第30話 そして夜は明ける
ダンテの『神曲』では、人々の不穏を煽り、互いに争わせた罪人が、体を引き裂かれる罰を受ける様子が描かれている。あくまでも創作だが、もしそれが本当なら、地獄とはこのような光景なのだろう。眼前の惨劇を目の当たりにして、カインはそのようなことを考えていた。
かつては様々なものを作っていたであろう作業場は、むせ返るような血の臭いに覆い尽くされていた。
どこを見ても死体が目に入る。いずれも凄惨なもので、銃弾を何発も撃ち込まれた死体もあれば、手榴弾の破片を全身に浴びて、ボロ雑巾のようになった死体もある。周りの機械も銃撃戦の余波で破壊されていて、崩れた金属棚や、落下した鉄骨などがある。
カインたち『コッペリア』がこの場所に到着したのは、夜明け後のことだった。誘拐犯の根城を見つけるため、車に乗って郊外の建物をしらみつぶしに探していると、警察の検問に引っかかった。事情を聞こうとしたのだが、部外者には教えられないと一点張りだった。
その先に何かがあると考えたカインは回り道をしたのだが、今度はそこで道路を封鎖するごろつきたちに出くわした。近付くなり撃ってきたのでやむなく応戦、これを蹴散らした先に工場を見つけた。
そこが目的地だとは一目でわかった。正面玄関の壁に無数の弾痕が穿たれ、斬り殺された死体が転がっていたからだ。
「隊長! こっちにも死体です!」
「いくつだ?」
「5人です」
外に3つ、廊下に1つ、作業場に6つ。そこに5つ追加。合計15個の死体だ。カインたちはその任務の性質上、死体を作ることも珍しくはないが、これだけの数に出くわすことはそうそう無かった。
銃を構えつつカインは機械の間を進む。更に1つ、倒れている人影を見つけた。
「おい、冗談だろ……」
カインが呻いたのは、その死体の無残さに対してではない。幼さに対してであった。学校に通っているぐらいの幼い少女が倒れていた。傍らには、少女の背丈と同じぐらいの長さのライフルが落ちている。
カインは少女に近付いて傷を確かめる。右腕は折られ、左腕は斬り裂かれ、肋骨と左足は砕かれている。こんな事をしでかせるのは、よほどの悪党に違いない。カインに正義を気取るつもりはなかったが、それでもこの惨状には義憤を覚えた。
だが、カインは疑問を覚える。酷い有様だが、右足は無傷で残っている。痛めつけるのが目的なら右足を残す意味がわからない。それに銃創がない。すぐそこにライフルという絶好の得物があるのに。
「読めねえ……ここで何があったってんだ?」
あまりに意味不明な状況に困惑しながらも、カインは部下と一旦合流するために立ち上がった。
その足が掴まれた。
「ッ!?」
カインが銃を構えて振り返る。斬り裂かれた左腕が、カインの足首を掴んでいた。燃えるような朝焼け色の瞳を爛々と輝かせて、少女がカインを睨みつけていた。
「生きてんのか……!?」
眼前の光景を信じられないカイン。だが、少女は更に信じられないことを口走る。
「ハザ……エル……!」
溢れる血の隙間から、知るはずのない言葉が漏れた。カインは叫んだ。
「おい、誰か! 誰か来い! 救急キット持ってこい! 生きてる奴がいるぞ!」
――
夜は明けたが、イパティ家は暗いままだった。コズロフ・ファミリーは準備を進めているものの、娘は未だに帰ってこない。無事なのか、そもそも生きているかどうかさえわからない。父親のコーリアも、母親のアンジェリカも眠れぬ夜を過ごしていた。
呼び鈴が鳴った。アンジェリカは顔を上げる。まだ朝早い時間だ。宅配などが来るわけがない。玄関モニターを確認したが、誰も映っていない。
「……俺が見てくる」
憔悴しきった顔でコーリアが立ち上がった。何があるかわからない。ドアチェーンをかけたまま、コーリアは少しずつドアを開ける。やはり、誰もいない。そう思って視線を落としたコーリアは、そこに誰かが倒れているのを見つけた。
「……オリンピア!?」
見間違えるはずのない姿だった。誘拐されたオリンピアが、そこに倒れていた。
「アンジェリカ、オリンピアが!」
「えっ!?」
コーリアの声を聞いて、アンジェリカも玄関にやってきた。コーリアはチェーンを解き、オリンピアの体を揺り起こす。
「オリンピア、しっかりしろ、おい!」
オリンピアの目がうっすらと開かれる。
「……お父さん?」
「オリンピア……!」
「……お母さん!」
目を開けた娘は、ボロボロと涙をこぼした。そして、大声を上げて泣いた。父も母も、震える娘を抱き締めて泣いた。
ひとしきり泣いた後、アンジェリカがオリンピアの足に気付いた。
「あなた、足が……!」
オリンピアの両足首に包帯が巻かれていて、それが血で赤く滲んでいた。
「うん、うん……斬られて……」
「病院だ! 救急車! いや、それよりロウリさんだ! あの人のほうが信用できる!」
コーリアとアンジェリカは、慌てて近所の医者に連絡する。すぐに電話が繋がり、オリンピアは自分の部屋で待つことになった。
両親の助けを得て、オリンピアは何とか自分の部屋に戻った。いつもの、慣れ親しんだ光景だ。だが。
窓の外を見る。まだ朝の早い時間で、人はほとんど歩いていない。だけど探してしまう。ひょっとしたら黒いコートのあの人が、自分を見ているのではないかと。昨日までは待ち望んでいた光景だから、幻が見えてしまいそうで、オリンピアは窓から離れた。
机の上を見る。スマートフォンが置かれている。車の中に置いていたものだ。ベッドから這い出し、スマートフォンを手に取る。
あの人には助けられた。それはわかっている。だけど、脳裏に浮かぶのはたくさんの死体。おびただしい量の血。それを生み出したあの人。町の外から来たあの人は、過去を語ろうとしなかった。あんなことができてしまう人は。
震える指で画面をタップする。通話機能から打ち込むのは3桁の番号。数度のコールの後、アナウンスが聞こえた。
《こちら、警察です》
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