おれ、ユーキ。

高梓文(コウシフミ)

プロローグ

 闇がある。

 いや違う、正確には闇を感じているおれがいるだけだ。

 実際には何も見えないわけじゃない。よく目を凝らせば、薄暗がりの数メートル上にあるのは見慣れた天井だ、数年前にリフォームした時に「昔の家ですからけっこう造りはいいですよ」と業者に言われてそのままにしておいた。

 それに、おれが寝ているこの場所の、壁を隔てた少し先には、数日前まで自分が暮らしていたのと同じような誰かの日常が、今も繰り広げられているに違いない――今まであった飲み会とか、他人との濃厚接触とかがなくなって、何をするにも肌に悪いアルコールを吹きかけなければならないという多少の不自由はあるけれどもそれこそ退屈するぐらい平和な日常が。

 それなのに今おれの目の前にあるのは果てしない闇だとしか思えない。長い子供時代を過ごし、そして新しい生活の出発地点にしようとしていたこの場所でおれの体は今、目に見えないウイルスと、さらにそれ以上の恐ろしい何かと戦っている。そばには誰もいない――誰もいてはいけないのだ。

 幸い症状は「今のところ」そんなにひどくはない。ただひたすらだるくて、さっき保健所から電話が来たので熱を測ってみたら37.5度だった。いとこの辰起たつきが送ってくれた、数秒で検温できるこの非接触式体温計は本当にありがたい。人生で何度か経験してきた季節性の風邪と、数字の上では大した違いはないことが証明された。

 だが画面上に現れたデジタルの角張った数字も、おれを闇の中から救い出してくれることはなかった。世界中を騒がせているこのウイルスに実際に感染するより先に、おれの中ではとっくに何かが壊れてしまっていた。熱が下がったところで、このウイルスが体から出ていってくれたところで、うん、今はそれを祈るしかないんだが――おれの信じていたもの、何より大好きだったものは戻ってこないかもしれない。それが何かって……ああ、こんな時になってもおれは頭が悪い、言い表す言葉が見つからない。昔からものごとを細かく考えるのが苦手だし、嫌いだった。そのおれが今、ぼんやりする頭でこれまでのことを振り返ろうとしている。これってもしや、死ぬ前に見る走馬灯……という縁起でもない考えを、感覚の鈍くなった頭を振って必死で打ち消す。おれは嫁に浮気されて離婚をした。リフォームする前のボロボロだったこの家で、癌に侵された叔母のマユミちゃんを看取った。おっと、その前にマユミちゃんの男になっていたトオルに逃げられたんだっけ。どんな時も、おれは怒ったり悲しんだり大変だったりしたけれど、あれこれ悩まず手足を動かして前に進んでいった。それなのになんだ、今のこの、無抵抗のまま闇に呑まれていくような感覚は。おれの中の壊れてしまったもの、それは「自分はあれこれ悩まない」という自信だったのかもしれない。

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