十四、

 熱が下がるにつれ、玄関の臭いが強烈に感じられるようになってきた。発症してからゴミを出していなかったのだが、嗅覚が戻ってきたのだ。えらく面倒だったが、おれは二重にしたゴミ袋の口を、ゴム手袋をはめた手でしっかりと閉め、マスクで目の下ギリギリまでしっかりと隠し、ついでに上着のフードを目深に被った。そして、本当は禁止されているのだがまだ夜が明けないうちに出ていって、近所の共用ゴミバケツの蓋をしっかりと閉めた。ゴミを捨てるという人間として当たり前の行為が、これほどやましく感じられるとは。

 自分の感覚としてはすっかりよくなったのだが、それでもまだ体内にウイルスが残っていることもあるから、おれはまだ検査を二回ほど受けなければならないらしい。だが保健所で教えてもらった電話番号は昨日から何回かけてもつながらない。ニュースで見る限りもっと大変な人はたくさんいるから、おれみたいなレベルだったらもう数日人に会うのを我慢しておけばよいと思われているのだろう。

 辰起とは発症してからずっと連絡していなかったのだが、伯父からおれのことは聞いていたのだろう、平熱に戻って二日目の朝、家に荷物が届いた。配達員となるべく接触しないようにして受け取り、開けてみたら段ボールにレトルト食品がたくさん入っていた。辰起が研究員として勤めている食品グループが、「常温で五年間保存できる」という触れ込みで販売している非常食だった。伯父に食事を届けてもらうのもそろそろ心苦しくなってきたから、どこにも行かず調理もしないで食事が摂れるのはありがたかった。

 おれはその夜、辰起の子供が寝たであろう時間を見計らってお礼の電話をかけ、無事熱が下がったことを告げた。小心者の辰起はまるで恐ろしい経験をしたのが自分であるかのように「それはよかったなあ」と、ため息とともに呟いた。こいつは昔からそうだ、生まれ育った家庭のせいかもしれないが、災難に見舞われている人間に出くわしたら自分もそこに巻き込まれると思っている。だからこうしておれに優しくできるようになったのは、成長だと言えるだろう。

「そうだ、今日定期検診でわかったんだ、今度の子は双子だってさ。」

 おれは子供のことはまるで想像がつかないので、これも阿修羅の時と同じように「おめでとう」と返答した。辰起は以前酔っ払ったおれを横目に見ていた時のように鼻で笑い、

「めでたさも二倍、世話もオムツ交換の回数も二倍、今なら感染予防に尖らせる神経ももれなく二倍、カードのポイントダブルキャンペーン並みだ」と最後は皮肉っぽく言った。こいつはいつからこんな冗談を言えるようになったのだろう。

「でも、生まれた時から一人じゃないっていいだろう?」

 おれはやはり何と答えていいのかわからず、ただ自分にできる精一杯の答えとして「賑やかで楽しそうだな、そのうち酒を持ってお邪魔させてもらうわ」と言った。すると辰起は

「佑樹、お前のその呑気な思考回路が、ウイルスにやられなくて本当によかったよ。」

 おれが少しむっとして「うるさい、こう見えても悩んでいることはいっぱいあるんだぞ」と返すと、辰起は「それはみんな同じだよ」と急に冷静な口調になった。

「迷わずに前に進める人間の方が、今どき珍しいんじゃないか。」

 おれは阿修羅とのことも何も言っていなかったが、辰起に腹の中を覗き込まれたような気持ちになって、思わず言ってしまった。

「……辰起、つまり、おれが今行き詰まってたとしても、このバカな脳みそのせいじゃない……ってこと?」

「ああ、そうだよ、安心していい」、辰起はお得意の理路整然とした口調で続けた、「今やこの地球上はどうしていいのかわからない人間だらけ、お前はその中の極めて平凡な一人だよ。」

「へー、そうなのか?」

「ああ、生物学でいうところの『模式標本』ってやつだ。人類の行動様式を研究している宇宙人がいたら真っ先に捕まるだろう、やることも単純だから手っ取り早くデータが手に入る。」

 そう言えば辰起は大学院出の研究員だったとおれが思い出していると、辰起は「……って、慈と見ていたアニメの受け売りだけどな」と付け加えた。

 おれはそれから十分ほど、辰起の子供の話を聞き、送ってもらった非常食が美味しかったと告げて通話を切った。一つだけ嘘をついた。おれの味覚はまだ戻っていない。嗅覚はあるのだが、辰起の会社が三年かけて開発したというこだわりのシチューは、ただのざらざらした汁だった。スマホで検索してみたが、時間をかけて回復する人も、ずっとそのままの人もいるという、何とも言えない情報しか入ってこなかった。酒だって同じだ。橋本から送ってもらったものも、発症前はあれほど美味しく感じられたのに今朝舐めてみたら舌先を刺激するだけのヌメヌメした液体で、しかも呑み込むとたちまち頭痛がしてきた。

 おれは自分で言ったように、いつか酒を持って辰起の双子に会いに行けるんだろうか。手元にあるこの非常食の賞味期限と、おれの味覚が戻って来る日はどちらが先だろう。

 そこには無言の闇が広がっている。誰も答えてなどくれない。

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