第4話 砂塵
『ザフトラシニーヤ・パゴダ』という看板が掛かっている。最初にいた部屋の窓のちょうど真下だった。そのせいでダルスは、自分の居た建物の1階が酒場だということに気付けなかった。
ダルスが中に入ると、ドアベルがカランと鳴った。店内にはカウンターテーブルと丸テーブルが10脚程度。天井では換気用のプロペラが回っている。大分年季が入った店のようで、壁や天井にはタバコの煙が染み付いている。床はきれいに掃除されているので、小汚い印象は受けない。
まだ日が沈んだばかりだが、既に数人の客が来ていた。古びたコートを来た髭面の男。シャツの襟元がよれている若者。顔にすす汚れが残っている男。他にも数人いるが、いずれもさほど金を持っているようには見えない。そういう階級が集まる店のようだ。
そして、彼らの間を歩き回って注文を取っているのは、赤いエプロンをしたエメラルドの髪の女性。コリウスだ。配膳の邪魔にならないように、髪を後ろでまとめている。彼女はダルスに気付くと、笑顔を向けてきた。
「あら、いらっしゃい。夕飯、食べにきたの?」
「……ああ」
「こっちの席、空いてるから。座ってちょうだい」
ダルスは勧められた席に座る。席の側に一段高くなってる場所があった。どうやらステージのようだ。ミュージシャンが来て歌うこともあるのだろうか。
「じゃあ、夕飯、お婆ちゃんに作ってもらうわね」
ダルスが頷くと、コリウスはカウンターにいるスザンナに声をかけた。それから新しく入ってきた客に挨拶する。店の中がだんだん騒がしくなる。今まで居た部屋の静けさとは大違いだ。この真上には、自分がいた部屋がある。天井1枚隔てた場所が、これほどまでに違うとは不思議な気分だった。
ダルスがミルジェンスクの街に流れ着いてから1週間が経った。初めは立って歩くこともできなかったが、念入りな治療とリハビリ、それと3食きちんと食べたことにより、こうして1階に降りてこられる程度には回復した。そうしたらスザンナに、これからは下の店に来て食事を摂るように言われた。
「いちいち上に持っていくのは大変なんだよ、階段が急だし」
とは、スザンナの言である。また、コリウスの部屋を出て、隣の部屋に移るようにも言われたので、言う通りにした。コリウスは心配していたが、いつまでも世話になるつもりは無い。
ちなみに、これらの食事代と家賃もキッチリ取られているので、今現在の借金は30万を超え、なお膨らみ続けている。
水を飲んで食事を待っていると、よれよれのカーキ色のコートの老人が入ってきた。眼鏡を掛けた男性だ。彼はコリウスに案内されて席に向かう途中、ダルスの顔を見て席に近付いてきた。
「おお、エンゼルシー君」
「どうも、ロウリ先生」
彼はミルジェンスクの町医者だ。コリウスに頼まれてダルスを治療した、命の恩人の1人である。抗生物質やリハビリメニューも用意してくれていて、何かと面倒見が良い。
「今日はこっちで食事か?」
「下で食べてくれと言われてな。まあ、少しは運動になる」
「いや無理して動くな。正直言って、あと1週間は寝たきりにしておきたいんだぞ」
「そんなにゆっくりはできない」
町医者とは言え、ベテランの医者だ。彼の言う通り、ダルスの容態はあまり良くないのだろう。だが、ダルスにも事情がある。早く回復して働いて、荷物を取り返して街を出なくてはならない。
「わかった。だがな、頼むからコリウスちゃんを泣かせるようなマネだけはしてくれるなよ?」
そう言ってロウリは自分の席に歩いていった。入れ替わるようにコリウスが料理の入った皿を持ってくる。
「お待たせ。温かいうちに食べてね」
「感謝する」
出てきたのは、煮込んだソバの実に鶏肉とソース、それにスパイスををかけた料理。スパイシーカーシャだ。ダルスはスプーンを手に取り、一口食べてみた。ごくごく普通の素朴な味だ。鶏肉は缶詰のものだし、ソースもスパイスも出来合いのものを使っている。ソバの実も恐らく、普通に売られているものを使っているのだろう。この一週間、出された食事を食べ続けていたが、スザンナは料理に手をかけるということをしないらしい。
