第31話 トゥエリスタンにて
オリンピアを家まで送り、酒場に戻ってきたら、すっかり明るくなっていた。
コリウスはもう起きているだろうか。今は顔を合わせたくない。ダルスは祈りながら階段を上る。幸い、部屋に入るまで誰にも会わなかった。
部屋に入るとコートを脱ぎ捨てた。血を吸ったコートが粘ついた水音が響かせる。更にボロボロになった服を脱ぐ。
コートの内ポケットを弄り、滅菌された糸と針を取り出す。右腕を机の上に投げ出し、タオルを噛んで、エルヴィナに斬られた傷を縫い付ける。くぐもった呻き声がタオルの隙間から漏れる。
縫合を終えると、引き出しの中から傷薬や包帯、ガーゼなどを取り出し、残りの傷を処置していく。手順に淀みはない。何度もやったことだ。
最後に解熱剤を取り出した。この街に来た時に買ったものだ。これさえ無ければ、こんな目には遭わなかった。
薬を飲むと、ダルスはそのままベッドに倒れ込んだ。今日の酒場の仕事のことも、オリンピアのその後も、コリウスたちへの言い訳も、何も考えられない。今はただ、とにかく眠りたかった。
――
ダルスは街を歩いていた。
灰色の街だ。特徴のない建物が通りの両側に並んでいる。どれも埃っぽく、色がない。民家には人の気配がなく、商店はシャッターが降りている。
時折、人とすれ違う。街の大きさに比べて、その数はあまりにも少ない。それに女子供ばかりだ。
ここは、トゥエリスタン。連邦と隣国の国境にある小さな町だった。
中央とは民族が違う。歴史も違う。だから、独立運動がたびたび行われた。しかし、デモ隊が暴力で制圧され、強引な捜査で主導者が逮捕され、獄中で不審な死を遂げてからは、運動は闘争になった。武器を集め、訓練し、協力者を募り、戦いを始めた。
世界有数の軍事力を持つ連邦と、人口数万人の小さな街では戦争にもならなかった。
この街に住民はほとんど残っていない。軍に殺されるか、逃げ出したかのどちらかだ。残っているのは行く宛のない人々と、親を失った子どもだけ。
「教官!」
その、ほんの僅かな子どもの1人がダルスに駆け寄ってくる。茶髪の、朝焼け色の瞳が印象的な少女だ。あどけない笑顔で、手にした生首を見せてくる。
「見て! 今日は3人も殺したんだ! 村の農場を襲ってきた奴ら! 教官の言う通りに銃を構えたら、凄い狙いやすかったよ!」
ダルスは屈んで、少女の頭を撫でてやる。
「よくやったな、エルヴィナ」
エルヴィナはこそばゆそうに笑顔を浮かべる。そして、生首をダルスの眼前に差し出した。
「そうそう、この人、言いたいことがあるんだって」
生首が口を開いた。
「俺は農場で働いていたんだおふくろと子ども3人いるから毎日働いてたんだある日新しい政府の奴らがやってきて俺の農場を奪っていった他の仕事なんてできないから銃を持ってここに来たんだ家で待ってるおふくろと子どもに食わせる食べ物を」
ダルスは生首の口に銃口を突き入れ、引き金を引いた。炸裂音。飛び散った血で顔を真赤に染めたエルヴィナが、笑顔で訊ねてくる。
「なんて言ってたの?」
「……わからん」
「知ってるくせに」
立ち上がり、エルヴィナの横を通って歩き出す。エルヴィナはダルスに向けて折れた右腕をブンブン振っていた。
独立闘争の後、トゥエリスタンの治安は急激に悪化した。元々農業しかなかった土地だ。働き手の男たちがいなくなった後、農地は荒れ果て、街は急速に寂れていった。更に隣国で内戦が起きると、盗賊たちが国境を超えて襲撃してくるようになった。トゥエリスタンは中央に助けを求めるが、黙殺された。
中央がトゥエリスタンの独立運動を阻止したのは、単なる見せしめのため。それが終われば、金を生み出さない痩せた土地に興味はなかった。
聖歌隊が壊滅し、大佐に復讐を果たしたダルスが流れ着いたのは、そんな街だった。
