十二、
オレンジ色の月が明るい夜だった。近所の大型スーパーは閉店時間を早め、最近できた学生相手の居酒屋数軒も軒並み店を閉めてしまったから夜空は暗くなり、月はいつもより輝いて見えた。おれはフラフラと歩いて、気がつけばため池の堤に来ていた。子供の頃ザリガニをバケツいっぱいに捕まえた池は、今では事故防止用のフェンスで囲まれている。最近できた大学はこの池を生態観察用に使う予定だったらしいが、今は実習どころか教室の講義もできないようだからどうなったかはわからない。防犯用に立てられた街灯の下、おれの目に子供の頃と変わらない濁った水面が見えた。そして今夜はそこに、光るものがもう一つ。今夜の月は本当に明るい、人工照明である街灯すら霞んでしまうほどだ。
おれは十数年ぶりに高校の古典の授業を思い出していた。半分居眠りしながら聞いていたその話によれば、昔、中国のなんとかという詩人の爺さんが、舟の上で酔っぱらい、水に映った月を手に取ろうとして溺れて死んだという。教師の言っていたことはそれ以外すべて忘れた。おれはその時、迷惑な爺さんもあったものだと思った――少なくともおれの当時生活していた界隈で誰かがそんな死に方をしたら、消防団による捜索が行われて、残された家族は実に肩身が狭かっただろう。つまりおれの思考回路の範囲は、結局狭い田舎町にとどまっていたのだ。
思い出から戻ってふと顔を上げると、月と街灯に照らされる池の畔に、何やら白い花をいっぱいに咲かせる木があった。そう言えば子供の頃から久しく来ていないし、おれは植物など普段気に留めないからいつの間にこんな木が植えられたのかは知らないが、暗がりに映えるその花の白さは、まるでおれを祝福してくれているようだった。そう言えば例の古典教師は、「昔の人は月にもなんとかという花が咲いていると考えていた」とも言っていたっけ。おれは上機嫌になって鼻歌でも歌おうとして、突如強烈な感傷に襲われた。
花を咲かせる木から数百メートル歩いたところに、集団感染が起きた大学のクラブハウスがある。そしてその方向から、マスクをしてはいるが明らかに酔っ払って笑いながら歩いてくる学生の一団がいる。オレンジ色の月光と真っ白な防犯灯の明かり、そして二種類の光に浮かび上がる白い花。この素晴らしい景色の、一体どこにウイルスがいるっていうんだ。
おれは足元がわなわなと震えて、ふいにその名前も忘れた詩人の気持ちがわかった気がした――どれほど注意されても「楽しいこと」が我慢できなかったのだ、ちょうど皆でつるんで飲むことがやめられない、あの学生たちみたいに。だがそんな楽しみは今や水の上に映る月、つかもうとして水に落ちれば、たちまち周囲から非難され、笑われ、バカにされる……例えばあの学生たちの姿をスマホで撮影してモザイクをかけ、インターネットに投稿すれば「我慢の足りない若者たち」などというコメントが寄せられ、万一感染者が出れば皆は怖がりながらも内心では「やっぱりね」と納得するだろう。大学の評価も落ちるかもしれない。それは「間違い」ではない、そうしなければ感染を抑えることはできないのだから、だが……
この悲しみを表す言葉を、おれは知らなかった。ただ、酔いもあって涙が次々に溢れてきて、月の浮かんだ空を仰いでおんおんと泣いた。それから先のことはよく覚えていない。学生たちがそばを通り過ぎる時、何人かはマスクが完全に外れていたような気もするし、その後にくしゃみをしているおじさんが脇をすり抜けていった気もする(散歩に来た近所の人だろう)。路上で酒を飲んでいる人と間違えられて、大学の警備員に「早く帰れ」と言われた記憶もある。涙を拭うために、目にも触ったかもしれないし、寂しさのあまりフェンスに触れて、子供時代の思い出に浸っていたかもしれない。とにかく、後から考えてみれば思い当たることはたくさんあった。
帰宅した時は深夜で、外を歩いたままの服で布団に潜り込み、それから数日は家の中で過ごした。布団に寝転がってスマホを見ていたら、面白そうな情報を発見した。使われていない部屋を、ドラマや動画の撮影に貸し出すというビジネスだ。このシェアハウスでやってみようかな、と思ったおれは、冷蔵庫を開けて橋本から送ってもらった酒をグラスに注ぎ、一口口に入れた。
酒は、まるで味がしなかった
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