改めて、店内の様子を伺ってみる。料理は特別うまい訳でもなく、酒もごく普通のラインナップなのに、客はどんどん集まっている。スザンナの愛想が良いわけではない。コリウス目当てに来ている客はいるだろうが、それだけとも思えない。不思議な店だ。
そんな感想をダルスが抱いていると、またしてもドアベルが鳴った。
「おい、ピサレンコの奴はいるか?」
入り口から大きな声が聞こえた。入ってきたのは3人組の男だ。1人は白いポロシャツで、頬のコケた茶髪の男。2人目は他より頭一つ背の高い、筋肉質の大柄な男。そして3人目は赤いジャケットを羽織った黒髪の男。大声を出したのはこの男だ。先の2人より身なりが良いということは、彼がリーダーだろう。
「お婆ちゃん、ピサレンコさんは?」
コリウスの問いに、スザンナは首を横に振る。
「知らないよ。アイツ、3日前から仕事をすっぽかして連絡もよこさないんだ」
「んだよあの野郎……」
スザンナの答えに機嫌を損ねつつ、男は案内も無しに、ダルスの隣の席に座った。連れの2人も同じ席につく。それから、隣の席に座っているダルスの存在に気付いた。
「見ねえ顔だな。誰だ?」
「ここの店長に世話になってる者だ」
「おーい、婆さん。こいつ誰だ?」
「知らないよ。コリウスが拾ってきたんだ」
「は?」
困惑する男に対して、水を持ってきたコリウスが答えた。
「そうよ。お店の裏で倒れてたから、助けてあげたの」
コリウスの言葉に、男は目を見開き、口を半開きにして固まった。それから首だけを動かして、ダルスをまじまじと見つめてくる。妙に機械じみた動きにダルスは困惑した。どうしたんだこいつは。
「ユリアンさん、今日もビールとシャシリクの盛り合わせでいいかしら?」
コリウスが問いかけると、ユリアンは我に返った。
「あ、ああ。頼む」
「ダルスは何かいる? 飲み物もあるわよ」
続いてダルスにも食事を勧めてきた。
「いや、いい」
「おすすめはヨージキよ。今日、市場で仕入れたお肉で、お婆ちゃんが仕込んでるから」
いらないと言っているのだが、コリウスは引く気はないらしい。そしてまたもやユリアンがこちらを見つめている。
「……なら、それを」
何だかいたたまれなくなり、ダルスは追加の注文を出した。
「わかったわ」
コリウスは微笑みかけると、オーダーを伝えにカウンターの方へ歩いていった。
「……おい」
隣の席のユリアンがダルスに話しかけた。
「何だ」
「どっから来たんだ、お前」
「どこからでもいいだろう」
助けられたコリウスや、身柄を預けているスザンナにならまだしも、こんな通りすがりの男に答える義理はない。
「まさか、ミガン・ストリートから来たんじゃあねえだろうな」
聞いたことのない地名だ。街のどこかにあるのだろうか。
「知らん。この街に来るのは初めてなんだ。どこだ、そこは」
「……知らねえならいいけどよ」
会話はそれで終わった。しばらくすると、ビールとシャシリクが運ばれてきて、ユリアンたち3人組はグラスを片手に食事を始めた。
それからダルスの席にヨージキが来た。豚肉のハンバーグをトマトソースで煮込んだ料理だ。
「どう、おいしい?」
カーシャと同じで、肉もソースも出来合いだから、普通の味である。まずいというわけではないのだが、褒めても変な気がする。
「……まあまあだな」
偉そうな感想になってしまった、とダルスは思ったが、コリウスは気にしていないようで、笑顔のままだった。
「そう。それじゃ私、裏で準備するから。待っててね」
そう言うと、コリウスは従業員用のドアの向こうに行ってしまった。準備、という言葉にダルスは首を傾げる。何の準備だろうか。そもそも、配膳の仕事を中断してまで必要な準備とは、一体何なのだろうか。検討もつかない。
「ばーちゃん、ウォッカー!」
