第6話 喪失を埋める旅


 動物園は中心街から歩いてすぐの距離にある。海沿いを歩きながらオペラハウスが遠くに見えた。多くの人で町はにぎわっており、手をつなぐ家族が散見した。僕もそんな彼らと同じように、リディアと歩調を合わせ、ゆっくりと港町を楽しんだ。

「オペラハウスには行ったことあるのかな」

 海の向こう側のオペラハウスを指差す。

「お母さんと昔に」

僕の顔を見ずリディアは答えた。

「どうだった?」

「つまんなかった。だって古いお芝居なんて見せられるのよ?」

「ははっ、そりゃ退屈だ」

 笑いながら僕は海を見た。波止場にはカモメが数羽止まっており、落ちているパンくずを拾ってはパクリと呑み込んでいた。その様を観光客のような風貌のアジア人が、写真を撮っていた。

「なにかあげるかい?」

 僕はリディアにきいた。

「何も持っていないわ」

「パンがあるじゃないか」

 店からおやつ用にクロワッサンをカバンにつめていた。一応人間用ではあるが鳥だって食べられるはずだ。しぶしぶリディアはカバンからクロワッサンの入った紙袋を取り出し、消しゴムほどのサイズにちぎり、鳥に差し出した。鳥は興味深そうにちょこちょこと近づいた後、パクリときれいにパンくずをたいらげた。

「うわあ」

 リディアが今日はじめて笑顔を見せた。頬は緩み、目は輝いていた。

「いつもそんな顔でいればいいのに、もったいない」

 そう言うとリディアはまたぶっちょうずらに戻りつつも、またパンをちぎっては鳥にあげていた。海沿いの風は少し強まり、僕の身体を冷やした。

「冷えるね」

 白い息を吐きながら言う。

「そうかしら?」

 リディアはパンをあげる手を止めない。すっかり虜のようだ。

「寒くないのかい?」

「別に」

 平気な顔でパンくずをあげ続けている。なんだかリディアがたくましく思えてきた。

「子供のころ半袖で遊んでなかったのかなあ」

 記憶がないからわからないけれど。

「もういこ、バディ」

 そう言ってリディアはまた僕と手をつないだ。その手は小さく、すっかり冷たくなっていた。

 しばらく進むと、ワイルドライフシドニーと書かれた屋内型動物園が見えた。

「来たことある?」

「ないわ、でも面白かったって」

「誰が?」

しばらくの間の後、いつもの口癖をリディアは答えた。

「……関係ないでしょ」

 それ以上はきくなという意思表示なのか、手の力が少しだけ強まった気がした。動物園の入り口に、木が一本飾られている。そこにはコアラが木によじ登ったまま目を閉じていた。

「寝てるのかしら」

 リディアは言った。

「どうだろう、でもこんなに人から見られているのに、寝られるのもすごいけどね」

 行列はそれほど多くできてなく、売り場に並ぶと十分ほどでチケットを買うことができた。

「意外とすいているね」

 僕は子供用のチケットをリディアに渡した。

「学校によっては、冬休み終わっちゃってるし」

 君のとこは? という言葉が喉まで出かかったが、また機嫌を損ねるといけないので呑み込んでおいた。チケットを見せ、薄暗い動物園の入り口に入る。若い女性スタッフが帽子をかぶり、登場した。

「はい、では写真を撮りまーす! ほら! 蛇が出たぞ! びっくりのポーズ!」

 僕とリディアは恥ずかしながらも驚いたまねをし、斜め上に指をさして口を開けた。なんだかその様がお互いにおかしくて笑った。

 それからは通路を進みながら、爬虫類やネズミなどが多く展示されていた。

「ブルーマウンテンに住む動物はもっと自由だわ」

 ケージの中で眠る蛇を見ながらリディアは言った。

「君の家の近くだっけ」

「うん。でもこんな狭いところでは住んでいないと思う」

 そう言ってリディアは次のコーナーに移動した。合間合間に鳥のショーや、蛇を触るコーナー、カンガルーを間近で見られるビニールハウスのコーナー。リディアの表情は、次第に穏やかなものにかわっていった。カンガルーが近くに飛んできたときは、「かわいい!」と叫びながら腰の毛を指先でつつくように触っていた。

「カンガルーが好きなのかい?」

「少しだけね」

 僕の言葉に冷静そうに答えながらも、表情は「ええとっても」と物語っている。わかりやすい子だ。学校では友達が多いんだろうか。だとしたら心配するクラスメイトや、会いたい友達の話でも出すだろうに。一向に出さない。リディアの背景に疑問を感じるようになった。

