第3話 ついにようやく、異世界落ち

 瑛二が固まったままでいると、環は一気に自分から話しかけてきた。

「ほら、君ってけっこう背が高いし。すぐわかった」

「悪かったねえ妹のこと。怒らないでやってよ」

「今日はなに、仕事?隣のビルに技研の一部だったか知財部門が入っているのだっけ」

「このおもしろいビルも君の会社が施工したんだよね」

「設計者は君の母校の先生だし。ゼミは違うのか」

 よく知ってるな、と思いつつ瑛二はただ、うなずくのみだった。


「そっかそっか」環もまた、わけ知り顔でうなずいた。

「仕方ないやな、今日は夏至だし。集まりと別れの日だから、これは避けられなかったんだよ」

 夏至だったかなと首をかしげる瑛二にかまわず、環は続けた。妹について特に恥じたり、庇ったりする様子はない。むしろ瑛二との会話の機会を歓迎しているかのようだ。

「奈々はねえ、昔っからわかんない所があるんだ。私のことをそう評する人が多いのは誤り。こう見えて私、どストレートな人間よ。奈々こそ読みづらいタイプ。その上くよくよ悩んで周りに気配りし過ぎて疲れ果て、結局ハズレをつかむの。でも、倫理観は強いほうだったんだけどな」

「男女の仲は理屈で割り切れませんから」ようやく返事ができた。

「あははははー。そうだよね」


「そういえば、風見さんこそ今日はなぜここに?」

「他人行儀な言い方するなあ。環でいいよ」

 むろん、環からは瑛二に対する憐憫や苛立ちも感じない。いたって上機嫌に見えた。

「わたし?それが偶然。マジで偶然だったんだ。ここは好きで、たまにくるの。あのおかしなサンクチュアリだってお気に入り。妹を追いかけてきたわけでも、瑛二くんを尾行してたわけでもない。あ、瑛二くんに対しては、ちょっとだけこっそり後ろをつけたかな。それがね、君の背中を見ながら歩いてたら、なんかドキドキしちゃって。血行が改善した。尾行ってのもたまにはイイね」

 環は優れて理知的な顔立ちをしている。それを平気で崩してバカっぽい口調で話す。しかし眼は虎のように相手を捉えて離さない。相手のとまどいを楽しんでいるのだろうか。妹は無意識の悪女で、姉は確信犯の悪女。


 そんなことを瑛二が考えていると、環は前触れなくしんみりした顔つきになった。

「私ね、前々から奈々ごときにゃ、瑛二くんはもったいないと思っていたんだ」

「そ、そうですか」

「あいつもね、あなたが『違う』ことはぼんやり感じている。だけど視野と想像力の足らないところがあって、これほどの人物とは理解できてない。あいつのショボい常識や実感の範囲からかけ離れた存在は、その他大勢と同じフォルダーに入れちゃうの。燕雀いずくんぞ鴻鵠の志をってやつよ」

「褒めすぎです」


「ふふ」笑いながら環は腰に手を当てて背伸びした。わざと形のいい胸を強調する仕草にも思える。「しっかし、奈々に男を見る目はないってゆーか味噌もクソも一緒ってゆーか。仕方ないとはいえ、よりによって徹と一緒だなんて笑う。私なら、たとえ5分でもダメ。ま、そのせいで揉めずに済んでるのか」

 ひどい台詞だが、彼女なら見下しも許される気がする。たしかに環には華やかな魅力がある。今夜は特に。内側から光を放っているようだった。

 下世話な話をすれば、一緒に出歩いて世間の称賛とやっかみを浴びるのは奈々ではなく環だろう。主演と助演、むろん環が主役のスタアだ。


 瑛二の視線と、その奥の気持ちを見抜いたのか、環は満足そうな笑みをうかべていたが、

「さて。そろそろよ。月もお待ちかねだし」と、宣言するように言った。「奈々は石頭で鈍いから、古い神話の雑なプログラムとあっち側のあの娘に、無自覚なまま引きずられちゃっている。それはあっち側にも良くない影響を与えている。でも私たちは違うぞお、ねっ」