「自分で取りにきなー!」
ホールスタッフがいなくなったので、注文がセルフ形式になり始めた。スザンナがカウンターに並べる料理やグラスを、客が自分で持っていく。普通の店なら文句が出そうなものだが、むしろ客は上機嫌になっている。いつもの光景なのだろうか。
「婆さん、注文頼む!」
ユリアンの連れの、白いポロシャツの男がやたらと大きな声をあげた。
「何だい?」
「この新入りに、ミルクを奢ってやってくれ!」
その注文に店内が静まり返った。客の視線がダルスに集まる。一方スザンナは、心底面倒そうに牛乳パックを取り出し、中身をグラスに注いだ。
ダルスはメニューを確かめた。ソフトドリンクに牛乳はない。
「ほら、取りに行けよ。俺の奢りだ」
注文を叫んだポロシャツの男は、ダルスを見てニヤニヤ笑っている。その態度でようやくダルスは気付いた。どうやらこの男はダルスを笑い者にしたいらしい。あまりにもベタすぎてそこまで思い当たらなかった。
ダルスは何も言わずに上着を脱いで、半袖シャツ姿になった。客たちがどよめく。当然だろう。両腕と首に血で汚れた包帯を巻き付けている姿を見れば、大抵の人間は驚く。隣の席の3人組も、思わぬダルスの様相に固まっている。例外は、ダルスを知っているロウリと、同席の丸刈りの男、それにダルスを気にせずパスタを食べている太った男ぐらいだった。
注目を集める中、ダルスは堂々と歩いてカウンターまで行くと、スザンナからミルクのグラスを受け取った。
「気にすんじゃないよ」
「構わん」
短く言葉を交わすと、ダルスは客席に向かって高々とグラスを掲げて、一気に中身を飲み干した。そして、元凶である白いポロシャツの男に向かってグラスを突き出す。
「傷にはタンパク質が良く効くんだ。特に牛乳はいい。感謝する」
「お、おう」
ついでに一言、意趣返し。
「ちなみに特別価格で2,000ルーブルだそうだ」
「はぁ!?」
普通に売られてるミルクの5倍以上の値段だ。もちろん嘘である。
「おい婆さん、どういうことだ!?」
男は立ち上がってカウンターに詰め寄るが、スザンナは相手にせず食器を洗っている。
「メニューにないからね。値段も決まってないんだよ」
気付いた何人かの客が忍び笑いを漏らしている。
「そりゃねえよ! 常識ってモンがあるだろうが!」
ポロシャツの男はカウンターを超えてスザンナに掴みかかりそうな勢いだ。そこまで迷惑をかけると流石に悪いので、ダルスは男をひきつけることにした。
「どうした? 新入りの歓迎に2,000ルーブルは高すぎたか?」
「あぁ!?」
ポロシャツの男が振り返ってダルスを睨みつける。
「懐も肝も小さい奴だ」
「この……ナメやがったなクソ野郎が!」
男が拳を握り締め、ダルスの頭を殴った。鈍い音が店内に響く。
「……気は済んだか?」
ダルスは倒れない。それどころかよろめきもしない。平然としている。ただ、内心少しだけ驚いていた。たった一言の挑発で手を出すとは、どれだけ沸点の低いチンピラなのだろうか。
「てっめえ、この野郎!」
男は立て続けに拳を振り回す。どれもこれも、素人の大振りのパンチだ。その上、単調で遅い。振り始めさえ確かめておけば、簡単に軌道が読める。キレやすい割にケンカが弱い、そんな性格だな、とダルスは拳を掻い潜りながら男を哀れんでいた。
10回ほど避けられた男は、勢い余って近くのテーブルに倒れ込んだ。呼吸が荒い。早くもへばっている。
「おい、頑張れよ。全然当たってねえぞ」
「うっせえ! それ貸せ!」
男はヤジを飛ばした客から酒瓶を奪い取った。ダルスの表情が険しくなる。当たる気はしないが、今までの男の動きから考えると、勢い余った酒瓶がどこに飛んでいくかわからない。そろそろ止めたほうがいいな、と思った。
「店長」
カウンター越しにスザンナに話しかける。
「何だい」
「一発いいか?」
「好きにしな」
