僕の涙でオーストラリアが沈んだ日
ろくなみの
第1話 ロッカー
人は物心がついたときには、ここがどこで、自分がだれで、親がだれで、友達がだれで、好きな食べ物は何で、好きなテレビ番組は何で、好きなキャラクターは何で。そんなことは知っているはずだ。疑問は感じず当たり前に人生を謳歌する。それが普通なのだ。
そしてだれしもが、役割というものを持っている。赤ちゃんなら泣くこと。小学校なら友達を作って、遊んで、いろんなことを学んでいくこと。数えだせばきりがない。
では、記憶をなくした人間はどうだろう。そう、たとえば今の僕だ。
自分がだれかなんてわからない。ここがどこかもわからない。親の名前どころか顔もわからず、友達がいるのかすらもわからない。食べ物という概念は理解できるか、何が好きかはわからない。テレビだってもちろんだ。
役割なんて、わかるはずもなかった。
いや、例外ならある。ここはどこか。視覚情報から推察できる。
じめじめとした埃っぽいところ。僕を取り囲む数個の棒状の物体。隙間から漏れる光で、それが掃除用具のモップであることがわかる。それにしてもひどい臭いだ。鼻がひん曲がりそうな悪臭なのだが、鼻をつまめるほど身体の自由はきいていない。寝起きで身体がぼんやりしているのもあるが、両腕を体側にくっつけているため、物理的に動かせない。
どうしたものか。そう思った矢先、ガシャリと乱暴に目の前の壁が開け放たれた。さしこむ光で視界は覆われ、暗闇に慣れていたため、まぶしさのあまり目がくらんだ。
「おい、あんた、なにしてんだよ、こんなところで」
男のハスキーな声がそう言った。そんなこと僕が一番知りたいね。
くらんだ目をこすりながら、男の存在を確認する。透き通るようなブルーの細い瞳をしたひょろ長い青年だ。汚れがところどころこびりついた黒いエプロンをかけている。青いジーンズはだいぶ黒ずみ履き古していた。その反応からするに僕の身内ではなさそうだ。
「す、すまない」
あわてて僕は足を前に出しながら、狭い箱のようなところから脱出した。悪臭からも解放される。どうやら掃除ロッカーの中に僕はいたようだ。僕の挙動不審な態度に、青年は眉をひそめてじろじろと見つめてきた。
「あ、あの」
急に口を開いたため、声がうまくでない。自分が不振がられている事実がひたすら怖くて、膝が震えた。
「ホームレス……ってわけでもなさそうだな。酔っ払いか?」
青年はそう推測した。確かに埃で汚れてはいるものの、そこそこ小奇麗な緑色のダッフルコートに暗めの青いジーンズ。顔を触ってみるがひげも剃っているようだ。
「それが、僕もよくわからないんだ」
ようやく落ち着きを取り戻し、どもらず言葉が発せた。
「なんだそれ、変な奴だな」
青年は僕を押しのけ、背後のロッカーからモップを取り出した。
「と、とりあえず、ききたいんだ」
額に冷や汗をかきながら僕は尋ねる。膝は先ほどよりは支持性を保っていた。
「ききたいって、なにをだ? 生憎俺はゲイじゃあねえぞ」
「違うよ、そんなことじゃない。ここはどこで、僕はだれかってこと」
青年はさらに大きく目を見開いた。
「どうやら、ふざけているようでもないな」
「ち、ちがう、ふざけてなんかいない」
混乱する頭を押さえながら、会話に集中する。まだ頭が朦朧としている。
「わかった。とりあえず答えるぞ。ここはシドニー、ウィンヤード駅っていう小さな駅さ」
「シドニー?」
「ああ、そんなこともわからないのか?」
モップや言語は理解できている。だが地名などは少しあやふやだ。
「オーストラリア大陸の都市、シドニーさ」
そこがどうやら、僕のいる場所のようだった。
「で、二つ目の質問なんだけどよ」男は僕に構わず続ける。
「ああ、そっちの方が重要だ」
「残念だが俺の力じゃどうしようもねえ。長年働いてはいるが、あんたみたいなおっさんは、見たことねえし、当然話したこともない」