道なりに進むと公園があった。かつては大勢の子どもたちが遊んでいたのだろう。今でも子どもたちはいる。だが、銃やナイフを持って、人形を敵に見立てて殺す練習をしている。ダルスが教えた通りに。
「あ、教官だ!」
「お疲れさまです、ハザエル教官!」
「敬礼!」
子どもたちが武器を携えたまま、ダルスに向かって敬礼する。ダルスは手を上げてそれに応じた。
一番前、髪を頭の後ろで結んだ、青い瞳の少女の顔が、ほんの少し綻んだ。
ダルスはここに、軍事教官のハザエル・ディマスカとして住んでいた。身を守るためとはいえ、子どもに人殺しの技を教える。最初は不本意ではあったが、なすすべもなく盗賊にさらわれ、売られそうになった子どもたちを見て、せめてそんな光景は無くそうと決心した。
だからダルスは怒っている。この惨状を放置する連邦政府にではない。ダルスの思いを踏みにじったこの街に怒っていた。
歩き続けたダルスは公民館に辿り着いた。屋上にはトリコロールに三日月を描いた旗が翻っている。トゥエリスタンの旗。独立を果たしたら、これを国旗にするつもりだとリーダーは言っていた。彼女に話がある。
階段を昇り、会議室に入ると、数人の中年女性が、机の上に広げた地図と写真を囲んで話し合っていた。
「ジェコヴァ」
1人が顔を上げる。ウェーブの掛かった金髪の女だ。顔には深いシワが刻まれていて、中年というより初老の様相だった。
「どうしました、ハザエル教官」
「……ニュースを見たぞ。ピーチェルの遊園地で自爆テロ。400人以上が死傷。トゥエリスタン独立派が犯行声明を出したそうだな」
「ええ。オリガとキーラは上手くやりました。期待以上の戦果です」
「ふざけるな! こんな話は聞いていないぞ!」
ダルスは声を荒げるが、ジェコヴァは眉一つ動かさない。
「確かに武器の使い方は教えた。戦い方も教えた。だがそれは身を守るためだ! こんなマネをさせるためじゃない!」
「何故です? 戦う力を敵に向ける。道理に適っていると思いますが」
「敵だと!? 遊園地にいたのは、関係ない一般人だろうが!」
「関係ない?」
ジェノヴァの目がどろりと濁った。
「私の夫はピーチェルの刑務所で殺されたのです。あの街の人間は、誰ひとり夫を助けようとしなかった。無関係とは言えません」
常軌を逸した返事に、ダルスはしばし言葉を忘れた。
「……本気で言っているのか。世論を敵に回せば、独立などできないぞ」
そうは言うが、ダルスは既に手遅れだと感じていた。最初の闘争が失敗に終わった時点で、トゥエリスタンに逆転の目は残っていない。それに気付いたジェノヴァが自暴自棄になってこのテロを起こした。そう思っていた。
「独立?」
だが、ジェノヴァはダルスの言葉に首を傾げた。それから思い出したように言った。
「ああ、そうですね。それが目的でした」
「……どういうことだ」
ダルスの声が一層低く凍りついた。許されるのなら、腰の銃に手をかけている。それほどの殺気を目の当たりにしても、ジェノヴァはまるで動じない。
いや、そもそも。最初にこの村に来た時から、この女が何かに動じる姿を彼は見たことがなかった。
「私は、ですね」
ジェノヴァが語る。
「何もしていないんですよ。生まれた時から一歩もこの村を出たことがなくて、この村で結婚して、この村で死んでいくんだなって思っていたんです。だけど夫が独立運動に参加して、政府に殺されて、それでもう普通の生活ができなくなってしまったんです。
何もしていないんですよ? なのにどうして、私は家族と一緒に遊園地に行けないのでしょう? たまの休みに、親戚の家まで出かけられないのでしょう? 子どもと一緒に遊園地に行って、一緒にアイスクリームを食べられないのでしょう?
