第44話 Curse of Asira
ポケットに忍び込んだメモを確かめれば、『リブリア国立美術館にてお待ちしております』と書かれていた。
中身を確かめたダルスは、挨拶もそこそこにきらびやかなパーティー会場を抜け出す。待ち合わせ場所に急ぐ彼の歩みは浮ついていた。
ホテルを出れば、美術館はすぐ隣だ。極右政権のクーデターによって、リブリアの美術品、芸術品は破壊された。このリブリア国立美術館も例外ではない。だが、今日は存在する。彼女がここに来ることが、夢だったからだ。
美術館の入り口で彼女は待っていた。ゆったりとしたドレスのような白いワンピースを纏っている。簡素なデザインだが、生地に光沢のある高級品だ。手には銀のブレスレット、それにプラチナを台座にしたエメラルドの指輪を嵌めている。首には金のネックレス。胸元には大粒のダイヤモンドが輝いている。足元を覆うのは赤いハイヒールだ。よく磨かれていて、シミひとつない。
だが、身に纏う衣装よりも、彼女自身の方が美しい。黒いストッキングに覆われた、しなやかで細い足。ワンピースの上からでもわかるくびれた腰。それとは正反対に豊かな胸。肩はなだらかなラインを描いていて、そこから伸びる腕は新雪のように白い。肩の辺りまで伸びた髪は、南国の海のように青く、深みと艶がある。
「アシリア」
ダルスが呼びかけると、彼女は振り向いた。
顔は、わからない。
「お待ちしておりましたわ、ダルス様」
鈴の音のような声が、ダルスの名前を呼ぶ。それだけでダルスは心が温まるのを感じた。
「すまない。挨拶に時間がかかった」
「もう。あんな方々、無視してくださればよいのに」
言いながらも、アシリアはダルスに腕を絡めてくる。ダルスはしばし、アシリアの体温を甘受する。
冷たい。死人の体温だ。
「では、いきましょう? ダルス様」
「ああ」
ダルスとアシリアは連れ立って博物館へ入った。入場券を買う必要は無い。今夜は貸し切りだ。
入ってすぐの大広間には、巨大なパイプとフェンスが張り巡らされている。フェンスに貼られた警告板にはリブリアの歴史が血文字で書かれている。
「思い出しますわね」
「うん?」
「初めて、私たちが会った時のこと」
「そうだな」
あの時は郊外の石油パイプライン建設現場だった。武装盗賊に襲われていたアシリアを、現場を視察に来ていたダルスが助けたのが始まりだった。
「――あの時」
「うん?」
「私が、アシリア・スティレット……パイプライン建設を主導するロニア・スティレットの娘だと、知っていて助けたのですか?」
「……いや、知らなかった」
「でも、貴方はリブリアに忍び込んだスパイだったのでしょう? お父様に近付くために、私を助けたのではないのですか?」
アシリアの声に咎めはない。むしろ、からかうような響きがある。
「そんな事はない。あの頃の俺は、助けられる人がいたら助けた。だからお前も助けた、それだけのことだ」
あの頃は若かった。何の負い目もなく人助けをすることができた。
物思いに耽るダルスを、アシリアは体ごと引っ張る。
「次、行きましょう?」
「ああ」
順路を進む。次の部屋には灰が積もっていた。それに、焼け焦げた建物も。いずれも世界に名を轟かせる芸術品、美術品だったモノたちだ。
リブリアをクーデターによって掌握した極右政権は、芸術を廃する政策を推し進めた。21世紀初頭まではパリ、ウィーンに並ぶ芸術の都と呼ばれたリブリアは、僅か10年で殺風景な無機物都市に変わり果てていた。
「せっかく見に来たのに、残念ですわね」
アシリアは口を尖らせる。そんな彼女の頭を、ダルスは掻き抱く。
「お前がいた」
アシリアは少し驚いて、しかし、そうするのが当然だというように、ダルスの胸に顔を埋める。
「ええ。ガッカリで、退屈な所でしたが……貴方と一緒に回れて、本当に良かった」
極右政権が倒れた直後のリブリアは、武装組織と残党と犯罪者が跋扈する危険地帯でしかなかった。アシリアなど道に落ちた宝石のようなものだ。
だからダルスが護衛した。連邦政府もターゲットのロニア・スティレットに近付けるということで推奨した。ただ、仕事の助けになるという下心を抜きにしても、彼女と一緒の時間を過ごすのは楽しかった。
そして、部屋を進む。今度はリブリアではなく連邦だ。中央、首都の町並みを再現した部屋には、アシリアと一緒に回った店が並んでいる。
「さあ、ここからは私が案内いたしますわ」
その通りだ。リブリア観光を終えたアシリアは、今度はダルスを呼び寄せて連邦首都を案内した。コマネティ通り。エカチェリーナ水族館。リムインスカヤ劇場。色んな場所に行った。
ダルスとて連邦の人間ではある。そうした場所は知っているし、行った事もある。だが、彼女の前ではリブリア出身の男を演じていたから、初体験であるかのように振る舞った。
