憶や、当時思い描いていた輝かしい未来を忘れ、会社に与えられた役割を唯々諾々とこなすことなのだろうか。

 朱里はなおも矢部が消えた廊下を見つめていたが、やがて小さく息を漏らして視線をパソコンの方に戻した。先ほど電話した会社との契約書の作成に取りかかる。自分も昼休みであることはわかっていたが、今はランチを楽しむ気にはなれなかった。

 本音を言うと、朱里は矢部が羨ましかった。社会人になってもなお会社という枠組みに縛られず、ありのままの自分で生きられている矢部のことが、心底羨ましかった。

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