十三、
まさかと思いながら保健所に電話し、わざわざ出向いたのに夜遅くまで待たされて検査を受け、結果は陽性だった。診断としては軽症で、同居家族もおらず、その場で伯父に電話をしたら食事を運ぶと約束してくれたので、収容先も世話をしてくれる人も見つからない他の大勢の人たちを尻目に、おれはあっさりと「自宅療養者」に区分され、子供の頃マユミちゃんとの思い出が詰まった家は、ウイルスを撒き散らすおれを閉じ込めておく「巨大な檻」と化した。そしてそのまま、一人ぼっちの闇の中に引きこもること一週間。今朝計ってみたら、ようやく体温が平熱に戻っていた。だが保健所の人の言う「72時間」はまだ経過していない。それでもともかくおれは、平熱を取り戻した喜びを誰かに報告したくてたまらず、だが辰起は嫁の妊娠で神経質になっているからやめたほうがいいと判断した。あいつには今、おれより大切な存在がいるのだ。今知らせるべき相手は阿修羅だろう、熱が出ている間も太ももを見せて慰めてくれたし。
アプリ通話を入れると、阿修羅は「大学のレポートの締切が迫ってるんですよ」と言いながらもおれの体調がよくなったことを喜んでくれた。おれが自分の働きの悪い脳みそで必死に思考していた間も、世の中では別のことが進行していたらしい。おれはこれからのことを考え始めた。体調もまだ完全には回復してはいないのに、そうしたかった。自分に何かの未来が待っていると思いたかったのだ。すると阿修羅が、早速アイデアをくれた。
「ユーキさん、シェアハウスに新しい人が入るまで『リモートスナック』なんてどうです?時間料金をもらって、キッチンから酔っぱらいの相手をするんです、お客さんは家で寂しく飲んでる人。そうそう、何ならそのお友達の会社と協力してもいいですね、お酒を一本買ったら割引サービス、その分は酒造会社からもらう、と。」
なるほど、さすが若いだけあって頭の回転が速い。だがおれは飲み屋の手伝いならしたことがあるがスナックとなると未経験だし、お客さんを楽しませる話術となると頭も必要だろう。「マスター」らしくチョッキなどを着た自分を思い浮かべ、おれが返事に困っていると阿修羅は付け加えた。
「何なら、接客に慣れるまで私が見守ってましょうか?先週誕生日が来て、もう堂々と酒も飲めるんですよ。」
何とまぁ、阿修羅は先週まで十代だったのか。おれは、自分がもしそんな歳で感染症の世界的流行を迎えていたらどうしただろうと一瞬考え、だがすぐに思考を停止して「誕生日おめでとう」と言った。すると、阿修羅は声をくぐもらせ、「……まだわかんないですか」と聞いた。
「……さっきからあたし、ユーキさんのこと、口説いてるんですよ。」
おれは頭が真っ白になってぽかんと口を開け、だが震える舌で自分が言うべき言葉をようやく吐き出した。
「お前、言ってることがメチャクチャだ!」
受話器の向こうから、緊張した息遣いが聞こえた。だが阿修羅はそれでも勝ち誇ったように笑い、
「うーん。脈ありかと思ったんですがね。男の人が、あんな自分のみっともない話まで打ち明けてくれちゃうなんて。」
おれは頷くしかなかったが、それでも悪い頭を必死で回転させ、突きつけるべき理屈をようやく見つけた。
「そもそもお前はまだ学生で、おれはシェアハウスの管理人とはいえ今はほぼ無職だ。一緒にいて、将来なんてあると思ってるのか。」
「だからこそ一緒にいましょうよ。仕事だって、二人で知恵を出せば何とかなるかもしれませんよ。」
「だいたいお前はまだ若すぎる。」
すると阿修羅が受話器の向こうでため息を一つつくのがわかった。
「今月近所のおじさんが亡くなりました。まだ五十代ですよ。そんなことが世界中で起こっているのに、『若すぎる』だなんて。」
おれは阿修羅が痛々しいと思った。だがこの理屈に反論できるだけの体力も根拠も、おれの中には残っていないし、もしかしたら世界中探してもないかもしれない。
「その人はね、うちのおばあちゃんの友達の息子さんで、真面目な地方公務員だったんです。まだ独身で、でもいつか結婚する時のために、立派な家を建てて生命保険にも入っていました。だけど、お酒が大好きで血圧が高かったせいか……どこかでうつされてきて、そうしたらあっという間でした。保険金はその人のお母さんが受け取ることになって、でも『年寄りがこんな大金もらっても使いみちがない』ってうちのおばあちゃんに愚痴ってました。こういうのも『自己責任』なんですかね。」
悲惨な話だと思った。おれも心からその親子に同情した。だが頭が悪いおれは、阿修羅の言わんとすることがわからなかった。阿修羅は続けた。
「真面目と言えば、高校時代のあたしだってとっても真面目でしたよ。わけのわかんない校則も、さらにわけのわかんない人間関係も、黙って受け入れていました、大学に行くためにね。あたしの地元って大学に行ける子は多くないから、少しでも内申書をよく書いてもらわなきゃ。それもこれも、進学して地元を出られたらすべて報われると思っていたのに、待っていた現実はこれでしたよ……実家に戻ったら、コスプレ活動に反対していたおばあちゃんが理解してくれるようになってたのが唯一いいことで。」
おれが口を開く前に、阿修羅は「つまり」と言葉を続けた、「未来なんてそもそもわからないんです、だったらあたしはユーキさんと一緒にいたいっていう、今の自分を信じます。」
理屈としては完敗だとおれは思った。だがおれの脳みそも負けじと、ここで阿修羅を拒むための王道を攻めた。
「言っただろう、おれは一度離婚しているって。」
「だーかーらー、別にユーキさんの前の結婚みたいな生活がしたいんじゃないですよ」、阿修羅はふんと鼻で笑い、「だって世界観が、設定が変わっちゃったのに、男と女の生活だって同じになるわけないじゃないですか?」
おれは阿修羅と論点が食い違っていくのを感じた。おれが言いたいのはつまり、「もう失敗ができない」ということなのに。だって、一生のうち二回も女と破局したら惨めだし恥ずかしいだろう?……しかし考えてみればそれは、自分がかつて一番バカにした「世間体」というやつだ。おれは変わった、歳をとって「おっさん」になったのだ。
「体調が戻ったら、まずは電車じゃなくて車でうちの地元に来てくださいね……おっと、いきなり二人きりで車に乗るなんて、密なデートはしませんよ。まずは飛沫が飛ばない距離で、それからこの流行が収まってきたらゆっくりゆっくり近づいていきましょう?これからの世界に楽しみができますね……」
おれは悪い気はしなかった。ミカの時とは違った意味でときめいてもいた。だが肝心なことをまだ聞いていなかった。
「おれの、どこがいいの?」
「うーん、理由なんてないです。なぜか一緒にいたいって思えるんです……でもそれ、ユーキさんの周りにいつもいたっていうお友達も、みんなそうでしょうよ。」
おれは「嬉しい。でも少し考えさせて」と言った。阿修羅はすると、鼻をクスンと鳴らして、
「ええ、返事は何でもいいんですよ、ユーキさん、生き延びましょう」と言った。おれは「うん」と答えて通話を切った。
「チン」という電子音とともに、また無言の世界がやってくる。
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