それに、アシリアと一緒に街を巡って、楽しかったのも事実だ。
「ほら、次はロマニツカヤ・ホテルですよ?」
アシリアはダルスの手を引いている。その足は早い。急いでいると言ってもいい。対するダルスの足取りは、先に進むにつれて重くなる。
「なあ、アシリア」
とうとうダルスの足が止まった。
「どうしました?」
「少し休んでいかないか?」
その言葉に、彼女は何と思ったのだろうか。表情は見えない。
「ですが……追いつかれてしまいますわよ?」
振り返る。闇。黒い絵の具を流し込んだかのような空間。廃墟の部屋は既に見えず、アシリアと見て回った中央の名所も半ば飲み込まれている。
時間がなかった。ダルスの任務はロニア・スティレットの暗殺。タイムリミットは刻一刻と迫っている。ダルスがロニアを暗殺できなければ、ロニアは家族ごと殺される。それが中央の選択だ。
「……わかった」
ダルスは歩き出した。行かなければならない。アシリアを救うために。
2人は部屋を進む。出口は目の前だ。ゲートの向こうには雨が降っている。
アシリアが、ダルスの腕を強く抱き締めた。
「どうした?」
「何か隠していること、ございませんか?」
アシリアはダルスをまっすぐと見つめてくる。
顔は、わからない。
「いや……?」
「どんな事でも言ってください。私なら、必ず貴方のお力になれますわ。言ってください。どんな事でもして差し上げます。
お願いです。私に隠し事を、しないで?」
これは夢だ。記憶を都合よく並べ替えただけのものだ。あの時、彼女はこんな事を言わなかったはずだ。
だが、もし言っていたとしても、ダルスが真実を話すことはなかっただろう。
ダルスが黙していると、アシリアが告げた。
「……許されるなら、口づけを」
アシリアは目を閉じる。
ダルスは影に唇を落とす。
長い、あるいは一瞬のキスを終えて、2人は顔を離した。
「いきましょう?」
アシリアが促し、ダルスが頷く。2人は雨の中へ足を踏み出す。
――
その日は大雨だった。昼過ぎから降り始めた雨は、夜には本格的な土砂降りになり、街を一層暗くした。無数の白い糸が、空から街に向かって伸びているかのようだった。
微かな明かりに照らされた裏路地に、ダルスは立っていた。巨大なライフルを抱えている。
足元には別の男が倒れていた。スーツ姿の男の心臓には大きな穴が穿たれ、血を流している。即死だった。
ダルスはその場から離れようと、足を動かす。
乾いた破裂音が響いた。
足が止まった。太ももに穴が空き、血が流れ出していた。更に2発、炸裂音が響き、肩、そして胴が貫かれる。
仰向けに倒れる。倒れた体が水を跳ね上げる。落ちたライフルがアスファルトを打つ。
後ろから、ぱしゃ、ぱしゃ、と足音が近付いてくる。ダルスは起き上がろうとするが、その前に上に乗られて、動きを封じられた。
「ダルス様?」
聞き間違えるはずがない声。
「ねえ」
見間違えるはずがない姿。
「どうして、こんな酷いことをしたのですか?」
アシリアが、そこにいた。
顔が見えない。夜の暗さと街灯の逆光で、アシリアの顔がわからない。顎から滴り落ちる雫が、雨粒なのか、それとも涙なのか、区別がつかない。
「お父様を殺してしまうなんて。私のことが嫌いになったのですか?」
ダルスの両手にアシリアの手が重なる。片方の手は五指を絡めて。もう片方の手は、拳銃を挟み込むように。銃身の熱とアシリアの体温が、ダルスの両掌を焼く。
「違う、俺は」
「ええ、ええ。わかっています。貴方は私のことが好き。わかっています。だって私は貴方のことが好きなんですもの。
でも辛いんです。本当ですよ? お父様が殺されて、悲しまない娘なんていませんもの」
拳銃を握る手に力が篭もる。
「酷い人。悲しい人。愛おしくて愛おしくてたまらない。なのにこんな事をする。私に黙って。
怒っています。今すぐ貴方を八つ裂きにして殺してしまいたいぐらい。罰を与えたいのです。
でも、貴方を愛しているのも確かなんです。口づけよりも先、もっと貴方に愛されたい」
ダルスの口が塞がれる。
「好き。ずっと、もっと、好き。殺したい。だから貴方を
吐息のかかる距離で、アシリアは呟く。
顔がわからない。
「ダルス様。どうか健やかに。長生きしてください。私の後を追わないでください。私を愛しているのなら、私を1日でも、1分でも、1秒でも長く愛せるように生きてください」
2人が握る拳銃が持ち上がる。
「生きて、生き延びて、足掻いて――その罪にふさわしい、惨めな死を迎えてください」
銃口がアシリアの顎の下に押し付けられる。
「待て、やめろ、アシリア」
「こんな風に、楽に死んではいけませんよ?」
紅い華が咲いた。
顔がわからなくなった。
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