十一、

 橋本から久しぶりのメッセージが来た時、おれはまだ発症しておらず、ただ仕事探しに奔走していた。毎月給料がもらえた勤め人時代と違って、自営業は収入がない時は本当にない。伯父にはこの家にかかる税金はシェアハウスの収益の中から払うと約束したし、それ以前に目下の生活もあったから、おれは本当に焦った。そんな時に橋本から来たメッセージは「酒を買ってくれ」というものだった。大学時代おれとともに同好会で二次元美少女を研究していた橋本は、卒業後は地元に戻って酒造会社に就職していた。だが感染症のせいで街では酒類の提供が大幅に制限されてしまい、会社は通信販売に力を入れることにしたという。

 おれは正直、なぜ今の自分が毎月給料のもらえる人間からものを買ってやらなきゃいけないのだと理不尽を感じたが、橋本はそれを察したのか「お前には学生の頃だいぶ飲ませてもらったから、今度はこっちがおごるわ」と付け加え、数日後酒のブランド名が書かれた段ボールと、なぜか橋本個人の名義で小包が届いた。酒は、がらんどうになったシェアハウスのばかでかい冷蔵庫に入れて、毎晩ちびちび飲むことにした。とてつもなく美味かった。小包の方は開けてみるとメメラのぬいぐるみだった。まだ世界が感染症に襲われる前に行われたイベントで販売された限定もので、おれはほしくてたまらなかったが行けなかった。胸に抱くのにちょうどいい大きさのぬいぐるみは、衣装のスカートをめくりあげるとちゃんとパンティを履いていて、シャツを脱がせると胸にはブラジャーもつけてある。こういうサービス精神のこもった製品は、結婚していた頃は家に持ち込むこともできなかったが、一人になった今は大丈夫だ。昔辰起が猫を撫でていたように、メメラを膝に乗せて酒を飲んでいたおれは急に機嫌がよくなり、スマホから橋本の会社のホームページにアクセスし、金もないのに何箱も注文してしまった。送り先はマユミちゃんを介護している頃一緒に飲み会をした看護師や、小学校の同級生のお母さんで介護士をしている人、それに辰起の父である伯父。またみんなと飲み会をしているような気がしておれは嬉しくなり、だが同時に橋本にしてやられたと思った。銀行残高はもういくらも残っていなかった。

 おれはひとまず目下の生活を何とかしようと、アプリでできる配達員をやってみた。だがこのあたりは学生街で、自転車に乗ったおれは体力の有り余る大学生にいつも仕事を奪われた。自分が歳をとったことを実感して悲しかった。中小企業向けの支援金を申請しようとしたが、頭の悪いおれは帳簿の一部を伯父に管理してもらっていた。自分の商売で忙しい伯父はなかなか書類を送ってくれず、おれは金以前に自分が社会から取り残された気がして切なかった。かと言って阿修羅のような動画配信や小説の投稿などは、おれにはまるで別宇宙のことのように感じられた。おれは他人とくっついて騒ぐしか能のない人間だ、誰もいない部屋でカメラに向かって芸などしていたら、頭がどうかしてしまうだろう。

 ああ、こんなことになるなら商社を辞めなければよかったのかな。ある晩おれは酒を舐めながらふとそんなことを考えた。ミカの浮気が発覚した時、同僚の一人に止められた。「あんな女のために仕事や今の地位まで失うなんてバカバカしい。もっと大人になれよ。」

 そのとおり。だがおれは彼の言う「大人」にはなれず、子供の頃から一緒にいるマユミちゃんのもとへ逃げ込んだ。そしてそのまま何とかやっていけると思ったのに結果はこの有様だ。辰起は人の親になったのに、一方のおれはまるで自分がその子供みたいに、あいつになだめられてばかりいる。ああ、実に情けない。

 ……しかしどうして辰起は玉木慈と結婚する気になったのかな、昔学習図鑑で「トラフグ」という魚を見た時、おれはあの女はこれにそっくりだと思った。少年時代の辰起は男のおれからみても綺麗な顔立ちをしていて、さらに家の環境のせいかどこか物悲しげな空気をまとっていて、実はけっこう女子にモテた。両親の離婚で突然転校してしまった時、いとこであるおれのところへこっそり事情を聞きに来たのが何人もいたぐらいだ。その辰起が慈に、しかも小学生の頃から憧れていたとは。生まれつきの顔かたちが整っていないのはおれだって人のことは言えないが、あの女はそれをわかっているのかいないのか、痩せようという意思が一向に見えず、子供を産んだ後はすっかり「フグ提灯」と化している。だが辰起はそれと一緒にいて幸せなのだ。おれはまるで理解できないが、もちろんこんなことを口に出さないだけの礼儀はわきまえている……。

 おれは自分が飲みすぎたと思って、酔いを覚まそうと外に出た。テレビや役所は夜間の外出を控えるようしつこいぐらい言っていたが、今のおれを慰めてくれるのは外の空気しかないように思えた。

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