第50話 Knock, Knock

 部屋に戻ったダルスは、テーブルの上に置いてあったスーツケースを手に取った。今朝、郵便局でラーメンの材料と一緒に受け取った、もう一つの荷物だ。

 ダイヤルを回し鍵を開ける。開いたスーツケースの中には、黒のロングコートが入っていた。ダルスがこの店に来た時に着ていたものと同じものだ。

 コートの下には拳銃が数丁、分解されたライフル、更に大量の弾薬やナイフ、救急キット、パスポートなどが入っている。ダルスはそれらを1つずつ、手早くメンテナンスしていく。数年間保管していたが、どれも問題なく機能しそうだった。

 これは、宅配型トランクルームに預けておいた、『聖歌隊』の装備一式であった。武器だけでなく、非常用の資金や通信手段なども保管されている。想定外の事態が起き、本部のバックアップが受けられない場合の保険だった。

 ダルスはスーツケースの中の札束を確かめ、いくらか抜き取り、テーブルの上に置いた。スザンナへの借金を帳消しにしてお釣りが来る額だ。

 全てを確認すると、ダルスはスーツケースの底にしまい込まれていた物を取り出した。

 古いノートPC。バッテリーをコンセントに繋ぎ、立ち上げる。問題なく起動した。データを確認する。最後の作戦を除いた、『聖歌隊』の作戦データが全て記録されている。

 ダルスの、そして『聖歌隊』が辿ってきた道筋を示す『巡礼路』だ。上官にも秘密で記録していたパンドラの箱。中央の麻薬密売網に関する情報が、ほぼ全て詰まっている。

 最初は、独自に記録を取っておくことには反対だった。その頃のダルスは上官を、正義を信じていたからだ。記録しておこうと言い出したのは、チームの情報担当。疑り深い奴で、最後の作戦でもいち早く軍に気付いた。

 彼が命を賭して裏切りを伝えなければ、ダルスはここにはいなかっただろう。

「……お前の言う通りだったな」

 ノートPCを撫で、シャットダウンする。これも持っていく。少なくともここには残せない。どこか遠い海の底へ捨てることになるだろう。

 コン、コン、とドアがノックされた。ダルスは振り返ろうとして、動きを止める。ドアノブが捻られるが、ドアは開かない。鍵がかかっているからだ。

「寝てるの?」

 コリウスの声。返事はしない。そのまま去ってくれればいいが、彼女は感づいていた。

「起きてるんでしょう?」

「……ああ」

 観念して声を返す。コリウスはしばし間を置いてから、言った。

「行っちゃうの?」

 彼女らしくない気弱な声だった。

「明日の昼には街を出る」

「どうして? お婆ちゃんも、ユリアンさんも、ここにいてほしいって言っていたわ。私だって……貴方に側にいて欲しいって思ってる」

 ダルスだって同じ気持ちだ。いられるものならここに居たい。だが。

「駄目だ。追手がすぐそこまで来ている。もうここにはいられない」

「……そう」

 それだけだった。

「……止めないのか?」

 ドアの向こうで、悲しげに笑う気配があった。

「いじわるなひと。止めてほしくないから、開けてくれないんでしょう?

 でもいいの。どうやって止めたらいいのか、どうしたらいいのか、忘れてしまったから」

 彼女の声は震えていた。あの、困ったような微笑みと涙が、ダルスの頭の中にありありと浮かんだ。

 足音。コリウスが去っていく。胸が痛い。だけどこれでいい。こうするしかない。これ以上、死の旅路に他人を、ましてやコリウスを巻き込むわけにはいかない。


――


 ミルジェンスクの東、高級住宅街の一角に、ステファンの隠れ家があった。個人的なパーティーや休暇のために使う別荘で、知る者は僅かしかいない。

 今、ステファンは必死に荷造りをしていた。ホテルという組織を見捨てて逃げ出すためである。

 『クロドゥング・メヴリージャ』は終わりだ。警察署で反乱が起き、ローアンは行方不明になった。遠からず、ステファンが作り上げた麻薬の販売網も明るみに出るだろう。もうこの街にはいられない。

 それ以上に問題なのは、政府の麻薬撲滅チームに見つかったことだった。奴らは死神だ。前の組織も奴らに壊滅させられた。ホテルも、ローアンも、遠からず何もかも死体になるだろう。

 生き残るにはただ一つ。何もかも捨てて全速力で逃げるしかない。

 ステファンは引き出しからいくつかのパスポートを取り出し、しばし迷った後、1つを残して暖炉に投げ込んだ。新しい燃料をくべられて、炎が勢いよく燃え上がる。

 ツテを辿って極東に行くつもりだ。どうやらあの島国で新しい麻薬が見つかったらしい。近いうちに新しいビジネスが始まる。そこに入り込む。

 モノがあっても販路を組めなければ売れない。違法薬物と取り扱うならば綿密なシステムが必要になる。ステファンは、そうしたシステム作りを得意としていた。その能力を次の街にも売り込める自信があった。

 紙の資料と薬物のサンプルを暖炉で処分し、データはクラウドを残して初期化。現金をアタッシュケースに詰めて準備完了。いざ部屋を出ようとした時、ドアが乱暴に蹴破られた。

 入ってきたのはスーツ姿の男たち。『クロドゥング・メヴリージャ』のマフィアたちだ。それを従えるのは、白いスーツで身を固めた、浅黒い肌の巨漢の男。「マクシムッ!? てめぇ、死んだはずじゃ……!」