その言葉に肩を落とす。それもそうだ。駅の清掃員風情にそんなことがわかれば話が早い。
「そうがっくりするなよ。あんた、なんか持ってないのか」
「なんか?」
「自分の情報になるようなやつさ。免許証でも保険証でも、この際診察券やポイントカードでもいい」
コートのポケットに手を突っ込み、中を探る。小さなポーチが一つ。後は何もなかった。黒い、手のひらに収まりそうなサイズで、親指の爪の半分程度のチャックが付いている。中を確認してみる。紙幣が十枚ほどはいっていた。
「いくらある?」
僕は一枚一枚紙幣を確認する。百ドル札が十枚。千ドル持っていた。
「千ドルある。この国で使えるやつか?」
「ああ、いけるぜ。だが千ドルってなったら中途半端だな。旅行なら多少の贅沢ができる程度だな」
その言葉になんとなく納得する。金の価値観はおおよそあるようだ。最低限の社会性は保っているのは確かだ。
「あるのはそれだけか?」
「いや、まだ奥になにかある」
白い小さな錠剤が一つ。飲んでみてもいいが何が起きるかわからない故、リスクが高い。
「すまない。いろいろ迷惑をかけた」
これ以上彼の時間を奪うわけにはいかない。ここを立ち去るため、出口を探した。人込みは少しずつ増えてきた。
「いいってことよ。とりあえず、これからあんたどうするんだ?」
「さあ、とりあえず病院や警察が一番かとも思っているが」
「まあ、なんらかの捜索願が出されているかもしれねえしな」
「警察はどこにある?」
「ここらへんで大きいのって言うと、ミュージアム駅からちょっと行ったところだな。俺もそのあたりは疎くてな。すまねえ、力になれなくて」
とりあえず目的地は決まった。だが問題が発生した。腹が減っていた。
「とりあえずどこかで腹ごしらえをしてからにするよ」
「そいつがいい考えだな。そこの出口を出たらすぐそこにスターバックスがある。そこで一服して来いよ。その方が頭もすっきりするかもしれないしな」
僕は青年にありがとうと伝え、がっちりと握手を交わした。
「本当に世話になった。これもいい機会だ。名前を教えてくれないか?」
「カミーユだ。また何かあったらこの駅に来いよ」
「ああ、そうさせてもらう。僕の記憶では、君は僕の生まれて初めての友人だ」
「よせよ、照れくせえ」
カミーユはそう言うと、トイレ掃除へと向かった。とりあえず一服するか。この時点で混乱していたはずの僕の頭は、異常なほどに落ち着き払っていた。少しだけ疑問を感じつつ、人込みの隙間を抜けながら、外を目指した。
外は肌をさすように寒く、息を吸いこんだら肺まで凍ってしまいそうだった。むき出しの首元と顔が冷たい。早いところ暖房のきいているカフェに向かった。
中でチーズケーキをコーヒーを注文し、カウンターに座った。窓の外を目まぐるしく歩く人を見ながら、僕はいったい何者なのか考えてみた。ヒントは何もない。コートもズボンも、と/中に着こんでいるセーターにも、特定できる情報は何もなかった。まるで世界で自分がたった一人に感じてきて、気が重たくなる。
警察に行って、誰も捜索願を出していなかったらどうしよう。病院に行って、何も原因がわからず、よくもわからない薬だけ出されて金だけ取られたらどうしよう。
考えれば考えるほど憂鬱な考えは増えてくる。なんかしらの機関に行くことが妙にしんどくなってきた。「おい、みたかよ今日の新聞」
隣の客が新聞の話をしているようだ。僕はコーヒーを飲みながら、軽い情報収集気分で耳を傾けた。
「ああ、見た見た。浜辺にイルカが大量に干上がったんだってな」
「天変地異かなんかの前触れか? なんとかの予言の日ももうすぐじゃねえか?」
「怖いねえ、予言なんてものはともかくよ、ニッポンみたいに俺らの国もでっけえ地震が来るんじゃねえか?」
「まさか、ニッポンに比べたらここはましなもんさ。せいぜい机の上から書類が落ちてくる程度だよ」
「だといいけどな」
