エピローグ

 誰にも会いに行けず、することもないのでひとまずメメラのぬいぐるみを、動画で見た方法でこれ以上ないぐらい丁寧に手洗いして、天気のよい時に物干し竿にぶら下げておいた。それから、寝ていた布団のシーツを剥がし、大きなバケツに熱湯を入れて消毒した。入居者用にいろいろなものを用意しておいてよかった。それが終わると、当分誰もこの家には来ないだろうが床やドアもアルコールで消毒しておくべきか迷ったところで、スマホのランプが点滅しているのに気がついた。おれが阿修羅の動画に入れたコメントに、また誰かが「いいね」してくれたのだ。「それは待望のユートピア、それとも新たなディストピア?」ウィッグを着けて首を傾げる阿修羅の下におれがつけたコメントは「タイムリーすぎて泣ける」。するとたちまち、大勢の知らない誰かがやって来て、「いいね」をつけてくれた。だが驚異的な再生回数にさらされる阿修羅の真意を知っているのは、おれだけだ――と思いたい。おれはあの晩「考えさせて」と言ったきり返事はしていない。実質無職で、おまけに味覚も失い酒も飲めなくなってしまったおれと、先の見えなくなった世界を若い衝動だけで生きている女に待っているのはユートピアかディストピアか、阿修羅はおれの前に現れた天使か、それとも意地の悪い神様がバカなおれを騙そうとまたよこしてきた罠か(だが調べてみたら『阿修羅』は天使とか神様ではなく、仏教の方だった)。おれは誰かに何とか言ってほしいのに、笑ってくれるのは枕元に置いた写真の中のマユミちゃんだけだ。命は取り留めたものの、おれを取り巻く環境は何一つ改善せず、銀行口座の残高は減っていく一方、空いている部屋を撮影に貸し出すビジネスも、感染者が出てしまった物件など気持ち悪がって誰も寄り付かないかもしれない。いろんなことが頭の中でぐるぐる回る。ああ、泣き出したい、ついでにこの思いを抱えたまま車で阿修羅のもとへ、未来に向かって走り出したくて仕方がない。

 外はまた日が暮れる。おれはふと自分の悪い頭が、今この世界を生きる人類にとって一番ありふれた言葉で満たされていくのを感じる。

 

 ――どうしよう?


(完、ただし世界は『続く』)

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