届かない空
宵闇に包まれる街並みを、多くのスーツ姿の人間が行き交っていく。
彼らが目指すのは帰路ではなく、会社近くにあるコンビニエンスストアだ。彼らはそこで食料品やエナジードリンクを買い、自分達の戦場へと戻っていく。
朱里はそんな人々の姿を横目で見やりながら帰路についていた。空を見上げると、夜の帳に包まれたビルの頭上から、白月が街を見下ろしている。まるで疲れ果てた戦士達の傷をその光で癒すように。
だけど、この優しい光の存在を意識する人間がどれほどいるだろう。多くの人々は、頭上に月が浮かんでいることにすら気づかず足早に家路につく。朱里が月の存在を知っているのは、子どもの頃から空を見上げる習慣があったからに過ぎない。ただし、その瞳が求めていたのは月の浮かぶ宵闇ではなく、
かつて自分の心を焦がした夕空。最後に見たのはいつのことだっただろう。
学生の頃は、毎日のように見上げればそこに夕景があった。空を染める黄昏が金色のカーテンのように揺らめき、桃色の夕月夜が乙女のように微笑み、家々の屋根の向こうに沈んでいく西日が、その日最後の命を燃やすように紅に染まっていた。いつも自分の傍にあったはずの情景。あの優しい光はどこに行ってしまったのだろう。
腕時計に視線を落とす。時刻は19時。朱里にとっては随分早い退社時間。だけど、夕焼けを見るにはとても間に合わない。夕焼けを目に出来るのはほんの束の間。朱色の空はたちまち黄昏に染まり、やがて宵闇と月にその舞台を明け渡す。1日のうちにわずかしか見られない、とても控えめな存在。
何も毎日夜を迎えてから退社する必要はない。たまには早く帰って、夕焼けを眺めて帰路につきながら、家でゆっくりご飯でも作ろう。そう考えること自体は何度もあった。でも、いざ定時を迎えても、当然のように残業をする同僚の社員を見ると、自分一人だけその輪から外れる気にはならなかった。それは、社会人たるもの時間を問わずに仕事に邁進すべきだという、いつの間にか根付いていた朱里自身の価値観に基づく行動でもあった。
でもその実、朱里は自分の生き方に時折疑問を感じていた。数日前、ビルの窓から夕焼けを眺めた時のように、ふとした瞬間に感傷に襲われることがあった。
営業課のエース、落合朱里。見た目通りの有能なビジネスウーマン。
朱里はそんな自分の姿に誇りを感じていたはずだった。だけど、そのイメージが自分を縛り付けてはいないだろうか。本当は違う生き方を望んでいるのに、自分でも気づかないうちに、会社が求める人間像に自分を合わせているのではないだろうか―—。
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