第5話 カラテ・ミュージカル

 カラテとは日本発祥の武術である。漢字で『唐手』または『空手』と書き、中国武術と沖縄武術を源流とする素手主体の格闘技である。しかし、それらとは決定的な違いがカラテにはある。源流に含まれる武器術がカラテは存在しない。文字通り空の手、つまり素手による攻撃しか行わない。なおかつ、立った状態での打撃を主軸としている。

 源流と比べて戦法は狭まったが、その威力が減じたわけではない。達人のカラテは素手で人体を"破壊"すると形容されるほどであり、場末や裏路地でのケンカで振るわれれば、そこには血の花が咲き乱れる。

 ユリアンがどこまでカラテを使えるかはわからないが、前2人のようにいかないのは、先程の高速正拳突きが証明している。更にダルスは負傷のハンデを背負っている。適当にあしらえる相手ではなさそうだ。

 ダルスが実力を測りかねている間に、ユリアンが先に動いた。探るような小刻みな拳。ダルスは後ろと横を使って避けるが、反撃できるほどの隙は見出だせない。

「せいっ!」

 数発の拳を避けた所に中段回し蹴りが放たれる。避けられない。左腕で受けるしかない。鈍痛。添え木が折れた。傷に響く。歯を食いしばり、集中を保つ。

 ユリアンはダルスが崩れたと見て、一気に間合いを詰めてきた。攻め時と見たか、連打が加速する。避けきれるものではなく、ダルスは時折右腕で弾く。ユリアンのカラテは確かに速いが、軌道そのものは直線的なので予測しやすい。飛んでくる拳の軌道に右手を置き、拳の側面を叩けば、軌道が逸れてダルスの顔の横を通り過ぎていく。

 拳を弾いた右腕を折りたたみ、同時に一歩踏み込む。突き出した肘をユリアンの鳩尾に叩き込む。

「……っと!」

 だが、肘打ちが突き刺さるよりもユリアンが足を上げる方が速かった。膝に阻まれ、不発。ユリアンの体を後ろに吹き飛ばしただけに終わる。ダルスは舌打ちする。怪我をした右足が傷んで踏み込みきれなかった。ここまで弱っていたのか、と心の中で自身に悪態をつく。

「何だアイツ」

「ユリアンさんのカラテと互角だ……」

 観客たちはそんなダルスの心中など露知らず、場末の酒場ではまずお目にかかれない高レベルな格闘に騒然としている。それは相対するユリアンも例外ではなかった。

「なんだそりゃあ……ボクシングじゃねえよな。カンフーか、それともシステマか?」

「……カラテだ」

 右手を前に出して防御姿勢を取り、ダルスは返答する。

「俺の知ってるカラテじゃねえよ!」

 ユリアンが再び攻め込んだ。今度は拳の量を控えめにして、蹴り技主体で攻めてくる。さっきの中段回し蹴りで崩れたのを見て、こちらが有効だと判断したようだ。実際、その通りだ。拳はともかく、蹴りは片手では捌きにくい。先程の大男のような大振りの蹴りなら、抱え込んで引き倒すこともできるが、ユリアンもそれを警戒してるのか深く踏み込んでこない。

「どっちが勝つと思う?」

「ユリアンさんに決まってんだろ」

「なら新入りが勝ったら1杯奢れよ」

 客席では賭けが始まっているが、ダルスもユリアンも咎めている暇がない。下段は足で受け、上段は屈んで避ける。中段は後ろに下がる。反撃の糸口が見当たらないが、ダルスは焦らずユリアンの動きに集中する。攻め続けていればそのうち疲れて、動きが鈍る。その時を狙う。だが、数度目の中段回し蹴りを避けるために下がった所、踵がテーブルに当たった。これ以上は下がれない。

「シャアッ!」

 それを見越していたのか、ユリアンは回し蹴りの途中で反対側の足をダルスの顔に突き出した。高速の後ろ回し蹴り。下がれないダルスは後ろに倒れ込んだ。背中を丸めてテーブル上を後転、反対側に着地する。

「おいおいおいおい」

「やべえ、どけどけ!」

 ダルスが飛び込んできて、観客がバタバタとその場から離れる。

 ユリアンはテーブルを回り込もうとして、一瞬迷った。右から行くか、左から行くか。その硬直にダルスはテーブルを蹴り飛ばした。奇襲に反応できなかったユリアンにテーブルが衝突。ダメージは無いが、ユリアンの動きが止まった。ダルスは素早くテーブルを回り込み、ユリアンに向かって攻め込む。

 顎を狙ったフック。ユリアンは後ろに下がって避ける。一歩前に出て、曲げた肘による刺突。これは弾かれる。ならばと、再び肘を伸ばし、その勢いのまま顔面へ掌底を放つ。ユリアンは首を曲げて間一髪で避ける。空を切った手の平を握る。狙いはユリアンの耳。掴めば引き倒せる。

