第10話 ダルちゃん焼きそば
その日、ザフトラシニーヤ・パゴダは奇妙な盛り上がりを見せていた。
店内には『気まぐれサラダはじめました』『チーズあります』『エビ』などの張り紙が店内に貼られている。この店でメニューが増えるのは数年ぶりのことだ。
そして更に珍しいことに、普段は思い思いのテーブルで飲んでいる客たちが、今日はカウンターに集まっていた。その原因は、キッチンから湧き上がる湯気と熱気であった。
普段は肉を焼いている鉄板から、白い湯気と尋常でない熱気が発せられている。じゅうじゅうと音を立てる鉄板の上で焼かれているのは、肉、野菜、そしてちぢれた中華麺であった。
鉄板の前に立つのは、黒いエプロンとバンダナをした男。ダルスである。
「ハイ、ラッシャーセーラッシャーセー。ヤスイヨウマイヨー」
ダルスが何らかの呪文を唱え、コップの水を鉄板の上の具材にに注ぐ。すると、蒸気が一層激しく吹き上がった。
「おおっ」
「ワーオ」
物珍しさに覗き込んでいる客たちが身を反らす。一方ダルスは、熱気を物ともせず、金属のヘラで肉と野菜と麺をかき混ぜる。具材が熱気とともに蒸し焼きにされていく。ダルスは具材に粉末ソースを振りかけ、もう一度混ぜる。黄色っぽい中華麺が茶色に染まる。
十分に絡んだ所で、ダルスはヘラを駆使して具材を皿の上に乗せた。
「ヤキソバイッチョウ!」
片言の日本語とともに繰り出されたのは、日本の麺料理、焼きそばであった。
「ドゾー」
「おおー」
物珍しさで頼んだ客は、予想外に派手な料理が出てきて目を丸くしている。皿に盛られた焼きそばをいろんな角度から眺めて、それに満足するとフォークで麺を口に運んだ。
「濃ッ!?」
そして、むせた。予想外の味の濃さに、客はウォッカを喉に流し込む。
「ソース多すぎじゃないのか!?」
「分量はそれで合っている。元々濃い口の料理なんだ」
「ほんとかよ……」
「シャシリクのタレを麺に絡めて食ってるみたいな感じだ。肉はいいぞ」
別の客が肉と野菜を口にして感想を漏らす。
「おい、ダルス」
焼きそばを食べていたユリアンが声をかけた。何か不満げな表情だ。
「……何だ?」
「アオノリは無いのか」
ユリアンの問いに、ダルスは口を真一文字に結び、唸り、そして頭を下げた。
「すまん……!」
「おいおい、アオノリ抜きのヤキソバなんて、パセリ抜きのボルシチみたいなもんじゃねえかよ」
「近くのスーパーを回ったんだが、どこにも売っていなかったんだ……!」
「……まあ、日本の食い物だからな。通販で売ってるから、今度食べに来る時までに取り寄せておけよ」
そう言って、ユリアンは焼きそばを頬張る。
「ユリアンさん、そんなに食べて大丈夫なんですか? 味」
「うん? まあ、生のヤキソバだからこんなもんだろ。カップヤキソバより薄い」
日本かぶれで慣れているからこその反応だった。むしろ、インスタントではない生の味に感無量になる余裕すらある。ダルスも黙々と食べてくれることに少なからぬ満足感を覚えていた。何しろ、他人に料理を作ることなど本当に久しぶりだったからだ。
「ねえ」
だが、そんな雰囲気に氷水が浴びせかけられる。
「そろそろ、歌いたいのだけれど」
ドレスに着替えて準備万端だったコリウスが、鉄板を見つめていた。焼けた鉄板は、音楽をかき消してしまいそうなほどじゅうじゅうと音を立てていた。
――
ステージは無事に終わったものの、コリウスの機嫌は過去最悪だった。歌が終わるなり、コリウスは着替えもせずに焼きそばの調理音がいかにうるさかったか、ソースの匂いが更衣室まで漂ってきて大変だったかを力説し、ダルスに反省を促した。そして焼きそばを一皿食べて、片付けもせずに部屋に上がってしまった。
そういう訳で、今日の後片付けはダルス1人でやることになった。今日の洗い物は少々骨が折れる。焼きそばのせいで濃厚なソースの汚れが多い。作っている時は何とも思わないのだが、片付けとなると急に気が滅入る。一通りの仕事が終わった頃には、すっかり深夜になっていた。
「終わりだ」
「おう、ご苦労さん」
スザンナは席に座ってタバコをくゆらせていた。手伝いはしないが、いつも片付けが終わるまで必ず店に残っている。彼女なりの義理立てなのだろう。あるいは、ダルスが財布やパスポートを探し始めないように見張っているのかもしれないが。
「……ヤキソバは、あれだ。コリウスが歌う準備を始めたら作らないでおきな」
「……そうする」
コリウスがここまで怒るとは思わなかった。調子に乗って作り続けていたダルスにも非はあるが、それにしても彼女が怒っている姿を見たことがなかったので、ダルスは少々驚いていた。思えば、この店の仕事でミスをしたり、多少の食い違いがあっても、コリウスはフォローするか困ったように笑うかしかしなかった。そんな彼女が歌についてここまで怒るとは。
