一、

 振り返るにしてもおれの記憶は時系列というものが怪しい。真っ先に思い浮かぶのは、なぜかたかだか数ヶ月前のものだ。

 マユミちゃんが亡くなった後、おれはその住んでいた家をリフォームしてシェアハウスにし、自分は管理人になった。とても古い大きな家だったが、最近はそういうところに住みたがる若者も多いというし、ちょうど近所に大学の新しいキャンパスが開設されたので、学生の一人暮らしの需要があると思ったのだ。友人知人に広告も頼んで、ようやく何人か契約者が入った頃、外国で怪しげな感染症が見つかったというニュースを耳にしたが、その時のおれはまるで気にしなかった。目の前にあった自分の商売、そして時折起きる入居者同士の揉め事を解決することに忙しかったからだ。契約者たちは案の定ほぼ全員が学生で、共用の洗濯機を壊したり、その洗濯機も男と同じのを使うのは気持ち悪いからもう一台買ってくれという女子学生もいて、そんなもの契約前に説明したじゃねーかと毒づきたくなった、まぁそれに比べたらニュース画面に何度も映し出されるウイルスの電子顕微鏡写真なんて目の端にも留まらず、前の年に大流行したミルクティーのタピオカ団子にちょっと似ているなんて思いながら笑っていたぐらいだ。やがて外国人観光客が日本に来なくなったので、おれは街に繰り出し、それまで食事どころか予約も取れなかった有名店の空間をほぼ独り占めし、ここぞとばかりにランチやディナーを楽しみ、ついでに店に同情していつもより少し贅沢な料理を注文してやった。――数ヶ月後には自分の味覚がおかしくなるなんて、その時はまるで思いもせずに。

 だがすぐに、おれの商売は真っ向から大打撃を食らった。最初の退去者は地方出身の女子学生で、学校の授業がリモートになったので実家に帰りますと言う。次が「家族が心配するので」帰国すると言った外国人留学生、この二人は比較的部屋をきれいに使ってくれるいい客だったのに、と惜しむ間もなく、二人の通っていた大学から集団感染が出て、学生たちは集団生活など危ないからと、次々に退去してしまった。本当なら違約金を払ってもらう決まりだが、皆そんな余裕はないらしく、おれは学生など相手に商売をしたことを後悔、する暇もなく外出自粛を要請される羽目になった。出ていったばかりの入居者の一人から、彼氏が発症したと連絡が来た。ということは信じられなかったが、おれも間接接触者になったのだ。まだ器具がまったく足りていない頃だったから検査も受けられず、おれはシェアハウスに一人残されて退去者たちの片付けをする羽目になった。入居中に酔っ払って椅子を壊した男子学生がいて、おれはその椅子を粗大ゴミに――出そうとして感染症予防のため粗大ゴミの回収が止まっていることを知り、行き場のなくなったその椅子に突っ伏して、おんおんと泣いた。たった数ヶ月の入居中、一度だけ酒を交わしたことがある。保証金はしっかり没収してやったが、設備を壊されたことを帳消しにできるぐらい、楽しい時間をくれた彼。こういう面倒や理不尽な仕打ちを受けることもあるけれど、おれはそれでも他人とつるんでいる時間が好きで、そこに酒が入れば言葉など必要ないと信じていた。嫁に浮気されて仕事まで失ってしまった時も、酒の縁で知り合った飲み屋の店主がアルバイトとして雇ってくれた。だがその人に再び連絡をしたら、店を畳んだと言われた。他人の体温と酒臭い息、そんなものは今や病原体と同じだ。おれはスマホを握りしめ、全世界から自分が消されたと思った。

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