第58話 もくれんの花――千人針
夫の ゆきおさんに 赤紙が とどいた とき
わたしの おなかには 赤ちゃんが いました
ひとり 残される ことに なった わたしは 不安で なりません
でも なみだを 見せたら 出征する ゆきおさんが 心配 します
なにより 軍国の妻は 雄々しく 凛々しく あらねば なりません
ひたすら 武運長久を 祈り ながら 出征の 荷造りを しました
親せきや 近所の人たちが 日章旗に 寄せ書きを してくれました
――千里 行って 千里 もどる
虎の 強さに あやかりたくて 日の丸の 虎に 願を かけました
*
いよいよ 出征の 朝――
真っ青な 春の空に 真っ白な もくれんの 花が 咲いて います
花嫁の 角かくしの ように けがれの ない 純白の 花びら……
万歳の 声に 送られ ゆきおさんは 直立不動で 敬礼 しました
わたしは 泣き顔を 見られたくなくて ものかげから 見送ります
結婚して 1年にも ならない 身を 裂かれる ような 別れ……
*
うそ寒く 感じられる ように なった 家で じっと しては いられません
わたしは 心配してくれる 義母に 頼んで 千人針 づくりを はじめました
知り合いや 近所を まわり 赤い糸で ひと針ずつ 縫って もらう のです
心当たりの 女性たちを まわり おえると 駅前に 立って 呼びかけました
――生きて 平和の 使いたり
そういう 文字が 浮かび あがった ところで やめたかった のですけれど
非国民と 叱られて しまいそう なので つづけて 縫って もらい ました
――死して 護国の 神と なる
同じ布に 5銭硬貨や 10銭硬貨も たくさん 縫いつけました
――死線を 越える
苦戦を 越える
げんかつぎ ですが 縋れる ものになら なんにでも 縋りたかった のです
寅年 生まれの 女性には とくべつに 歳の 数だけ 縫って もらいました
*
こうして 仕上がった 千人針を 戦地の ゆきおさん のもとに 送りました
――千人に 守られて いると 思うと 心強い です
だいぶ 経って から そんな かんたんな 文面の はがきが とどきました
*
夏が過ぎ 秋風が 吹き始める ころ 元気な 男の子が 生まれました
ゆきおさんから 言われて いた とおり 「まさお」と 名づけました
孫の 誕生を よろこんだ 義母が やさしく 世話を してくれました
それは 父母が いない わたしに とって なによりの 救い でした
子どもの 成長は さびしい わが家の ただ ひとつの 希望 でした
*
1歳の 誕生日を 迎えた 写真を 戦地の ゆきおさんに 送りました
けれども なかなか 返事が 来ない ので 不安が 胸を よぎります
毎日 朝に 夕に
*
戦争が 長引くに したがい 銃後の 暮らしも 窮屈に なる ばかり
――撃ちてしやまむ
ぜいたくは敵だ
そんな 勇ましい 標語を あちこちで 見かける ように なりました
隣組は たがいに 目を 光らせ 生活を 監視 しあって います 👀
食べものは カボチャや イモの うすい 雑炊 ばかりに なりました
*
そんなとき 思いがけず ゆきおさんから 軍事郵便が とどき ました
――まさおくん いい子に して いますか
とうさんは まいにち お国の ために たたかって います
かあさんや おばあちゃんの いう ことを よおく きいて
はやく おおきく なって ください ちちより
けれども それを 最後に 音信は ふっつりと 絶えて しまいました
*
銃後でも 竹槍訓練や 防火演習が 始まりました
わたしは まさおを おんぶして 参加 しました
――エイ エイ ヤーッ!
大きな 声で 叫びながら 藁人形の 敵を 竹槍で ついたり
バケツリレーで 屋根の うえの 火を 消そうと するのです
あとから 思えば
*
そして 昭和20年8月15日
戦争が 負けて おわりました
しばらく 経った ころ ゆきおさんの 戦友という人が 訪ねて 来ました
こけた頬に 無精ひげを 生やして みすぼらしい 身なりを して います
その人が とり出したのは 見覚えの ある 千人針と 1枚の 写真
硫黄島 という ところで 敵の 銃弾に たおされた ゆきおさんが
さいごの さいごまで 肌身 はなさず もっていた のだ そうです
何度も 取り出して 見た のでしょう
汚れて しわだらけに なった 写真と
どす黒い 色に 染まった 千人針……
――生きて 平和の 使いたり
その 文字が 虚しく 掠れて います
*
生きて いく ため 義母に まさおを あずけて 行商に 出ました
天国の ゆきおさん 3人家族を どうぞ 見守って いて ください
今年も 庭の もくれんが 純白の 花を ぱらりと 咲かせ ました
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