四、
また話がそれてしまった。おれは熱のせいで、もともと悪い頭がますます混乱しているようだ。ともかく小学校の三年か四年頃のある日、猫を撫でながら辰起はこう言った。
「こいつは拾われてきたから親もきょうだいもいないけど、だからって不幸じゃないよな。きょうだいなんて、いいものだとは限らない。」
確か、辰起の家で遊んでいた時だったと思う。ミニ四駆をいじる手を止め、珍しく寄ってきた猫――当時その家で飼われていた、ミニ四駆を本気で追いかける果敢な猫だった――の背中を見下ろしていた辰起の横顔を今でも覚えている。
おれはショックを受けた。辰起の父がマユミちゃんを溺愛するあまり、両親の仲が悪くなっていることはうちの母親から聞かされていたが、それでこいつがどうして、これほど暗い顔をする必要があるんだ?
当時のおれはいろんなことにうんざりしていた。一緒に遊び回れるきょうだいがいないことは相変わらず不満だったし、住んでいる町は田舎で、みんな親族や周りの人の目ばかり気にしてくだらないことこの上ない。そしてそんな空気が、おれにとって唯一きょうだいのような辰起を目の前で呑み込もうとしている。おれはそれがとても――こんな言葉は自分にふさわしくないかも知れないが、「切ない」と感じた。何かパーッと気の晴れることはないだろうか。
そんな時、父親が勤め先の抽選会でハワイ旅行を当ててきた。父親の勤め先は第三セクターで、当時の日本は今より羽振りがよかったからそういうこともあったのだ。初めての海外旅行におれは大興奮して、できれば辰起も連れて行ってやりたいと思った。だが母親は真っ先に、おれに口止めした。
「あの家には旅行に行くこと自体言っちゃダメ。また何を言われるかわからないんだから。」
「学校でもあんまり自慢しちゃダメよ。お父さんの勤め先は三セクでしょ、税金の無駄遣いって陰口叩かれるわ。」
ああ、おれの周りは本当にくだらない人間ばかりだ。おれは将来、楽しい時間を堂々と分かち合える相手としか付き合わないと決めた。
ハワイは素晴らしい場所だった。スーべニアショップで、おれは現地で食べて一番美味しかったマカダミアナッツチョコレートをお土産としてねだった。チョコレート一箱すら親にねだらないと買えないなんて、子供ってなんて哀しい身分なんだろう。母親は「まさか、辰起にあげるの」と聞いたが、おれが黙って睨み返すと「わかった、親には秘密って言っておくのよ。それとマユミにも。うっかり言っちゃうかもしれないからね」と言った。
おれは帰国してすぐに、お年玉の貯金を全部はたいて当時流行り始めていたポケモンカードを二セット買った。一セットは辰起にあげるつもりだった、あの家では買ってもらえないだろうから。そしていつものように自転車でマユミちゃんの家に行くと、「ポケモンのパンが食べたい、リザードンのやつ」と言った。単純なマユミちゃんは、「スズヤで買ってきてあげる」と嬉しそうに答えた。自分がなかなか大変なのに、おれたちの前では必死で大人のふりをする叔母さんだった。辰起はついていくと言ったが、おれは一人で買い物をすると言ったマユミちゃんの「イシをソンチョウ」――その頃覚えたばかりの言葉だった――するつもりだったし、何より辰起にチョコとポケモンカードを渡して、ハワイの土産話を聞かせてやりたかった。マユミちゃんの行った先はスズヤだからすぐに戻ってくるだろうし、そうしたら三人で一緒にチョコを食べようと思った。どのみちこれがハワイの土産で、それがどこにあって、行くのにいくら金がかかるということはわからない人なのだから。
だがおれの目論見は狂った。マユミちゃんはいつまで待っても帰ってこなかったのだ。おれはあえて明るく振る舞おうと、リュックからポケモンカードを取り出した。そして辰起の前のちゃぶ台(そんな前時代的なものもあったのだ)に対戦ができるように並べていったが、返ってきたのは辰起の冷ややかな視線だった。おれは胸に「うんざり」と「げんなり」と「苛立ち」が混じったような感情がこみ上げてきて、黙ってポケモンカードをリュックにまた戻した。そうこうしているうちに六時になって、仕事帰りのおれの母親が車で迎えに来た。おれはマユミちゃんがまだ戻って来ないことをそっと告げると、母親は「何とかしてやりたいけど、中途半端なことをすると兄さんに何を言われるかわからない」と言った。そこでおれは辰起にへらへらした笑顔を向け、「パン、食べたかったなー」と言った。辰起は心配のあまり食欲がなくなったのか、ほとんどチョコを食べてくれなかったし、ポケモンカードは、あげられないままだった。車の中で、おれの頭にはある言葉がボコボコと湧き上がってきて、まるで理科の番組で見た「水をアルコールランプで沸騰させる実験」みたいになった。「誰が悪いんだ、誰が……おれは悪くないぞ。」
大人になって、おれがベロベロに酔っ払っていたら、辰起がふと「あの後、父さんにものすごく怒られたんだぞ」と言った。それでおれが「今も怒ってるのか」と聞いたら「別に。ただ、お前が羨ましかったよ」という返事だった。
羨ましい?辰起を羨んでいたのはおれの方だ。いつもうさぎのようにビクビクとして、そのくせおれに考えを読ませることなく、どこかへ行ってしまう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます