第3話 パン屋の少女

 じんわりとあたたかい。電車の中以来、暖房のついた空間に触れていなかった。重たい瞼をゆっくりと開く。こげ茶色の壁が黄色く、小さなランプに照らされている。横たわる身体には、茶色いふかふかの毛布。コートは暖炉の近くの椅子にひっかけられており、僕はインナーの白いトレーナー姿だった。

 ここはどこだろう。そう思いながら身体を起こそうとするが、うまく動かない。倦怠感がとても強く、このままベッドとともに生きていきたいという誘惑にも襲われた。僕はなぜこんなところにいるのだろう。部屋の内装にも、天井の色にも、ほのかに漂う甘い香りにも、覚えはなかった。けれど、少しだけ懐かしいとも思った。自分の戻ってくる場所ではない。けれど、ここと似たようなところを、知っている気がした。

 首を動かして部屋を見渡していると、入り口の扉が開き、そこから光が入ってきた。

「あら、もう起きたのね」

 そこに立っていたのは、透き通るようなブルーの瞳をした、十代前半と思われる、幼い少女だった。あれ? どこかで見ただろうか。見覚えがある気がするが、気のせいだと判断した。

 金髪の髪を後ろで一つにまとめており、黒いエプロンにはところどころ白い粉がこびりついている。茶色いワンピースを下に着ていて、スカートは膝の先まで伸ばしていた。だが、活発そうな強い眼光は、まだ見ぬ彼女の性格を表しているようだった。

 両手で危なっかしそうに持つお盆には、湯気の立つ黄金色のスープに、手のひらサイズのクロワッサンが二つ。きつね色の焼き色は、僕の食欲をそそった。

「こ、ここは?」

 うまく動かない口を何とか動かし、意思疎通を図る。

「あなた、森で倒れていたんだって。悪ガキコンビがここまで運んできたのよ。救急車を呼んで待つより、こっちのほうがいいって」

 どうやらあの出来事は夢ではなかったらしい。僕の状況は何も変わっていない。ただ、温かい寝床で眠れたのは、ありがたいことだった。

「あ、ありがとう」

「いいわよ。それより、もう体は大丈夫なの? お熱はなかったみたいだけど」

 少女はお盆をベッドサイドのテーブルに置いて、顔と顔の距離が数センチほどにまで接近させる。シャンプーの香りがふわりと漂った。僕の額に小さな右手を置く。小さなその手のぬくもりに、人の温度とは何かを思い出させてくれた。

「ありがとう、と、とりあえず僕はもう」

「待ってよ、起きたばかりじゃない」

 彼女の手をどけ、体を起こそうと両腕に力を入れ、起き上がろうと試みた。だがその努力もむなしく、体が少しだけ浮いたと思えば、二秒ほどでベッドに再び倒れこんだ。

「まだゆっくりしていきなさい」

 少女の気遣いに僕は苦笑した。

 かろうじて動く両手を駆使し、食事にあり付いた。

「このクロワッサンおいしいね」

 パンとスープを平らげ、空腹も満たされたところで、少女に告げた。

「でしょ? 小麦の丘特製の焼きたてクロワッサンなんだから。味わってもらわなくちゃ」

「ここは、お店なのかい?」

「ええ、そうよ」

「いや、でも、君は子どもじゃないか」

「関係ないでしょ?」

 少女は僕の言葉に怒るどころか、少し誇らしげにそういった。この子の親は? 家族は? 学校は? 疑問は尽きない。

「いいや、いいと思うよ」

 頭の中の疑問をすべて捨て、曖昧にそう肯定する。少女は満足したらしく、部屋を出ていこうと僕に背を向けた。

「待ってよ、君の名前は?」

 僕の呼び掛けに、振り返りながら少女は答えた。

「リディア。リディア・ターナーよ」

 透き通るようなその声は、まるで青空のようだった。

「そうか、リディア。ありがとう」

 リディア。リディア。記憶に焼きつけるために、脳内で復唱する。

「ええ、どういたしまして。おじさん」

 リディアは僕の名前をきくことなく、部屋を後にした。

 その日、僕は一日中ベッドで寝ころんでいた。カーテンを開け、たまに外の景色を見ていた。一時間に数台、軽トラックが地平線を走るかのように右から左へ通り過ぎる。雲は穏やかに流れ、家畜を飼っている家では、牛や馬が牧草を貪っていた。

 その穏やかな景色を見ながら、ふとむなしさに襲われる。

 ここを出たら、僕はどこへ向かえばいいのか。何を目的にしたらいいのか。手がかりは薬と千ドルだけ。なんの情報にもなりやしない。彼女にお礼のお金を払う以外に、僕は何か自分のできることを考えてみた。

 彼女以外に、この家で誰かが動く気配はない。もし本当にパン屋なのだとしたら、助けが必要なのではないかと思った。次の日、僕は鈍い体をようやく動かすことができた。三食とも彼女に世話になっている。このままではいけない。僕の探している、役割をここで見つけることができるのではないかと思った。

 起きた時には彼女はすでに朝食を置いて行ってくれていた。今日は白いミルクパンを作ってくれたようで、それを味わって平らげる。とろけるような甘さが、パンをかみしめるたびに、口いっぱいに広がった。牛乳でパサパサになった口を潤し、一呼吸置く。そしてゆっくりと立ち上がった。

 二日ぶりに歩く感覚は、いつもより妙にふわふわしていて、地上を歩いている気分ではなかった。何かしらの役割。それを見つけるために部屋を出た。部屋が二つほど並んでいた廊下を進み、階段を降りた先には、広々とした厨房のスペースがあった。僕の鼻の高さほどのオーブンがその部屋の中枢であるような存在感を放っていた。銀色の作業台の真ん中に、白い粉がこびりつき、あたりに調味料が散らばっている。砂糖に牛乳。イーストに小麦粉。なぜか見るだけですべての名称がわかった。砂糖の袋を手に取ってみたが、中身はほとんどなかった。小麦粉も半分程度しかない。

 とりあえず僕は乱雑な厨房を整理するため、材料をテーブルの端っこにかため、見栄えをすっきりさせる。どうにも散らかったところというのは気に食わない。水道代のところにフックでつりさげられたダスターを手に取り、乾拭きでテーブルのごみを落とす。そこから水で濡らしてテーブルを拭いた。

 粉の汚れはすべてとれ、テーブルは元の銀色の輝きを取り戻した。今度は床に落ちているごみが気になりだし、壁に立てかけられたほうきでまとめ、塵取りで回収した。その間三十分ほどで、厨房は見違えるほどすっきりした。細々としたものが排除されれば、さっきまでより広く感じる。

「さて、次はなにをしようかな」

 そういった時に、カランカランと、店の入り口のほうから音が鳴った。カウンター越しに見えたのは、リディアだ。どこかに出かけていたのだろうか。空になった籠を手にぶら下げていた。訪問販売のようなこともしているのだろう。

「おかえり」

声をかけると、リディアは目を丸くして僕を見た。

「動けたのね」

「おかげさまでね」

 リディアは離れた距離で厨房の様子を確認するように背伸びした。そこから籠を乱暴にレジの横に置いて、中へ早歩きで入ってきた。

「なにこれ」

 不機嫌そうにテーブル、壁、床、水道。あちこちに目を向けるリディア。歯を食いしばっているそのさまは、喜んでいるようには見えなかった。細めた目をキッと僕に向ける。

「あの、その、お礼を」

 自己弁護を試みようとしたが、声は次第にフェードアウトしていった。

「なんでこんなことしたの」

 リディアの言葉は針のような鋭さを持っていた。さっきまでの満足感はとうになくなっていて、僕の足は震えた。

「いやでも」

「やめてよ、勝手なことしないでよ」

 いつものパンを運んでくれる少女とは様子が違った。顔はうつむいて、両手の握りこぶしは小刻みに震えていた。

 そして黒い革靴で、作業台の足を、思い切り蹴った。ドン! と衝撃音が、厨房の空間に広がる。殴られるよりもひどい痛みを感じた。

「出てってよ」

 僕の言葉を待たずに、リディアはうつむいたままそう静かに告げた。

「……でも」

「いいから出て行って」

 声のボリュームはさっきより上がり、今にも暴れだしそうな殺気を肌が感じた。何も言えずに、そのまま二階へと上がり、僕の寝ていた部屋へと向かった。足はどうにも重たく、ため息が漏れた。胸の中では余計なことをするんじゃなかったという思いで埋め尽くされ、朝食をすべて吐き出してしまいたい気分だった。

