第43話 初恋

 最後の電話を終えると、ダルスは大きく伸びをした。すっかり夜も更けて、酒場が閉まる時間になっている。

 今日の誘拐、つまりはローアンのミスに最大限付け込んだ作戦だった。ダルスを独自に追いかけていた警官がニカンドロスに接触するよう仕向け、軍の駐屯地には連邦保安局の動向を伝え、ホテルのオーナー、ステファンには署長を裏切るように仕向けた。

 ローアン署長を失脚させれば、ニコライたちとホテルの直接対決になる。その時に効いてくる仕掛けだ。警察の残党が何かしようにも、ニカンドロスと接触した警官が目を光らせる。連邦保安局がホテルに協力すれば、間違いなく軍が黙っていない。

 そしてステファンは近いうちに逃げ出すだろう。一度『聖歌隊』が壊滅させた相手だ、その恐ろしさは身に沁みて理解している。

 以前ステファン相手にした時は、中央で"鰐"という麻薬を売っていた。今、ミルジェンスクで売られている『アクラ』という新型麻薬は、それのコピー品のようだ。レシピはステファンの頭の中にしかない。ユリアンが間違えて手に入れてしまうことはないだろう。

「……何でここまでやってるんだろうな」

 そこまで考えてから、ダルスは呆れ気味に呟いた。確かにコズロフ・ファミリーたちに協力しているが、アフターケアまで気を遣う義理は本来無いはずだ。

 これが終わったら街を出ていくというのに。

 ダルスは今日出会った白いコートの男、カインを思い出す。連邦保安局組織犯罪対策課特務班『コッペリア』。恐らくは『聖歌隊』の同類だろう。中央の手はここまで伸びていた。近いうちに連邦保安局の本隊もやってくるだろう。

 逃げるチャンスは1回だけ。ローアンを、カインを、ステファンを裏切り、ローアンと市長が更迭され、街が大混乱に陥ったその瞬間だ。

 そうわかっているはずなのに、まだ離れる決心がつかないのは、未練、だろうか。

 コン、コン、とドアがノックされる。そういえば、酒場はもう閉まっていた。

「いいぞ」

 声をかけると、部屋にコリウスが入ってきた。すっかり慣れたものだ。慣れるほどこの場所にいることになるとは思わなかった。

「……ダルス? そこに、いるの?」

 掠れた声でコリウスが呟く。妙な言葉だった。

「うん? ああ、いるぞ」

 ダルスが返事をするが、それでもコリウスは不安げな様子を隠さない。

「……側に行ってもいいかしら」

「構わんが……」

 コリウスはソファまでやってくると、ダルスの隣に座った。いつもより距離が近い。普段なら、向かいのソファやテーブルの椅子に座る。

「何かあったのか、下で?」

「いいえ。でも……不安で」

「何がだ」

「貴方が、とても遠くにいるように見えるの」

 動揺は隠せただろうか。コリウスは本当に勘がいい。隠し事などできない、と思ってしまうほどだ。

 コリウスの細い指がダルスの手へと伸ばされ、しかし、何かに気付いて戻される。

「ねえ」

「何だ」

「触っても、いい?」

 黙って頷く。コリウスは恐る恐るダルスの体に手を伸ばし、しばし手を彷徨わせた後、ダルスの膝に手を乗せた。掴むわけでも、撫でるわけでもない。本当に、ただ乗せただけだ。

 コリウスの表情が少し柔らかくなる。

「どうした」

「本当に、あなたなのね」

「いや、それはそうだが」

「幻覚や、見間違いじゃないのね?」

「どうした。何か、変だぞ?」

 本当に様子がおかしい。ダルスが心配して声をかけると、コリウスはハッとして手を離した。

「……ごめんなさい。困らせてしまったかしら」

「いや、困ってるわけじゃないんだが……その、何がしたいんだ?」

 ただ触りたいだけのはずがない。だが、意図がわからない。コリウスに問いかけると、彼女は困ったように笑った。

「……何がしたいのかしら?」

「おい」

「ごめんなさい。こういう時、私はどう思うのかも忘れてしまったの。知ってる人がいつもの場所にいないなんてこと、初めてだったから」

 今になってようやくダルスは気付いた。時折見せる彼女の表情。それは、忘れてしまったものを探して、それでも見つからなかった時の、哀しい笑顔だった。

「……すまない。心配させたようだ」

「心配しているのね、私。……そうね。でも、お婆ちゃんやユリアンさんを心配するのとは、違う感じ。こんな気持ちは貴方だけだわ」

 それは、きっと。知人への心配ではなく。

 コリウスはダルスの手を見つめ、そしてそっと手を重ねた。肌と肌が触れ合う。コリウスの手は、少し冷たかった。初めて知った。

「貴方の手、大きいのね」

「ん?」

 ダルスの手を両手で触りながら、コリウスが呟く。

「大きくて、傷だらけで、温かい。初めて触った」

 そう言われるのも初めてだった。こうして、愛おしげに他人に手を触られるのも久しぶりだ。最後に握った手は――。


 血塗れだった。


 ダルスの手を握る、血塗れの手。

 顔を上げると、コリウスの顔が消えていた。笑みも哀れみもなく、ただ黒く削り取られた空間だけがダルスを見つめていた。

 驚き、息を呑み、ダルスは手を振り払う。


「どうしたの?」

 コリウスがいた。血は無いし、顔もある。ただ、不安げな、あるいは申し訳無さそうな表情だった。

「いや……すまない」

 ダルスは心臓が早鐘を打っていることに気付いた。汗が出ている。吐き気を伴う、恐怖による汗が。

「……ごめんなさい。嫌だったのね」

「いや、そういう訳じゃないんだ。ただ、人に触れられるのは久しぶりで……」

 さっきのは幻覚だ。記憶の混濁だ。コリウスががああなることなど無い。あってはならない。ああなったのは。

「いいの。怪我、してるんでしょう? 私も部屋に戻るから、今日はゆっくり休んで」

「待っ……」

 ダルスが差し出した手は、しかし宙を掻いた。コリウスは足早に部屋を出ていってしまった。

 一人、部屋に取り残される。しばし呆けた後、ダルスはソファに倒れ込んだ。

 眠りたかった。何もかも忘れる、深い眠りに付きたかった。

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