 動物園を出たところで、入り口で撮ったさっきの写真をスタッフから受け取る。

「バディ、変な顔!」

リディアは写真を指さして笑った。

「君だって似たようなもんじゃないか」

「バディよりかはましよ」

 そう言ってリディアはカバンに、僕はコートのポケットに写真を突っ込んだ。持ち物が、一つだけ増えた。

 出てすぐにある、お土産コーナーで、人形を見ているリディアにきいた。ちょうどランチの時間が近づいている。

「何が食べたい?」

「ハングリージャックがいいわ。しばらく食べてないの」

「ハングリージャック?」

「ハンバーガー屋よ、知らないの?」

 そう言えばそんな看板を駅の近くで見たような気もする。行ってみるのもいいかもしれない。

「行く?」

 リディアは言った。

「先に店の外に出ていてくれ。買う物がある」

 リディアが出ている隙に、僕はカンガルーの形を模した手袋を手に取った。薄茶色で温かそうだ。サイズもちょうど子供用だ。きっと喜ぶだろう。寒くないとは言えども手の冷たさはごまかせない。僕はレジに持っていこうとする途中で、なにかを感じた。

 まただ。あの気配。殺気にも近いこの気。背中の汗がじわりとにじむ。一週間前。僕を追いかけた謎のスーツ集団。やつらの仲間だと直感で理解した。

 しかしここで怪しい動きを見せるわけにもいかない。冷静を装いながら、他の客の間を通り抜ける。見るからに怪しい人はいない。じゃあ、この正体はなんだ。レジに持っていき、生産を済ませる。そのまま店を出ていこうとした時だった。

背中に誰かが立った。圧倒的存在感が僕の後ろで立ち止まっている。

「振り向くな」

 男の声だ。野太く、力強い。

「誰だ?」

 覚悟はしていたことなのに、声は少しだけ震えた。

「先週は世話になったな。あんたに用がある」

「そうか」

 何かしらの抵抗をしようとも思ったが、先週の一件もある。無事に済むとは思えない。おとなしく平静を装い、商品を吟味する客のフリをした。

「何が目的だ」

「質問は受け付けない、いいか。まず、うぎゃあ!」

「うぎゃあ?」

 彼はいい終わる前に叫び声をあげた。何が起きた? 

「バディ! 走って!」

 困惑する思考の中振り向く。後ろにいたのはリディアだった。ほっとする最中、男はうずくまっている。床にはバタフライナイフが落ちていた。前回のようなスーツではない。パーカーにジーンズを着た、普通の体格のいい若者だった。

「何をしたんだ?」

 逃げる前に僕はリディアに尋ねた。

「ケツの穴に指突っ込んでやったの」

「……田舎の女の子はアクティブだね」

「いいから行くわよ!」

 そう言って僕らは店から出た。リディアに手を引かれながら、周りの人の奇異の目線が突き刺さる。だが僕の心は、さっきの何倍も安定していた。

「あの人誰! 小さなナイフを持っていたわよ」

「僕がききたいよ! そんなこと!」

「全く! 記憶なくす前のバディは何したのよ!」

 リディアが今までで一番大きな声をあげた。そのまま街中を突っ切ろうとした僕たちは、とりあえず路地裏へと逃げ込む。大きなごみ箱の陰に隠れた。

「ここでやり過ごせるかな」

 リディアは不安そうに言った。

「さあ、どうだろう」

「無理だと思うぜ」

 今のは僕でもリディアでもない。渋く、鋭い声が聞こえた。背後に隠れていたのは、以前にもあったサングラスをかけ、スキンヘッドの男だった。

「やあ、久しぶりだね」

 平静を装うため、明るく対応する。

「ああ、そうだな。だが、もう終わりだ。観念しろ」

 手元の拳銃を取り出し、男は僕の顔を見た。だがそのあと、すぐにリディアの顔を見た。

「君は一体何者なんだ、なぜ僕を」

 僕の言葉を待たないうちに、男は後ずさりした。表情はサングラス越しでも明らかにわかるほど、困惑している。

「なぜ、いや、そんな、馬鹿な。なぜ、彼女がいる?」

 明らかに男はリディアを見て言っていた。腑に落ちないのはリディアも同じようで、僕の袖を引っ張った。

「ねえ、本当にどういうことなの?」

「わからない、とりあえず逃げよう」

 男の隙を見計らい、僕とリディアはまた走った。すぐ横の階段を駆け上がり、バス停にとまったバスに乗り込んだ。

「すいません、このバスはどこに行きますか?」

 僕もリディアも息が荒れていたので、客も運転手も困惑していた。

「ブ、ブラックタウンです。お急ぎですか?」

「ええ、早く、出してください」

 なんとか目的地に向かうバスに乗り込むことができた。

「結果オーライ?」

 席に座った後リディアは言った。

「みたいだね」

 ため息をお互いに吐き、座席にもたれかかった。景色が流れていく中、僕は買い物袋から手袋を取り出した。

「これ、つけなよ」

 リディアは目を大きく見開いて手袋を見た。

「やだこれ、すっごいかわいい!」

 さっきまでの疲れが吹っ飛んだのか、リディアは笑顔を取り戻した。

「ブラックタウンでなにか食べようか」

「そうね」

 バスに揺られながら、叶うことはないとしても、僕は当分リディアから離れたくないと思った。いつか離れなければならない運命でも、今だけはこうしてバスでのんびりしたいと思った。

 ポケットに手を突っ込み、写真の存在を確認した。安堵のため息が漏れた。





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