 ここでも、僕は異物なのだ。役割も持てず、だれにもなれない。いない方がいいんだ。部屋に戻って、コートを羽織る。ポケットに手を突っ込み、指先で財布を確認した。こいつだけが僕の存在を許してくれている気がした。

 少女と言葉を交わさないまま、僕は家を出た。振り返ってみる。初めて見た穏やかな一軒家のたたずまいは、この土地にとても馴染んで見え、一枚の絵として完成しているように見えた。

 だが、どことない悲壮感もあった。以前はとても華々しかったにしても、それはもはや過去のことであり、どんなに美しかった過去があったにしても、それはもう過ぎ去ったこと。そんなノスタルジーを醸し出していた。

 名残惜しくもあるが僕は家に背を向けた。

「にゃん」

 庭の茂みからそう聞こえた。近づいてみると、小さな猫が這い出てきた。虎柄の、どこにでもいそうな雑種の猫だ。グレーの瞳は僕を同情するように見つめてくる。

「君には居場所があるんだね」

 答えられないのはわかっているのに。馬鹿なことをしていると自分でも思う。猫は首をかしげて僕の目を見た。ここにとどまる理由が、少しだけでもほしかった。何が彼女の機嫌を損ねたのかはわからないが、今から僕にできることはなんなのか考えた。考えた末、僕は彼女の家の裏手にある森を目指すことにした。

 森に入ると、あの悪がき二人、ジェームズとトミーがまた木陰に座り、なにかを話している様子だった。

「おーい、ジェームズ! トミー!」

 二人は僕の言葉には反応せずに、雑談を続けていた。

「だからさジェームズ、地震はなにかの組織の陰謀なのさ」

「陰謀? そんなわけないだろう、プレートとプレートがこすれるのが地震だぜ?」

「もしかしたらって話だよ。ほら、なんとかの予言だってもうすぐだろ?」

「あんなのでたらめ、みんなこじつけに決まっている」

さっきより声を張り上げることにした。

「トミー! ジェームズ!」 

 トミーがようやく気付いたようでこちらに顔を向けた。

「あ、おじさん」 

ジェームズも心配そうに顔を向けた。

「身体はもう大丈夫なのか?」

「ああ、おかげさまでね」

「本当あの日はびっくりしたなトミー」「だよねジェームズ。急に気絶しちまうもん」「僕がリディアの家に運ぼうって言わなきゃどうなっていたことか」「おいジェームズ、運ぼうって言ったのは僕だぞ」「いいや僕だね」「なんだと?」「やるか?」

 もうこのやり取りも久しぶりで、なんだか微笑ましい。

「とにかく二人ともありがとう」

「どういたしましておじさん」「礼には及ばねえよおじさん」「で、どうかしたの? おじさん」

「そうだよ、一体どうしたんだ? リディアの家から出てこれからどうするんだ?」

 二人の言葉をじっくり聞きながら、とりあえず僕の要求を伝えることにした。

「ちょっとききたいことがあってきたんだ」

「なんでもきいてよ、おじさん」「おいジェームズ、今のは僕だったよ!」「どっちだっていいだろ、僕の方がこのあたりには詳しいぜ」「僕だってさ! というかジェームズ、僕らは生まれてから今までずっと一緒だったろ?」「そりゃあそうだけどよ、頭は僕のほうがいいぜ?」「なんだと? こないだの算数のテスト何点だった? 言ってみろよ」「な、何点でもいいだろ」「ほらほら早く」

 僕の要求をきいてくれたのは、二人の言いあいが終わった約一時間後になった。



 その日の夕方、僕はまたあの店の前に立っていた。日は傾き、草原をオレンジ色に照らしている。風は冷たいが、心臓の鼓動は早かった。手に持ったレジ袋をぎゅっと握りしめ、インターホンを押した。

