第5話 別れと旅立ち

 家に帰ったのはそれから三十分ほどたってからだった。二人で毛布にくるまり、僕の寝室のストーブに二人で温まっていた。僕らの手元のマグカップに注がれたココアは、冷えた両手をじんわりと温めてくれた。

「死ぬってさ、わかってたはずなのよ」

 両手に熱が戻ってきたところで、リディアが言った。

「うん」

 何を言えばいいのかもわからないまま、相槌を打つ。

「いつか、こんな時がくるって、わかっていたのに。もうね、頭の中が真っ白だったの。あとは胸のところからね、どんどん熱いなにかがあがってきてね、それからは涙しか出てこなかったの」

 リディアは俯いて、再びマグカップを握る両手に力を込め、爪をぎちぎちと立てていた。僕はリディアの背中をさすることしかできなかった。

 ターナーさんは警察に引き取られ、葬儀は遺言により行わないということだった。遺言は彼の部屋の写真たての裏に貼られていた。

「ねえ、おじいちゃんのお手紙、読んだの?」

 言おうかどうか悩んだ末、口を開いた。

「ああ、読んだ」

「何が書いてあったの?」

 書いてあることは、至極単純なものだった。

「三つだけ、だね」

「何?」

「葬式はしなくていい。さっさと埋めてくれ」

「あと一つは?」

「君を、家に送ってくれと」

 僕はその手紙を彼女に見せた。店の後始末のことは町の友人に任せてあるらしい。どうやら売りに出すようだ。

「私、家に帰らなきゃ、だめ?」

「ああ、帰るんだ」

 足を崩し、ココアを飲み干す。マグカップを隣に置いた。

「帰りたくないわ」

 リディアのココアは、小さな波を立て、震えていた。

「それでも、君は帰らなければいけないんだろ」

「ううん。私、ずっとここでいたいの」

 リディアは半泣きの声で言った。

「君には、やらなきゃいけない『役割』があるじゃないか」

 そう言うと、リディアは何も言わなかった。その夜は僕とリディア、二人で寝ることにした。リディアの身体は小さくて、僕の両腕にすっぽりと収まった。

「ねえ、バディ」

 リディアが耳元で囁いてきた。

「なんだい、リディア」

 同じくらいの音量で答える。

「もう一日だけ、ここにいちゃだめなの?」

 僕は何も言わず、リディアの長い髪をなでた。

 翌日、荷造りをした僕たちは、家を出る前に、リディアの家へ電話をかけることにした。

「うん、ママ。そういうことだから。バディに代わるね」

 リディアは淡々と帰ることを告げた後、受話器を僕に渡した。

「もしもし」

 少し緊張しながら、声をかける。

「あなたがバディさん?」

 受話器越しに聞こえた母親の声は、やさしかった。

「はい、バディ、ノーブです。このたびはご冥福を祈ります」

「はい。ありがとうございます」

「リディアちゃんは、無事送り届けますので」

「はい、よろしくお願いします」

 リディアの所々の物腰の丁寧さは、彼女の教育あってのものだろうか。母親の声はとても気品にあふれているように感じた。

「あの、一つだけきいてもいいですか」

 リディアのお母さんは言った。

「はい、なんでしょう」

「義父は、どんな顔をして死んでいました?」

 僕は彼の死に顔を思い出し、言った。

「まるで、良い夢を見ている子供のようでしたよ」

 そう言うと母親は、満足そうに「そうですか」と言った。

 家の外には、白髪で目つきの悪い老人が立っていた。腕を組み、何を考えているのか誰にも悟らせないように、眉間にしわを寄せていた。ターナーさんの友人だろう。遺言の件はあっさりと承諾した。どうやらこうなることはわかっていたらしい。