……考えれば考えるほど、そうして生きてる普通の人たちが、許せなくなるんです。全員、余す所なく私のいる場所に引きずり下ろしたい。お前たちと私たち、一体何が違うんだって問い詰めたいのです」
怨念だった。呪詛だった。どこにでもいる普通の主婦が、反政府運動のリーダーになってしまったための歪みだった。
気付けば、ダルスは一歩下がっていた。ジェノヴァの凍りついた熱に圧されていた。助けを求めるように、ダルスは周りの女性たちに目を向ける。トゥエリスタン独立派の幹部たちだ。誰もダルスと目を合わせない。その瞳に浮かぶのは、保身、怒り、諦め、狂気、あるいは裏切り。ダルスと同じ瞳はない。
ダルスはジェノヴァたちに背を向け、部屋を出ようとする。
「どこへ行くのですか?」
「撤退だ。すぐにでも連邦軍が攻めてくるぞ」
前回の独立闘争と同じ結果になるだろう。いや、今回はそれ以上かもしれない。女子供がほとんどの自警団で戦争などできるはずがない。
「逃げる? どうして? 憎い政府の連中を殺せるのに?」
「無駄死にしたら、あの世の旦那が悲しむだろう!?」
「喜んでくれますよ。戦って死ぬのなら、あの人だって、神様だって」
振り返る。ジェノヴァは薄ら寒い、穏やかな笑顔を浮かべていた。
「くそっ……死ぬまで言ってろ! 子供たちは連れて行くからな!」
公民館を飛び出して、公園まで走る。まだ間に合う。間に合うはずだ。
「知ってるくせに」
横殴りの衝撃がダルスを吹き飛ばした。
頭を振って起き上がると、景色は一変していた。
街が赤かった。民家も商店も、等しく砕かれ焼かれている。銃声と叫び声が聞こえ、それらがまとめて砲撃によって吹き飛ばされる。僅かな建物に誰かが立てこもっているが、飛び込んできたドローンが炸裂し、沈黙した。
ダルスは既に公園にいた。さっきまで立っていた子どもたちは皆、銃を手にして倒れている。無事な子どもは誰ひとりとしていない。ダルスだけが、両足で立っている。
「こうなることはわかっていたでしょう?」
振り返る。青い瞳の少女が、上半身だけになって倒れていた。手には艦砲のように大きな銃を持っている。
「違う……お前は生きてる」
これは過去の話だ。トゥエリスタンが攻め込まれたあの日、僅かな子どもは逃がすことができた。彼女もその1人だ。ここで死んでいるはずがない。
「本当に? 身寄りのない子どもが1人で生きていけると思いますか?」
少女は喋る。吹き飛んだ下半身など、はじめから無かったかのように平然と。夢だ。これは悪夢だ。覚めてくれ。
「逃げるのですか、また?」
「逃げ……違う、俺は、生きようと」
ダルスが言い終わる前に、少女が銃口を向けた。引き金が引かれる瞬間、ダルスの体が勝手に動いて、少女の額を撃ち抜いた。額に穴が空き、少女はうつ伏せに倒れ伏す。
「そうですよ。約束、していただきましたもの」
唖然としているダルスの前で、少女が再び起き上がった。いや、少女ではなかった。青い髪の女。
顔は、わからない。
「生きて、生き延びて、足掻いて――その罪にふさわしい、惨めな死を迎えてください」
――
自分の叫び声で飛び起きた。だが、体は半分も起き上がらなかった。
目を覚ましたダルスは、見知らぬ部屋にいることに気付いた。体には包帯が巻かれているが、寝る前に自分で巻いたものよりも丁寧に、厚く巻かれている。左腕には管が刺さっていて、その根本は吊り下げられた袋に繋がっていた。点滴だ。
ダルスは病室にいた。
「は?」
「……びっくりしたあ」
男の声。部屋の隅にスーツ姿の若い男がいる。警戒しつつ、ダルスは尋ねた。
「誰だ」
「警察です」
男は懐から手帳を取り出した。間違いなく、警察手帳だった。
「は?」
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