第4話 役割

 その夜、机に開かれた問題集を目の前に、リディアは頬杖をつき、うんうんと唸っていた。

「ねえバディ、この問題は?」

 ペンをで問題集をトントンと叩くリディア。

「ここはね、分数の割り算だから、分母と分子をひっくり返してかけるんだ」

 記憶はなくても知識はある。それを僕は活かし、家庭教師のまねごとをしていた。

「割り算なのに掛け算をするの?」

「そういうことだね」

「よくわからないわねえ」

話によると、どうやらリディアはずっとここに住んでいるわけではないらしい。

「冬休みはいつまで?」

「もう関係ないわ。私はこのお店に一生をささげるの」

 リディアは算数の問題に取り掛かりながら、なんでもない風にそう言った。一生をささげるか。うらやましい言葉だ。

「それでも学校の勉強はするんだね」

「当たり前よ。算数ができないパン屋さんなんて恰好悪いわ」

「それもそうだ」

「それより、あなた本当に何者なの? 勉強ができたり、パンの作り方までわかるなんて」

 あの日から一週間。僕はパン屋の手伝いをしていたのだが、なぜか無意識に、パンの焼き方等の仕事内容をすべて理解していた。

「さあ、そんなこと、僕が一番知りたいよ」

 そんなことを言いながら次の問題に取り掛かった。

 翌日。僕がパン生地をこねているときだった。

「あなた、何もきかないのね」

 焼きあがったパンを網から取り出しながら、彼女は言った。

「なにをだい?」

 こねる手を止めずに反応する。

「なんであなたを追い出したの? とか。なんでおじいちゃんの代わりに働いているの、とか。学校はどうするつもりなのかとか。そういうこと」

「きかれたら答えてくれるのかい?」

「……」

「言いたくないようなことをわざわざきかないよ。それに」

 それに。それほど僕にとってそれは重要ではないし。何より、彼女と僕の志は近いのかもしれない。

「関係ないだろ?」

 リディアの口癖をまねしてみた。リディアは「はいはい」とあきれながらパンの袋詰めを始めた。そこからいつものように外へ商品を販売しに回って行く。この一連の作業を彼女一人がやっていたなんて最初は驚いた。僕はそれからひたすら鉄板や網をダスターで拭き、床をほうきで掃き、明日の注文の内容を確認した。明日は食パンを五斤届けなければならない。遠出の注文はしばらく断っていたとのことだが、僕が来てからは店の車で配達が可能となった。僕という存在が、役に立っていることに喜びを感じていた。時計を見るともう一時になろうとしていた。鍋でコーンスープを作り、二階へと運ぶ。彼女と僕、二人で料理の担当を分担していた。今日は僕の担当だった。

「昼食を持って来ましたよ、ターナーさん」

「おお、ありがとう」

 声はいつもより明るく、元気そうで安堵する。中へと入り、スープをベッドサイドのテーブルに置いた。

「今日は調子がよさそうですね」

 横の椅子に腰かけ、そう言う。

「ああ、不思議なことにね。こんな晴れやかな気分は初めてだ」

 ターナーさんは窓の外の空を見た。何度も見ているはずなのに、その表情はどことなく幸せそうだった。

「いつも、ありがとう。バディ」

 バディ・ノーブ。それが僕の名前となった。(nobody )をもじったものだとリディアに言われた。我ながら気に入っている。

「いいえ、僕も、どこに行けばいいのか、わからりませんでしたから」

「そうか。なにか意味があれば、いいのだがな」

「ありますよ。だって僕は、ここですごく充実した時間を過ごしています。

 ターナーさんは少しほほを緩め、目を閉じた。

「あの子が、どうしてここで仕事をしているか、きいたかい?」

「いいえ、何も」

「きかなかったのか?」

「言いたくないと、思ったので」

「君はやさしい人だな」

 やさしい人。やさしくあろうとすること。この二つの言葉が僕の胸をちくちくと刺激する。

「そんなんじゃ、ないですよ」

「謙遜するんじゃない」

「……はい。ターナーさん。続き、話していただけますか?」

「ああ、今までここは、私と妻で営んでいた、パン屋だったんだ」

 ターナーさんの目線は窓の外から、タンスの上に立てかけられた、白黒の若い男女の写真へと移った。男性の方は、どことなくターナーさんの面影があった。長いブロンドの髪をシュシュで一つにまとめている奥さんは、歯を見せながらまぶしいほどの笑顔を見せていた。

「素敵な奥さんだったんですね」

「ああ、最高の妻だった。彼女とずっと一緒にいることが、私の役割だと思っていたんだ」

 思っていた。その過去形の言葉から、それはある日終わりを告げたことがわかった。この家に漂う悲壮感の正体なのかもしれない。

「妻は二年前に死んだ。呆気ない最後だった。もともと彼女の方が年上だったから、先に死ぬのはわかっていたのだがな」

「その……お気の毒に」

 言葉に詰まりながら、労いの言葉をなんとか絞り出した。

「かまわんよ。私が勝手に話しているだけさ。そこからだ。私は一年もたたずに病に冒された。しばらくの入院生活の末、余命が少ないことを知らされた。私は言った。家でいたい、と。妻と過ごしたこの家で、私は死にたかった。それから余生を家で過ごそうと思っていたときに、リディアが来たのだ。孫のリディアが、私の身体のことを聞きつけ、息子夫婦とともにやってきた」