「じゃあ、あんたたちは帰るんだな」

 老人は言った。

「そういうことになりますね」

「OK、とりあえず町のバス停からシドニーのセントラルステーションに向かえばいい」

「はい、道ならある程度は把握しています」

 ご丁寧に地図まで用意してくれたんだ。

「リディアちゃん、元気でな」

 老人はリディアの身長に合わせて腰を落とし、頭をなでた。

「ありがとう、ジョエル」

 ジョエルと呼ばれた老人は、僕に右手を差し出し、握手を求めてきた。

「何と言ったらいいか、とにかく、ありがとう」

 ジョエルさんに僕は、「はい」としか言えなかった。リディアは泣きそうな顔をしながら、ジョエルさんに手を振った。

「行こうか」

 リディアは何も言わなかった。

 町に行く途中、見覚えのある小さな子供が二人、前から歩いてきた。

「やあ、悪がきコンビ」

 僕は二人に笑いながらそう言った。

「悪がきって言われてるよ、ジェームズ」

「お前のことだよトミー」

「なんだと?」

「やるか?」

「あんたたち、やめなさいよ」

 リディアが仲裁に入り、二人はピシッと背筋を伸ばした。

「ねえ、リディア姉ちゃん」

 トミーが俯きながら言った。

「なに?」

「もういくの?」

「うん」

 次に口を開いたのはジェームズだった。

「また、来るだろ?」

 リディアはしばらく黙りこんだ後、言った。

「当たり前じゃない」

 今まででと違い、リディアは大人びた口調で二人を抱きしめた。二人は肩を震わせながら、しばらくリディアを離さなかった。「もういこう」とは、言えるはずもなかった。

 二人は鼻水をたらし、顔をくしゃくしゃにしながら僕とリディアを見た。

「君たちには助けられたよ。本当にありがとう。出会えてよかった」

 僕も二人とハグをした。二人の鼻水がコートについたのはあまり気にならなかった。二人がこの地に来たことの始まりだった。彼らがいなければ、僕はどうなっていたのだろう。

「ねえおじさん。おじさんは何者なの?」

「そうだよおじさん。結局おじさんは誰なの?」

 僕は言った。

「バディ・ノーブ。そういう名前の男だよ」

 リディアは、少しだけ満足そうに微笑んでいた。

 町に到着後、バス停にはちょうど小さな青いバスが止まっていた。

「結構かかるから、寝とくといい」

 リディアは相変わらず僕とはあまり口をきこうとはしなかった。バスの中は人がまばらにいるだけで、遠くの町に出る交通機関とは思い難かった。白髪の老夫婦が一組。アジア人らしきカップルが二人。二人とも目を合わせていない喧嘩でもしたのだろうか。老夫婦は楽しく会話をしているというわけではなさそうだが、さりげなく二人とも手を握り合っていた。

 出発したバスは、僕が最初に乗っていたトラックとは真反対の方向へと走る。流れる雲も、そびえる山にも、生えわたる草原にも、お別れだ。

「リディア、僕はここに来れて本当によかったと思っているよ。本当だ」

「私はもっとここにいたかった」

 リディアのその声は、氷のように冷たく聞こえた。

 僕たちの喪失を埋める旅が、始まろうとしていた。

 バスの中でリディアは頭を揺らしながら眠りについていた。僕は高速道路に整備されたガードレールを見ながら、これからのことを考えていた。

 まずはセントラルステーションについてから、ブラックタウンへ向かう。そこから乗り換えで、カトゥーンバという駅で降りたら、リディアの家はすぐそこらしい。ブルーマウンテンという観光地があるらしく、壮大な景色が楽しめるようだ。リディアを送り届けてから行ってみるのもいいかもしれない。

 リディアが目を覚ますころには、景色は見違えるほど変貌を遂げており、高いビルやお店が連なる都会、シドニーシティへと到着していた。

 記憶をなくした最初のころを思い出す。あの日、僕は謎のスーツの集団に追いかけまわされた。あれからずいぶんと時間が経った。撒けたとなれば大丈夫なのだが、不安はぬぐえない。

 バスを降りて、リディアと手をつなぐ。リディアは拒否しなかった。

「なあリディア」

「なに?」

 ご機嫌は斜めなのか声は低く、重たい。

「ききたいことがある。どっちか選んでほしい」

「なによ」

 リディアは不機嫌そうに片手をポケットに突っ込んだ。

「このまままっすぐ家に帰るのと、動物園に立ち寄るのと、どっちがいい?」

 リディアは言った。

「動物園」

どうやら楽しい旅になりそうだ。








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