「……」

「もし、このさかしらが運命に織り込み済みだとしても、構わない。私の願いは単純。そしてそれは必ず二つの世界を良い方向へと変える」

 環はひたと瑛二の瞳を見つめた。「君を知って、一から考えを見直すこともできた。その上でお願い。今夜こそ、もう一つの世界へ行って。いえ、君本来の場所へと戻って」

「それはどこ?」恐る恐る聞いた瑛二に直接答えず、「もうひと組も、今まさにドンぱちのさなかだし」と、さらに意味不明なことを環は言った。「そして残念ながら、かの忠実なるブラックドッグ・マリヤはもう間に合わない。あ、私はあまたいる魔獣の中でも彼女だけは一目も二目も置いてるのよ」


「えーっと」マリヤというのはエイジの最側近であり、設定では人語を解する漆黒の魔犬だった。

「そうよ、そういうこと」環は得意げな顔をしてみせた。

「えっ?」

「ちゃんとわかってるって。だって君は」環は力強い目を大きく見開いた。「陽と月の二つの世界の調和を定められた者、陽には影、月には光。1000年待たれていた魔法の主」

「な、なんていいました?」

「ここは照れるところじゃないわよ。それと、先に言っておくね。別に魔法がすごいから好きになったわけじゃない。私だって少しは使えるし」

「よく、わからない」

 環は、見たことのない不思議な笑顔になった。明るくて、暗い。

 瑛二は背中にびっしりと冷や汗をかいていた。


 –––– やばいぞ、どうしてこの人に、おれたちの空想を知られている?あのガキっぽい空想話を、なんでこんな正確に知っている?頭の中をのぞかれたのか?

 環のくろぐろとした双眸に見つめられていると、催眠術にでもかかって喋らされた気がしてきた。

「なんか、今日は頭が痛くって」とにかく懸命にとぼけたが、

「だめ。他のマヌケには通じても、私にはだめ」

 環がついに歩み寄ってきて、瑛二はジリっと後退した。

「最初から判っていたわ。手違いだったか、そうでなかったかの是非はともかく、あなたは現実にこっちへ来てしまっていた。ある意味私もそうかな。てか、やっぱそうよね」

 さっきから言葉の意味がほとんど理解できていない。それでも、彼女の真剣さに瑛二は圧倒されていた。


 だが悪戯っぽくウインクすると、環は急に元の軽くバカっぽい口調になった。

「だからさ、今夜は残念会といこう。ほんとは祝勝会だし。この近くにいいホテルがあるのよ。そこでお姉さんが無聊を慰めてあげるって。その前に、こんな時にありがちな焼肉屋へ食べに行っても構わないけど、実は私、あんまり好きじゃない。でも清潔なホテルは好き。キミも好き。大好きかも。人柄が好き、声が好き、ルックスが好き、匂いがすごく好き」

「いや、そういうわけには」

「なんでよ」

 環は小さく口を尖らせたが、すぐ鼻をうごめかし、さっき以上の笑顔になった。

「夜闇にただよう花の香り。やっぱり、好き」

 美女に迫られるというより、ハンニバル・レクター博士に魅入られたようだ。瑛二は懸命に抗弁した。

「だって、その、環さんにはれっきとした彼氏がいるんでしょう」

「なんだよそれかよ。信じてたんだ。そうか。しまったな」環は指をパチンとならした。

「まずった。最初にそんな設定しなけりゃ別の展開もあったな。もっとあっさり親密になれた。あいつを立て過ぎたのも戦術上のミステイクだったし。君を信じ己を信じるべきだった。策士策に溺れちゃった」

 そっかー、とつぶやいてから環は再び聞いた。

「じゃあ、今夜は私と一緒にホテルには行かないつもり?」

「は、はい。やっぱり、なんというか」

「君らしいや」


 実のところ、奈々への義理だてや環の女性的な魅力がどうのこうのより、先に環から二つの世界の話をされた時点で、瑛二の心がかつてない警告の鐘を鳴らし続けていた。

 とにかくこの場は逃げて、以降静かにフェードアウトしよう。

 たとえこんな人とつきあえても、エイジの話だけはしたくない。ちょい惜しいが。いや、すごく惜しい。もう一生ありえないレベル。

 –––– でもこの圧力って、まるで魔女サラアみたい…なわけないよな。

 それは、彼とエイジの空想物語に登場する謎多き人物だった。エイジは最強の魔法使いだが、彼女に執着されてほとほと困り果てていた。 


 さっきから環は、困惑する瑛二を尻目に、鼻唄を歌いながら自分のバッグの中をごそごそ探っている。そして俯いたまま、

「残念だなー。今日は特に念入りにシャワーしてきたのに。まあ、そんな事態になったら先に一緒にお風呂に入るか。私、生きてる男の身体を洗うなんて絶対に嫌。ただし瑛二くんだけは別。尽くすわよ」