許可は取った。ダルスは両手両足を軽く動かし、体の調子を確認する。左腕は駄目だ。使えば怪我が悪化する。右足も強く踏み込めば傷口が開いてしまうだろう。なるべく動かずに、右腕と左足だけで制圧する。
「ブッ殺してやる……!」
ポロシャツの男は酒瓶を構えていきり立っている。それに対し、ダルスは冷たく返した。
「なら、上手く殺してみろ」
死ぬならばそれでいい。惨めな死だ。だが、無抵抗は許されない。
「やってやらあ!」
酒瓶を振りかぶって、男が走り出した。それに合わせて、ダルスは一歩前に踏み込む。男の目論見よりも早く距離が詰まる。酒瓶はまだ頭上。ガラ空きの胴体に、ダルスは右手でボディーブローを叩き込んだ。
内臓に衝撃が撃ち込まれる音が、店内に響き渡った。
ポロシャツの男は、呻き声すらあげずにその場に崩れ落ちた。
「おおう……」
「一発かよ!?」
「なっさけねえなあ、ダビド!」
客たちは驚き、あるいは倒れた男に向かってヤジを飛ばす。それらには目もくれず、ダルスはユリアンのテーブルを確認した。筋肉質の大男が立ち上がり、こちらに向かってきていた。大男は倒れているポロシャツには目もくれず、ダルスと相対する。
「仲間に手ェ、出したな」
「先に手を出したのはこいつだぞ」
大男は見せつけるように、ダルスの目の前で拳を握りしめた。非を認めるつもりは無いらしい。
呆れたダルスは溜息をつき、顔に突き出された拳を避けた。力任せに襲ってくるかと思ったが、意外と振りの小さいパンチを放つ。少しは心得があるようだが、それでも当たるものではない。
振り下ろす右フック、返しの左アッパー、両方避ければ、次は前蹴り。それも避けて、ダルスは右腕で蹴り足を抱え込んでやる。
「ぬっ!?」
足を持ったまま一気に後退。大男をうつ伏せに引き倒す。素早く背中に乗って、右腕を絡め取り、肩の関節を極める。
「うっ、ぬうっ……!?」
「動くなよ。折れるぞ」
身の危険を悟った大男は大人しくなった。ポロシャツの男よりも賢い。関節を決めつつ、ダルスは3人目、ユリアンに目をやる。逃げるのか謝るのか、それとも戦うのか確かめたかったのだが、残念ながらユリアンは既にダルスに向かって飛び蹴りを放っている所だった。
ダルスは大男の手を離し、床を転がって飛び蹴りを回避する。ユリアンは大男の上を飛び越えて着地すると、倒れた2人とダルスの間に割り込むように立ちはだかった。ダルスも立ち上がり、ユリアンに相対する。
「ヤブ、ダビトを連れて下がれ」
「だけど兄貴……」
「下がってろ。お前らの敵う相手じゃねえ」
2人が離れたのを確かめて、ユリアンはダルスに話しかけた。
「よくも2人をシメてくれたな。ただじゃすまさねえぞ」
「先に手を出したのはアイツなんだが」
「それはともかく、てめえは何だか怪しいし、気に食わねえ。ブチのめしてたっぷり話を聞かせてもらうぞ」
とりあえず正論を返してみるが、ユリアンは聞く耳を持たない。恐らくメンツの問題になっているのだろう。部下2人を無傷で叩きのめされては黙って帰れない、といったところか。街のチンピラにはよくある思考だ。
膝を叩き込めば黙るか、とダルスが考えていると、ユリアンが動いた。ほんの一息で間合いが詰まった。疾い。目を見開いたダルスの顔に向かって、正拳突きが放たれる。咄嗟にダルスは右手を掲げて、拳を受け止めた。拳が皮膚を打つ高い音が鳴り響く。次は左ハイキック。側頭部を狙っている。ダルスは身を屈めて避ける。
「しゃあっ!」
ダルスが立ち上がった所に合わせて、再度の正拳突き。今度は体を横にずらして避け、そのまま斜め前方に走ってユリアンから距離をとった。ユリアンは追いかけてこない。
前の2人とは動きが違う。警戒するダルスに対して、ユリアンは左手を前に、右手を腰に当てた構えを取り、呼吸を整える。その動きを見て、ダルスは相手に問いかけた。
「……格闘技をやってるのか」
「おうよ。カラテだ」
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