浜辺に動物……気にはなるが僕とは関係なさそうだ。椅子から立ち上がり、返却口に食器を返した後、出口へ向かった。
駅に戻り、切符を買う。迷わないよう案内板を見あげながら、慎重に先へと進む。交通機関。買い物。そこらへんの記憶は保っている。ただないのは、僕の過去について。僕は何をして、あんなところにいたのだろう。電車のつり革につかまりながら、ぼんやりと外の風景を眺めた。貝殻のような大きな建物が、海を挟んだ陸地に見えた。
数駅ほどいったあたりで、ミュージアム駅に到着した。蟻の大群のような人込みにもまれ、頭が少しくらくらした。
早く抜けて警察へと向かおう。人込みの隙間を抜けながら、駅の出口を目指す。高い天井がまるで大聖堂を思わせた。
そんな中、首筋の毛がぞわりと逆立った。それは言葉であわらわしにくい『気配』とでもいおうか。立ち止まらず、ちらりと振り返る。人は四方八方さまざまな方向へと進むものだ。だから当然、僕と同じ道を進む人は大勢いる。それはおかしいことではない。けれど、周りから少しだけ浮いた存在感を放った男が五人ほど見えた。同じスーツを着ている。それはゆっくりと僕の方へ向かってくる。いや、僕の方とは限らないのはわかっている。だが、その視線が突き刺しているのは、僕だ。
逃げろ。僕の脳内に妖精が住み着いているのなら、今そう叫ばれた気がした。出口へと視線を戻し、少し歩くペースを速める。心なしか後ろから聞こえる足音も早くなった気がする。やばい。このまま彼らにつかまるのはまずい。根拠もなしに危機感を覚え、僕は人目もはばからず、走った。その行動に驚いたのか、周りの人は気味悪げに僕を見る。後ろからもばたばたと足音が聞こえる。振り返る。さっきの黒スーツの集団だ。どうやら本当に尾行されていたようだ。駅から脱出するとともに、石造りの階段を一段飛ばしで駆け下り、左へと進む。後ろから聞こえる足音も激しくなる。近くにあったごみ箱をけっ飛ばし、後ろへと転がした。悲鳴とともに、足音が遅くなる。よし、今のうちだ。
足を止めないまま近くの路地裏へと逃げ込む。木箱の上で寝ている猫は驚き、尻尾を震わせながら僕と同じ方向へと逃げだした。足元に散乱するビンをよけながら、走り続けるのは、心身ともに気が張ってしまう。まだ足音は聞こえるが、距離は離れている。このペースならまける。ペースを少し緩めたその時だった。スキンヘッドの男が拳銃を持って路地裏の向こうからやってきていた。先回りされたようだ。
「フリーズ、そこまでだ」
スキンヘッドの拳銃男は僕に言った。
「どうやら僕のお友達じゃあ、ないみたいだね」
両手をあげ、じりじりと距離を詰められる。万事休すか。いや、まだだ。
「おい見ろよ! なんだあれ!」
三人は僕が唐突に指差した方向へと顔を向けた。その隙に足元のビンをひろい、スキンヘッドの頭頂部へ思い切り振りおろした。ガチャン! という音とともに瓶が砕け、あたりに緑色の破片が散らばる。
「うぎゃあ!」
男は頭を抱えながらうずくまった。その隙に僕は残り二人にも間を開けずに攻撃する。二人とも悲鳴とともにうずくまる。瓶の残骸を道へと放り投げ、また走り、今度こそ路地裏を抜けた。だが今度こそ追いつかれるのが関の山だ。何かしらの移動手段を考えないと。そう思った矢先、道路に止まっていたのは、赤青大小さまざまなリンゴを積んだトラックだった。これだ。トラックに飛び乗り、荷台に敷き詰められたリンゴの中へと埋まる。大きなコートを羽織っていたため、コートをリンゴの上に置いているように見えることだろう。息を切らしながら、右手を胸に当て、心拍数を確かめる。全速力で走ったため、軽い酸欠に陥っている気がする。そのせいか、だんだんと気が遠くなり、いつの間にか僕の意識は暗闇に落ちた。
リンゴの甘い香りが、なんだか懐かしかった。
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