 などと歌うように口ずさむ。表情はすごく楽しそうだ。

 そのうち、「よっしゃ、これでいきましょ」と、環はおもむろに顔をあげた。そしてほんの短い間、なんとも人の良さそうな笑顔を浮かべた。だが、すぐに瞳は先ほどの不思議な光を放ちはじめた。

「前に瑛二くん、変化こそ私の本質だと言ってくれたでしょう。うれしかった」

 そういえば、会うたびに印象の変わる環のことを、そんな言葉で評した気がする。でも細かい内容は忘れてしまった。

「やはり君は私の待ち人。だからこそ私のわがままを聞いて。今宵だけは私の夢につきあって。同じ外道の魔法使いとして、一緒に異世界へ。これの元ネタ、わかる?」

「さ、さあ」


 –––– これはもしかして、さっきよりヤバい。

 いつの間にか、展望台には誰もいなかった。いや、はじめからいなかったのだろうか。

 彼女はすっと両手を前に突き出した。そして、

「私、こんなこともできるんです」と言った。

 瑛二の前方、そして周囲に目に見えない巨大な力が充満しつつあるのがわかった。続いて足元がおぼつかなくなった。宙に浮いているみたいだ。

「それじゃダーリン、こっちの本歌はわかる?」環は愛らしく首を傾げた。

「私を離さないで」


 すると彼女は、力強く二人の間にある空気を押した。

「ひやっ」

 思わず瑛二は悲鳴をあげた。お嬢さん、離しとるがな。

 それどころか、彼の体は巨大なハンマーに殴られたように水平に飛んだ。

 無重力を感じた時、瑛二の身体は、すでに手すりを超えて空中にあった。

 彼の下には風だけがあり、ほかは地上までなにもなかった。

 浮遊感の終わりと、血の凍る恐怖。

 環はすでに残像となっていた。

 瑛二は声の出ない悲鳴をあげつつ、永遠と思える闇の中を急降下し、意識を失った。




 まぶたの裏側に飛び交う光、幽霊のような残像。

 背中は痛いが耐えられないほどではない。

 目を開くべきか、それともこのまま閉じておくか。

 不幸になった気しかしなくて、瑛二は逡巡した。

 かなり肌寒さを感じる。

 だが、背中に振動を感じてすぐ、ものすごい熱風が吹きつけてきた。

 嬉しいより、これは暑すぎて我慢できない。

 ついに目を開く。外は薄暮といった明るさ。

 思わずカッと全開にしてしまった。熱気の原因がわかったためだ。

 彼の顔の前方に顔があった。環の秀麗な顔ではない。

 裂けた岩のような怪獣の顔。

 瑛二を丸呑みして余りそうなキバの生えた口の奥には、チロチロと炎が燃えていた。そして顔につながる長い首と胴体は黒く、建設現場で見せてもらった重機よりさらに大きい。ほとんど山だ。うーん、怪獣山。


 黙ったまま瑛二は、恐竜の後ろには森林が広がり、さらに石舞台古墳ミーツ・ストーンヘンジみたいな石柱があるのを視認した。

 が、すぐ後ろに別の二つの目と目があるのに気づいた。もう一匹いるのだ。

 手前の恐竜が岩石をハンマーで手荒く削り出したとすれば、こっちはもう少し繊細な感じだ。ノミを丁寧に使ったみたいな。しかし、牙と炎のセットには変わりない。

 そして合計4つの巨眼は、あきらかに瑛二の顔へピントを合わせ続けている。たえず溶鉱炉のそばのような熱気がよせてくる。

 –––– もう少し、眠っていよう。そしたら涼やかな極楽に送致されてるかもしれない。

 そそくさと瑛二は目を閉じた。


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