「それで、家族がお帰りになっても、リディアが残ったと」

「そういうことだ。二人とも、仕事を休んで面倒をみるとまで言ってくれたが、一人でいたい、と言ったんだ。それでもリディアだけはきかなかった。冬休みの間だけでも、ここでいたいと」

 きくところによると、リディアは以前からこのハンターバレーのパン屋に長期休暇のたびにやってきては、手伝いをしていたらしい。それゆえに愛着も大きかったのかもしれない。

「でも彼女、冬休みが終わってもここに残る気みたいでしたよ。ここに一生をささげるとか、なんとか」

「ピーナッツの読みすぎだな」

 ピーナッツというマンガは、彼女のお気に入りのようだった。あの有名なビーグル犬の、スヌーピーが出るものだ。

「そんなセリフがあるんですね」

「ああ、チャーリーブラウンが、スヌーピーのために学校をやめようとした時のセリフだ」

「なるほど」

 チャーリーブラウンのセリフを無意識に使う彼女は、自分となにかを重ねているのだろうか。一つ一つの趣味嗜好には意味があるのではと、変に勘ぐってしまう。

「なあ、こんな縁起でもないことを言うのもなんだが」

 考え込む僕にターナーさんは言った。

「なんですか?」

「あの子を頼んだよ」

 その日の夜、老人。ビリー・ターナーは息を引き取った。先に気がついたのは彼女だった。いつもよりパンが売れたことを伝えるためにはしゃいで、部屋に飛び込んだときだった。僕は厨房で掃除をしていた。

 リディアの叫び声とともに僕も部屋に入った。

 リディアの献身的に続けていた介護も、店の手伝いも、すべてが終わりを告げた瞬間だった。それは彼女のアイデンティティの喪失を意味していた。

「これ、どういうこと?」

 返事をせず、穏やかな顔で冷たくなったターナーさんを見て、リディアは言った。

「……言いにくいことなんだけど、つまり、その」

「死んだってこと?」

 言葉に詰まる。だが、伝えなければいけない。知らなければいけない。

「……そういうことに、なるかな」

 リディアはしばらく黙りこんだ後、振り返り、僕を押しのけ、部屋を飛び出した。

「リディア! どこに行くんだ!」

階段を下りるリディアを追いかける。どたどたと二つの足音が家に響く中、玄関の開く音がした。リディアが、傘も持たず、レインコートも着ずに、家を飛び出した。晴れていたはずの空は暗雲に包まれ、ゴロゴロと唸りのような雷鳴が響いた。暗い嵐の夜だった。僕は出て行ったリディアを探すため、懐中電灯をポケットに突っ込み、外へ飛び出した。長靴をはいている暇なんてなかった。激しい嵐に包まれたハンターバレーの草原は、容赦ない暴風で僕を押しだそうと必死だった。足取りが重くなりながらも、僕はリディアを探すことに必死だった。

「リディア! どこにいるんだ!」

 あの子を頼む。ターナーさんのその言葉が、今の僕をつなぎとめるものだった。視界の悪い中、ポケットに突っこんでいた懐中電灯をつける。地面にはくっきりとリディアの足跡がついていた。それをたどりながら、声がかれるまで名前を呼び続けた。

 服はぴったりと体に張り付き、靴は水分を吸い取り、ずぶずぶと水がたまった音がする。髪の毛はバケツの水をかぶったかのように、びしょぬれになっていた。

 足跡の先には崖があった。そこにリディアは、膝を抱えて座っていた。

「ここにいたのか。さあ帰ろう、」

 おじいちゃんが心配している。そう言いそうになった自分を恥じた。僕は一度口を閉じた後、もう一度呼びかけた。

「風邪をひく。帰ろう」

「いや」

 リディアはこちらを見ずに言った。

「早く」

「いやよ」

「リディア」

 語気を少しだけ強め、一歩前へ出た。

「こないでよ! 私はもう、どこにもいる意味なんてないのよ!」

 リディアが勢いよく立ち、振り返ったと思った矢先、バランスは後方へと崩れた。そこからはあっという間だった。リディアは両腕を案山子のように開きながら、崖の向こう側へと倒れ込んだ。

「リディア!」

 僕は懐中電灯を投げ捨て、崖の下へと落ちるリディアのところへ走った。そして、跳んだ。ためらいもなく僕は、リディアを助けるために崖の下へと向かった。下には川が流れていた。反動で来る風が僕の内臓をふわりと浮かせながら、数秒後にはざぶんと川へ到達した。両足に電流が流れるような激痛が走った。リディアは苦しそうに身体を浮かべ、沈むことに抵抗しながら、河口へと流れて行った。泳ぎながら少しずつリディアに近づく。残り数メートルほど近づいたあたりで、リディアの頭が水面から消えた。水中に僕も潜る。そして手探りで進みながら、冷たく細い、腕をつかんだ。そのまま引き上げ、二人で息をした。

 リディアはしばらく呼吸を整えた後、谷全体に響くほど、泣いた。

 僕はリディアの頭をなでつづけた。

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