「なあ、店長」
「何だい」
ダルスは前から思っていたことを、店長に聞いてみる。
「コリウスはプロなのか?」
歌に対するこだわり、歌唱力、並大抵とは思えない。実はプロの歌手なのではないか、とダルスは考えていた。
ところがスザンナは即座に否定した。
「いや、あれぐらいの歌でプロにはなれないよ」
「そうか?」
「そうだよ。アンタ、料理はできるのに歌を聞くセンスはサッパリなんだねえ」
「いい歌だと思うんだがな」
「いい歌どまりじゃあダメなんだ。歌でメシを食っていくには」
そう言うスザンナの顔には、どこか哀愁が漂っていた。ふと、ダルスの頭に別の考えが浮かぶ。昼に市場に行った時に思っていたことだ。ひょっとしたら。
「……店長は歌手だったのか?」
その言葉に、スザンナの動きが止まった。
「……何でそう思うんかね」
「市場に行った時、店長によろしくと色んな人から言われた。悪い話もまるで聞かなかった。随分有名人で、好かれていると思ったが……歌手だったなら説明がつく」
それに、コリウスが歌うことに嫌な顔をしないのも、それが関係しているのかもしれない。
どうだろうか、とダルスが返事を待っていると、スザンナは無言で立ち上がった。冷蔵庫からウォッカの瓶を取り出し、洗い場からショットグラスを2つ取る。それぞれにウォッカを注ぐと、1杯を自分で煽り、もう1杯をダルスに差し出した。
「呑みな」
「何?」
「奢りだ。気にせず呑みな」
よくわからないが、断るのも失礼に思えたので、グラスの中身を流し込んだ。灼けるようなアルコールの熱が、食道から胃に流れ込むのを感じた。
ダルスが呑んだのを見て、スザンナはそれぞれのグラスに2杯目を注ぐ。今度は一気に煽らず、唇を湿らせて少しずつ呑んでいく。ダルスは先程の質問の答えを待ちながら、相手のペースに合わせて少しずつ酒を勧める。
「……歌手になれたら良かったんだけどねえ」
グラスの1/3が消えた所で、スザンナが口を開いた。
「自信はあった。チャンスはあると思ってた。なけなしの金を掻き集めて中央まで出ていって、何年だったか。ともかく、CDの1枚も出せなかったよ。それで、鳴かず飛ばずで帰ってきたのさ」
灰皿に置かれたタバコが、オレンジ色の光を発しながら灰に変わっていく。細い煙が天井に昇っていく。
「騙されたとか、ツキが無かったとか、そういう訳じゃない。ただ、アタシにゃ届かない世界だったのさ。それでも、まあ、諦めきれなくて。この街のバーを巡り歩いて歌を歌ってたら、あの人に会ったんだよ」
「あの人?」
「アレクサンダー・コズロフ。この街を仕切ってた人だよ」
その名前はダルスも知っていた。ユリアンが率いる鉱山マフィア、コズロフ・ファミリー。その先代にして創始者だ。今とは比べ物にならない勢力を誇っていて、議会や周辺企業も手中に収めた、ミルジェンスクの街の実質的な支配者だったらしい。
「昔は鉱山にもっと活気があってねえ。その頃、鉱夫や機械の手配をしてたのがあの人さ。それがどういうわけだかアタシの歌を気に入ったみたいでねえ。毎週あの人のお気に入りのバーに出向いて歌ってたのさ」
スザンナの瞳がタバコの火を見つめる。いや、見ているのは別のものかもしれない。それは今ではない時間、遥か過去の風景を、火の中に見出しているのかもしれない。
「……それで、結婚したのか?」
ダルスの推測に対し、スザンナは軽く笑い、黙って首を横に振った。
「まさか。あたしゃ浮気相手……ってのはちょっと違うか。向こうの嫁さんにも顔は通してたし。あの人は敵が多かったからね。1人でゆっくりしたい時に、地元生まれのアタシが丁度良かったんだろうさ」
大物であればあるほど、弱みは見せられない。それは身内に対しても同様、いや、むしろ身内であるからこそ強さを見せつけなければいけないこともある。そうした人間が弱みを見せられて、なおかつ身内とは若干の距離がある相手。それが、スザンナだったのだろう。
「まあ、できるもんならそうしたかったけどね」
タバコを一吸いすると、スザンナは火を揉み消した。
「ま、そういう訳で。あの人のお気に入りって事で、町衆からはちょいと特別扱いされてんのさ。この店もあの人から貰ったモンだし。だから、アタシが歌手だったとかこっ恥ずかしいデタラメ、言いふらすんじゃないよ?」
そう語るスザンナの顔には、僅かながら照れが混じっていた。ダルスは無言で頷くと、ウォッカを喉に流し込んだ。
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