第2話 田舎町とリンゴ泥棒

目が覚めたところが、狭くて埃まみれでないだけましだとは思ったけれど。リンゴを荷台に積んだトラックというのも、快適とは言い難い。移動する振動の度にリンゴが身体にねじ込まれているようで、地味に背中や腰を攻めてくる。

 だが、落ち着くうちに視界に広がる雲ひとつない透き通った青空と、目が痛くなるほど広い草原は悪くなかった。今までにない解放感が、吹き抜ける風と共にやってきた。空気がさっきまでの都会と全く違う。どうやらだいぶ遠いところに来たようだ。気温もいくらか低い。コートのポケットに手を突っ込み、ぬくもりを求めた。いったいここはどこだろうと考えているとき、数メートル先の看板がそれを教えてくれた。

 『ハンターバレー』

 それがこの土地の名前らしい。草原だけではなく、ところどころにブドウ畑が茂っている。土地が広いだけあって家は大きなものが多く、柵を構えた向こう側には、樽がなぜか置かれていたり、馬や牛がのんびりと惰眠をむさぼっていたり、のんびりと草を食べていたりと、見ているだけで心が溶けてしまいそうになる。けれども遠くにそびえる山々の壮大さは、僕の孤独感を助長した。

 どうやら謎の男たちは撒くことができたようだ。一息吐く。いったい彼らは何者だったのだろう。もしかして僕の素性を知るものなのかもしれないが、つかまって問答無用で射殺されてはたまったものではない。何のために僕はここにいるのか。いったい、僕は誰なのか。何者なのか。

 そんな考えを三回ほどループさせたところで、トラックは白い煙突がついた家の前に駐車した。運転手がトラックから降り、家のインターホンを押す。

「あらエドガーさん、いつも御苦労さま」

「やあ、今日は新鮮なやつを仕入れてきたんだ」

 運転手のエドガーという男が目を離したすきに、痛む身体を起こしながら、慎重に荷台の端っこに手をかけ、地面を見た。そこにいたのは二人の六歳くらいの少年だった。片方は眼鏡をかけた金髪の男の子。もう一人は栗色の天然パーマの男の子だった。

「だ、誰だい君たち」

 小声で少年たちに話しかける。

「シーッ! 静かにしてよ。僕たちのプランが台無しだ」

「お前も声が出けえよ」「お前もだよ」「なんだと?」「やるか?」

 喧嘩が始まってしまった。絵にかいたようなでこぼこコンビだ。

「とにかく、僕はここから降りたいんだ。しかもあの運転手にばれないように」

 二人はしぶしぶ僕が降りられそうなスペースを確保した。慎重に僕は荷台に手をかける。その時だった。

「おい! 誰だあんた!」

 しまった。気づかれた。あわてて降りてトラックの死角に身を隠す。

「あの悪がきコンビのボスか! おとなしく出てこい! 今度こそひっ捕まえてやる」

 怒声とともに足音が近づいてくる。この状況での脱出経路は、ない。

「どうしてくれるんだよおじさん」

 絶望しているさなか、眼鏡の少年が僕のすねを抓った。

「ああクソ、痛いじゃないか! 君たちがあんなところにいるからいけないだろ」

「うるさいぞおじさん!」

 叱ったら逆切れときた。

「うるさいのはお前だ!」

 今度は栗色の少年が眼鏡の少年につっかかる。

「二人とも落ち着いて。なんとかこの状況を切りぬけないと」

 どうにかしないと僕たち三人ともえらいことになってしまう。僕にいたっては無賃乗車のようなもんだ。どんな目にあわされるかわかったもんじゃない。

「昨日から追いかけられてばかりだな」

 そう愚痴っても仕方がない。

「このまままっすぐ逃げる?」「じゃあ三つに分かれるか?」「いや、まっすぐだ」「わかれるほうがいいよ!」「まっすぐ!」「わかれる!」

 またさっきと同じ流れで喧嘩が始まってしまった。このままでは埒が明かない。経路は確かにない。だが、手段ならまだあった。

「ここはおじさんのアイデアに任せてくれないか? いい手を思いついた」

 不思議そうに頷く二人に、耳元でアイデアを告げる。二人は「それは面白い」と了承し、眼鏡の少年は立ちあがり、堂々とトラックの前へ出ていった。

「ごめんなさい、エドガーさん、僕だよ」

 若干の棒読み口調だが、なんとか目を引きつけていた。

「またお前か。懲りもせずにリンゴを盗もうとしやがって」

 怒声がさらに強くなる。

「まだ盗んでないよ」

「どっちでもいいさ。たくらんでいたのには変わりはない」

「うん、反省しているよ」

 いやに物分かりがいい少年の反応に、エドガーは困惑したように言葉を詰まらせた。

「今日はお前さん一人なのか?」

 怪訝そうにエドガーは言う。

「いいや、違うよ」

 その瞬間、僕は車のエンジンをかけ、ギアをドライブに合わせた。サイドブレーキを解除し、アクセルを踏み込む。

「あ! 俺の車が!」

「ばいばいお間抜けさん!」

 荷台に乗っている栗色の少年がアカンベーをしながらエドガーと眼鏡の少年に手を振った。

「ちっ、お前ら図ったな!」

 エドガーが車に気を取られているその隙に、眼鏡の少年は反対方向へと駆け出した。僕らは車で家の裏に回り込む。ここで彼と合流予定だ。案の定息を切らしながら、眼鏡の少年は木にもたれかかっていた。