「しゃらくせえ!」

 だがその前にユリアンの回し蹴りが放たれた。攻撃途中のダルスは避けられず、大きく吹き飛ばされ観客席に飛び込んだ。何人かの観客が椅子ごと倒れた。

「おわぁっ!?」

「あっぶねえ!」

 慌てて離れる観客には目もくれず、ダルスは立ち上がる。ユリアンは既に迫ってきている。ダルスは足元の椅子をユリアンに向かって蹴り飛ばす。ユリアンは蹴りで椅子を破壊した。間髪入れずにもう1脚。今度は両手で椅子を受け止められた。3脚目。受け止められた椅子を掲げて盾にされた。視線が途切れた。ダルスは一気に間合いを詰めて、渾身のハイキックを放つ。

「んがぁっ!?」

 椅子を捨てようとしていたユリアンは見事に吹き飛ばされた。ギリギリの所で椅子を掲げてハイキックを防いだが、椅子は無残にも破壊され、ユリアンもテーブルをひっくり返して倒れた。追い打ちをかけようとしたダルスだったが、下ろした右足に鋭い痛みが走り、動きを止めた。その間にユリアンは立ち上がり、体勢を整えていた。

「この野郎……」

 ユリアンの顔から余裕が消えている。肩で息をしている。スタミナが切れかかっている。それはダルスも同じだ。左腕と右足に鈍痛。脇腹からは生暖かい血が溢れているのを感じる。手当てした傷が開いたのだろう。次が最後の交錯になる。お互い、加減ができる段階ではない。

「謝るなら今のうちだ。死んでも知らねえぞ」

「なら、上手く殺してみろ」

 死ぬならばそれでいい。惨めな死だ。だが、無抵抗は許されない。

 拳を握る。ユリアンが摺足で近付いてくる。足元には酒瓶。ダルスは動かない。相手が間合いに入るのを、息を潜めて待つ。

 その時、背後から異音が響いた。金属が噛み合う音。ダルスは拳を構えたまま、反射的に振り返った。

「そこまでだよ」

 どこから取り出したのだろうか。スザンナがショットガンを見せつけるように持っていた。銃口は明後日の方向を向いている。まだ撃つ気はないようだが、引き金に指が掛かっている。

「暴れ過ぎだ、どっちも。席に戻んな」

「だけどよう……」

「元はと言えばあんたの子分がちょっかい掛けたのが悪いんじゃないのかい?」

「はい……」

 口答えするユリアンだったが、スザンナに睨みつけられて大人しくなった。それならいい、とダルスは構えを解いて席に戻ろうとした。

「あとアンタ」

 そこへスザンナが声をかける。

「テーブルと椅子の代金も、借金に入れとくからね」

 思わぬ言葉に振り返ってしまった。

「壊したのはあいつだぞ?」

「蹴り飛ばしたのはアンタでしょうが」

 そう言われると反論できない。肩を落として溜息をつくしかなかった。

「ハイ、そしたら終わりだ終わり! テーブルと椅子は元に戻しておきな!」

 スザンナの一声で観客席も解散となった。酒場の客たちがスザンナの言う通りにテーブルと椅子を元の位置に戻していく。

「すげえな兄さん」

「惜しかったなあ」

 数名の客はダルスに称賛の声をかけるが、無駄な借金が増えたダルスにとっては特に慰めにならない。しょんぼりと席に戻ると、隣の席に怒られて落ち込むユリアンも戻ってきた。まだ気絶しているポロシャツの男を引っ張ってきた大男も一緒だ。ユリアンは何か言おうとしたが、スザンナが見ていることに気付き、黙ってビールの残りに口をつけた。

「どうしたの?」

 コリウスの声がした。

「何でもない……何だ、その格好?」

 振り返ったダルスは目を見開いた。コリウスはエプロンを脱いで、きらびやかな黒いドレスを纏っていた。後ろで結んでいた髪も解いて、さながらダンスホールで踊る令嬢のようだった。こんな小さな酒場には似つかわしくない華やかさだ。

 ダルスの指摘に対して、コリウスは自分のドレスの生地をつまんで答えた。

「ああ、これ? これから歌うの」

 それだけ言うと、ダルスとユリアンのテーブルの前を通り過ぎて、1段高くなったステージに上った。

「いよっ、待ってました!」

「コリウスちゃーん!」

 途端に、店内が賑やかになる。コリウスはスマートフォンをアンプに繋ぐと操作して曲を流し、マイクを手にとった。静かなピアノのイントロの後、コリウスが歌い出す。

 森林の鳥の声。コリウスの歌声から受けた第一印象はそれだった。清水のように透き通り、それでいて儚いわけではなく、しっかりと芯の通った強さがある。

 歌は詳しくないダルスだったが、コリウスの歌声が良いものだということはすぐにわかった。耳だけでなく、心に響く声だ。

 聞き惚れているうちに曲が終わった。黙って聞いていた客たちが割れんばかりの拍手を送る。ダルスも自然と手を叩いていた。隣の席のユリアンもだ。

 少しの間を置いて、2曲目が始まる。先ほどとは違い、ギターのサウンドから始まる力強い曲だが、コリウスの声は電子音に負けていない。そして、歌っている時のコリウスの顔は、とても晴れやかで、美しく見えた。

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