心のままに

 それからさらに一週間後、朱里は社内でデスクワークに勤しんでいた。数十名の人間が集まっているのに、誰もが熱心にキーボードを叩くばかりで無駄口一つ聞こえない。


「あー疲れたなぁ」


 不意に隣の席から声がした。朱里が視線をやると、矢部が椅子に持たれて大きく伸びをしているのが見えた。朱里の視線に気づくと振り返り、両手を下ろして言った。


「あたしいつも思うんですけど、みんなよくずっと黙って作業してられますよね。息詰まりません? ちょっと喋りたいなとか、外の空気吸いたいなとか思いませんか?」


「それは……みんな思うことはあるけど口に出さないだけよ。会社には仕事をしに来てるんだし、他の人の仕事の邪魔をしても悪いでしょう? だからみんな我慢してるの」


「そうなんですか? でも変ですね。言いたいことあったらはっきり言えばいいのに。何で我慢比べみたいなことしてるんですか?」


 矢部の前に座る池田が顔を上げて矢部を見た。しばらく物問いたげな視線を矢部に寄越した後、諦めたように息をついてパソコンに視線を落とす。朱里はそれを見て居たたまれなくなった。このままでは駄目だ。いつまでも彼女の奔放な言動を許していては、みんなの士気が下がってしまう——。


「……ね、矢部さん。話したいことがあるんだけど、ちょっと給湯室まで来てくれる?」


 朱里が静かに言った。周りの同僚が何人か顔を上げる。


「給湯室? ここじゃダメなんですか?」矢部が訝しげに尋ねた。


「うん、大事な話だから……。人のいないところの方がいいの」


 矢部は怪訝そうな顔のまま頷いた。朱里と共に席を立ち、2人して給湯室に向かう。周囲から突き刺さる視線は、朱里に無言のエールを送ってくれているように思える。

 その一方で、朱里は自分自身の行動の矛盾に気づいていた。一時は矢部の言動に羨望を感じていたのに、今はその矢部を諫めようとしている。

 でも、それは組織のために必要なことなのだ。自分は矢部の教育係として、彼女の認識を正さなければならない。朱里はそう自分に言い聞かせ、給湯室の扉を開いた。




「矢部さん、思ったことを何でも口に出すのはよくないと思う」


 開口一番に朱里は告げた。案の定、矢部は思いっきり不服そうに顔をしかめた。


「何でですか? 思ったこと正直に言うのはいいことだと思うんですけど」


「日常生活ならそれでもいいけど、ここは会社なのよ? みんな心の中で思ってることはあっても、それを全部口には出さない。どうしてかわかる?」


「さぁ……」


「相手に不快な思いをさせたくないからよ。仕事に不満があったとしても、それをみんなの前で言ったら一生懸命仕事をしてる人に失礼でしょう? 仕事は皆で協力しながらするものなんだから、自分さえよければいいじゃ済まされないのよ」


「じゃあ、皆さんはずっと本音を胸にしまってるってことですか?」


「そうね。でも仕方がないのよ。それが……」


 『社会人』なんだから、朱里はそう続けたかったのだが、何故か言葉が出てこなかった。個を失い、周囲と同一化し、波風を立てないように生きる。一定の年齢を過ぎれば、誰もが当たり前に従うようになるその生き方を、朱里を矢部に説かねばならないはずだった。それなのに、どうして言葉が出てこないのだろう?


「それが……何ですか?」


 矢部が尋ねてきた。朱里は口を噤むと、気を取り直すように頭を振った。


「とにかく、もう仕事や会社をけなすようなことを言うのは止めて。あなたがネガティブなことを言うと、周りの士気が下がるんだからね」


 朱里はそれだけ言うと、矢部を残して給湯室を後にしようとした。これ以上矢部と向き合っていたら、自分が大切に守ってきたものが崩れ去ってしまいそうな気がした。


「……あたし、自分だけよければいいって思ってるわけじゃないですよ」


 不意に矢部が呟いた。朱里が足を止める。


「この会社の人見てると、本当我慢比べしてるようにしか見えないんです。仕事終わらなくて辛いとか、難し過ぎるとか、何のためにやってるかわからないとか、心の中ではいろいろ思ってるはずなのに、絶対に表に出そうとしない。だから周りも弱音吐けなくなって、みんなで苦しい方向に行ってる。それっておかしくないですか?」


 朱里は答えられなかった。何故か心臓の鼓動が早まっていく。


「あたしはそうなりたくないから、思ってることをそのまま口に出すんです」矢部は続けた。

「悩んでることがあるのに大丈夫って言ったり、本当は苦しいのに平気な振りして笑ったりして、自分のこと騙したくないんです。それで気分害した人がいたのは申し訳ないですけど、それでもあたし、自分の気持ちには素直でいたいんです。周りの考えに合わせるんじゃなくて、自分がどういう気持ちでいるのかをはっきりさせておきたい。そうでないと、自分がどうありたいのかを見失っちゃいそうな気がして」


 朱里は拳を握り締めた。ありたい自分を見失う。それはまさに、今の朱里の状態を差しているのではなかったか。


「あたし、みんなもっと自分の気持ちを出せばいいと思うんですよね」矢部は言った。


「大人になるとどうしても周りに合わせること求められますけど、自分の気持ちに素直になることも必要だと思うんです。周りに合わせてばっかりだと、自分が生きたいように生きられないし」


 矢部のその言葉は、明瞭な響きを伴って朱里の心に染み渡っていった。感情を制し、組織の風紀を乱さないように生きることが社会人としての必要条件。朱里はずっとそう信じて生きてきた。だけど、そうやって感情を排して生きることが、結果的に自分達を幸福から遠ざけていたのではなかったか。


「って、すいません。これじゃあたしが落合さんにお説教してるみたいですね。やっぱりあたし、思ったこと口に出さないと気が済まないみたいです」


 矢部が後頭部に手を当てて苦笑する。だが朱里は、矢部を叱りつける気にはなれなかった。


「ううん……いいわ。私も大切なことを思い出せた気がするから。あ、でも、席に戻ってすぐそれ言っちゃ駄目よ? 全然反省してないって思われるからね」


「わかってますよ。あたしも周りを不快にさせたいわけじゃないですから、これからは場所選んで言うようにします。まぁ、仕事好きじゃない気持ちは一緒ですけど」


 矢部はそう言ってにやりと笑った。上司に向かって仕事が好きじゃないと公言するとは、まったく図太い新入社員だ。

 でも、今なら朱里にも、矢部という人間が理解出来るような気がした。矢部はただ、子どもの頃の気持ちを今も持ち続けているだけなのだ。会社に属している以上、いつでも感情の赴くままに生きられるわけではないけれど、だからといって一切の感情に蓋をする必要もない。

 朱里はふっと表情を綻ばせた。張りつめていた糸が切れ、不思議と憑き物が落ちたような感覚があった。途端に矢部が笑みを引っ込め、まじまじと朱里を見つめてくる。


「どうしたの? 私の顔に何かついてる?」


「あ、いや……そうじゃなくて。落合さん、いい顔してるなって思って」


「そう? いつもと変わらないと思うけど……」


「そんなことないです。いつもの作った顔じゃなくて、すごい自然で。落合さんって、笑ったらそんなに優しい顔になるんですね」


矢部が感心したように言った。何目線なんだ、と朱里は突っ込みたくなったが、苦笑を漏らすに留めておいた。

 確かに、営業用ではない笑みを浮かべたのは随分久しぶりな気がする。それを浮かべられたのは、忘れかけていたものを取り戻せた証拠なのだろうか。

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