「ジェームズ! 早く乗れ!」

 栗色の少年は眼鏡の少年ことジェームズへ荷台から手を伸ばした。ジェームズはその手をつかみ、バランスを崩しそうになりながらも、なんとか無事に引き上げられた。

「イエーイ! 大成功!」

 少年たちは後ろの荷台でハイタッチをした。僕も右手でハンドルを操作しながら、左手で大きくガッツポーズを決めた。

 車はそのまま近くの人目のつかなさそうな大きな森の中に避難した。ここなら見つかることはない。エンジンを切り、ぐっと伸びをした。すると後ろから、また騒がしやり取りが聞こえてきた。

「僕のおかげで助かったんだぞ? トミー」「なんだって? ジェームズ、僕が引き上げなければ君はつかまってたかもしれないんだよ?」「なんだと?」「やるか?」

 どうやらこの二人はずっと喧嘩をしていないと気が済まないらしい。その様子がなんだかほほえましくて、思わず笑いがこみあげてきた。

「何がおかしいんだよ、おじさん」

 ジェームズが不機嫌そうに僕に問う。

「いいや、なんでもないさ。それより助かったよ。本当にありがとう」

「礼には及ばないさ」「ちょっと、僕に言ったんだよ?」「違うぜ、僕さ」「なんだと?」「やるか?」

「二人に言ったんだよ」

 僕の言葉に二人はにらみ合いながらも頷き、荷台に敷き詰められた大量のリンゴにかぶりついた。

この二人には短いながらも今までの人生があって、ここでの楽しみがあるんだなあと思うと、、急に虚しくなる。心の風穴に隙間風が通り抜けているようだ。

「君たちは、いつもああやってリンゴを盗んでいるのか?」

 僕も一つリンゴをつまみ、かじりながらきいてみた。先に反応したのは栗色の髪の毛の、トミーだった。

「ああ、そうさ。あのエドガーさんの間抜け面が好きなんだ」「前に蛇を運転席にほうりこんでやった時は最高だったよね」「おいジェームズ、ほうりこんだのは僕だぞ?」「いや、最初に蛇を見つけたのは僕じゃないか」「運転席に放り込んだのは僕だ!」「うるさいなあ」「なんだと?」

 二人の途方もない言いあいをぼんやりと見つめながら、うらやましいなと思った。その乱暴な言葉のやり取りの裏側にある、陽だまりのような小さなぬくもり。それを僕は知らない。そういう友達がいたことも、わからない。誰かを辱めるいたずらを計画して、実行する。そんなことを日常的にすることが、彼らの役割なのだろうか。だとしたら、僕にとって彼らは、とても遠い存在なのかもしれない。

「あれ?」

 ジェームズが右手で地面を抑え、眉をひそめる。そして、同意を求めるようにトミーを見た。トミーも同じようなものを感じ取っているらしく、深く頷く。

「二人とも、どうしたんだい?」

「なにか、くる」

 ジェームズがつぶやいた瞬間、膝立ちでリンゴを食べていた僕の体制は崩れ、地面に尻もちをついた。何事かと考える暇もなく、地面は静かに左右へ揺れ動いた。荷台に乗っているリンゴの山はダンスでもしているように、ふわりととびはねては、落ちるを繰り返す。地面の小石も同様だ。揺れは次第に強くなり、足場と心の安定性は奪われた。背中にはびったりと汗をかき、呼吸は乱れた。二人の子供も、お互いの身体を抱き合いながら、視線を彷徨わせ、小さく震えていた。手汗がじっとりとしみ込んできたあたりで、僕の頭に電流のような痛みが走った。色彩のはっきりした視界は、次第に明かりを失っていき、やがて闇に包まれた。意識を失うという気分ではなかった。むしろ僕は、掃除用具のロッカーから出てきて、ここまで来たのが夢で、現実の世界に引き戻されているのではという気にすらなってきた。

 暗い意識の中にぼんやりと感じたのは、匂いだった。温かい、甘い、やさしい臭い。お腹の

ムシがぐうとなった。

 とてもパンが食べたくなった。



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