「はい」

 リディアがしばらくすると出てきた。

「今日はごめんね」

 リディアは口をあんぐりと開けて僕を見た。戻ってくるなんて思っていなかったのだろう。

「どう、して?」

 口をぱくぱくとした後、リディアは言った。

「いや、これもう切らしそうだったから」

 できる限り平然を装いながらリディアに袋を差し出す。袋と僕を交互に見た後、恐る恐る両手で受け取った。ちらりとリディアは中身を確認する。

「買ってきたの?」

 袋から取り出したのは、業務用の砂糖と小麦粉だった。

「掃除してたら、もうなくなりそうだったからね」

 また怒りだす前に、僕はリディアに背を向けた。自分が良かれと思ってした行動だが、もうそれが裏目に出る事実は見たくなかった。自己満足でも、僕の存在した証を残したかった。あの二人に町の場所を聞き出すのがもう少し早ければ、なおよかったのだけれど。

「それじゃ、さよなら」

 歩き出す僕のコートの裾が、なにかにつかまれた。その力は弱弱しかったが、確かに僕を引きとめているようだった。振り返る。

「ねえ、きかせてよ」コートの裾をつかむリディアは言った。

「なにを?」

「あなたは誰?」

 言葉は出ない。

「どこからきたの?」

「駅の掃除ロッカーからかな」

 その質問には答えられた。

「つまらない冗談」

「いいじゃないか、これくらい」

「ねえ、あなたはどうして、掃除をしたの?」

「泊めてくれたお礼さ」

「でも、私は追い出したわ」

「追い出されても、何かしたかったんだ」

「どうしてよ」

 僕は悩む間もなく、自然に言葉が出た。

「僕は自分が誰だかわからないんだ」

 僕は話した。自分が目覚めてからどうやってここまできたかとか、どんなことを考えてきたかとか、そういうことを。リディアは黙って僕の話を聞いてくれた。うそつきとか、でたらめを言うなとか、そんな野暮なことは何一つ言わなかった。ただ、静かだった。

 一通り話し終えたあと、お互い黙り込んでいた。きっと何を言えばいいかわからなかったからだろう。それはきっと僕も同じだ。風が吹いて、木々の葉がざわめきだしたとき、彼女は口を開いた。

「入って」

「いいのかい?」

 リディアは返事をしないまま、家の中へ向かった。僕も後を追う。厨房を通り抜け、階段を上る。二階の廊下から右手の、一番手前にある部屋。それは僕が寝ていた部屋ではない、別の部屋だ。

「おじいちゃん、入るね」

 リディアは言った。僕も一緒に中へと入る。部屋には布団をかけてベッドで寝ている老人の姿があった。壁には天井まで続く茶色い本棚があり、分厚い専門書のようなものから、雑誌のようなものまで、幅広い。その本に囲まれるように、老人はベッドで静かに目を開き、横たわっていた。

「おお、リディア、あの人は起きたたんだね」

 やさしい低い声で老人は上を向いたまま言った。

「ええ、無事にね」

 僕もその言葉の後に深々と頭を下げる。どうやら家主はこの人らしい。

「本当にありがとうございます。何とお礼を申し上げたら」

「いいや、いいんだ。私こそ何も世話できないですまない」

 老人は笑いながら言った。だがどこかしら元気がない。頬は痩せこけ、髪は残っていなかった。生気が薄い、と言うのが適切だろうか。

「君、名前は何と言うんだい?」

 僕が何と言うのか詰まることをわかっていたのか、リディアは言った。

「バディ。バディ、ノーブさん」

 聞き覚えのない名前を、あっけらかんに紹介されてしまった。

「リディア、一体」

 どういう意図なのか質問をしようと、耳元で囁いた。

「黙って」

 小声で睨まれ、僕は口を閉じた。

「ねえおじいちゃん、前に私はおじいちゃんの代わりにこのお店を任せてって言ったわね」

「ああ、言ってくれたね。だけど、もう無理しなくて」

 老人が言い終わる前に、リディアは言った。

「ええ、もう無理しないわ。優秀な住み込みバイトを雇ったから」

 リディアはにんまりと僕を見た。

 いつの間にか僕はこの店の従業員になっていた。

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