 始末するように命じたはずの部下が現れ、狼狽するステファン。それに対してマクシムは告げる。

「残念だったなぁ、こいつら、テメエにはついていけないそうだ」

 マフィアたちがステファンに向けて銃を構える。その意味をステファンはすぐに理解し、絶句した。

 反乱だ。この崖っぷちの状況で。

「バカかお前ら!? 状況わかってんのか!? 今すぐ逃げなきゃ全員死ぬぞ! 命あっての物種だろうが!」

「うるせぇ! 奴らに一泡吹かせないと、死んでも死にきれねえ!」

 マクシムは全く状況を理解していない。命よりもメンツを重視する、所詮は田舎マフィアだった。

 そして、更に声が続く。

「そもそもこうなったのは貴様のせいだろうが! この裏切り者め!」

 新たに部屋に入ってきたのは、元ミルジェンスク警察署長のローアンだった。

「私とホテルの力があれば、どんな不始末も揉み消せる! あの証拠映像も、ドミトリーになすりつければ良かったのだ! それを貴様、帳簿を奴らに渡すなど……! 」

「お前らはわかってないんだよ! 何を相手にしてるのか! バケモノだぞ、奴らは! さっさと逃げなきゃ全員殺される!」

「ビビる必要なんざない! 俺たち『クロドゥング・メヴリージャ』は無敵のマフィアだ! この街も、変わらず、俺たちのもんだ!」

 マクシムが叫び、拳銃を構える。

「バカタレ、何もかも明るみになってるのにどうする気だ!?」

「金だ、金だよ、金をバラ撒く! ありったけのヤクを売って、その金を警察に、新聞社に、政治家にバラ撒くんだ! そうすりゃどいつも黙るさ!」

 余りにも稚拙な計画にステファンは絶句した。そんな事で状況が覆るわけがない。こんな奴を幹部につけたのが間違いだった。この街に来て、『クロドゥング・メヴリージャ』を乗っ取る時に使いやすい手駒だったから引き込んだが、こうなるなら手を組まなかった!

「考え直せ、お前らも逃げ……」

 銃声がステファンの胴体を貫いた。マクシムの銃が煙を立ち上らせていた。

「だからテメエは邪魔なんだよ。いっつもいっつも腑抜けたことばかり抜かしやがって! だからコズロフのアバズレ共に追い込まれたんだよ!」

 立て続けに引き金が引かれ、ステファンが蜂の巣になる。弾倉が空になる頃には、ステファンはとっくに絶命していた。

 マクシムはテーブルの上に置かれていた鍵を手に取った。804号室、ホテルのVIPルームの鍵だ。ステファンが引きこもっていた部屋でもある。

 鍵を手にしたマクシムは振り返り、居並ぶ部下に告げた。

「こっからは俺がボスだ! コズロフの連中を全滅させるぞ! 戦争だ!

 武器と人数とヤクをありったけ集めろ! それで、麻薬の話を全部奴らの謀略だって、なすりつけてやれ!」

 マフィアたちは歓声を上げ、戦争に向けて走り出した。ローアンもまた止めることなく、その波に乗っていった。


――


 彼らを廊下から見つめる人物がいる。カイン・ディアギレフ。白いコートの男は、不吉な赤目を細めて溜息をついた。

「ダメだな、こりゃ。読むまでもねえ」

 ローアンがマクシムと手を組んでコズロフ・ファミリーに反撃すると聞いた時は驚いた。マクシムは部下に密かに助けられており、クーデターの機会を伺っていたらしい。そしてローアンも彼と連絡をとっていた。

 それほど慕われている男なら逆転の目があるかと思ったが、とんでもない期待外れだった。

 ステファンの言う通り、ホテルはもう終わりだ。世論は彼らを悪と見ている。今更金をばら撒いた所で、誰も手を貸さないだろう。コズロフ・ファミリーに復讐ぐらいはできるだろうが、その後が続かない。共倒れがせいぜいか。

 だが、そんな奴らの力を借りなくてはいけないほど、カインの状況も悪かった。

「隊長。ヤトーツクの作戦本部から連絡です。軍の検問を突破するのは、早くとも明後日以降になると」

 部下のマリインスカヤからの報告に、カインは顔をしかめた。

「やっぱりか。これは偶然か? それともハザエルめ、ここまで読んでたのか……?」

 ハザエルの裏切りの後、カインはすぐに中央へ連絡し、連邦保安局の総力を持ってハザエルの身柄を確保しようとした。ヤトーツクに展開していた部隊が駆けつけ、今夜中にも捕獲、あるいは殺害する予定だった。

 だが、それよりも早くミルジェンスク駐屯地から軍隊が駆けつけ、ミルジェンスク市を封鎖してしまった。警察署の機能停止によって治安出動が議会から要請されていたようだが、あの混乱の中でスムーズに手続きができるわけがない。恐らく事後承諾だろう。

「しょうがない。プランAで行く。エイフマン、頼むぞ」

「了解しました」

 カインの命を受けて、エイフマンがショットガンを構えた。

 検問を突破するまでは、カインたちしかダルスに対応できない。そこでカインは、マフィアたちを使ってダルスを始末しようとしていた。

 中央からは手を出さずに監視するように命令されているが、ダルスがいつ逃げ出すかわからない。それに権力のアドバンテージを失ったとはいえ、戦力差は依然として圧倒的だ。

 要求に応じない以上、テロリストは始末する。それに味方する地元マフィアも。そのための作戦は、既に立ててあった。

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