第25話 凌霄花――満洲逃避行
あっ こわい ゆれている
おいでおいで 呼んでいる
いや こっちへ 来ないで
はやく あっちへ 行って
*
じりじり 照りつけていた 太陽が やわらぎはじめ
そろそろ 秋の風が 拭き出そうか という ある朝
わたしは とつぜん かあちゃんに 起こされました
「はやく 起きな これを しょって 逃げるんだよ」
わけも わからず 眠い 目を こする わたしは
かあちゃん 手縫いの リュックを 背負いました
急いで そとへ 出てみると 近所の ひとたちも
おびえた顔を こわばらせて 集まって いました
――うおおおっ!!!!(ノД`)・゜・。
どこかで 人間ばなれした声が あがり 物々しい 気配が 伝わってきます
弟を おぶいひもで 背負い 持てるだけの 荷物を 持った かあちゃんに
抜けるほど 強く 手を引っ張られながら 開拓村の 集会所に 行きました
集まって来た 村中の ひとたちは みんな ぴりぴりと 殺気だっています
戦局が 悪化し 内地での 召集だけでは 兵隊が 足りなくなり
国策に したがい はるか 異郷の地に わたった ひとたちにも
厚かましくも 召集令状が とどくように なっていた そのころ
四方八方を 敵に 囲まれた 日本の 開拓村を 守っていたのは
女性や 子ども 老人 病人など 弱いもの ばかりだったのです
心もとない 集団で いちか ばちかの 逃避行が 始まりました
*
「さあ もっと 速く 歩くんだよ」
「でも かあちゃん あんよが……」
「そのくらい がまん するんだよ」
「だけど いたくて 歩けない……」
「いたくても なんでも 殺されっちまうより ましだろう」
「えっ 殺されるの? だれに? いや こわいよ かあちゃん」
「しいっ! いいから だまって 歩くんだよ 見つからないように」
*
野をこえ 山をこえ 川をわたり ずんずん ずんずん 歩きました
まだ 4歳になった ばかりの 子どもには 辛い 逃避行 でした
開拓 という 名前のもと 日本人に 土地を 取られた 現地の 農民たちが いまこそ 復讐の ときと 鎌や 鍬を ふりあげて おそいかかって 来ます
通りすがりの 開拓団の 村々は どこも 打ち壊され 廃墟に なっています
開拓村を 出たときの 行列は くずれて 親子3人 だけに なっていました
わずかに 畑に 残っている 野菜の 葉や芯 木の実で 命を つなぐ 日々
弟を おんぶした かあちゃんは とっくに なにも 言わなくなっていました
*
とある村の 広場が 崖の下に 見えます
何十人もの ひとたちが 倒れて います
おとなも 子どもも だれも 動きません
まるで 時間が とまった みたいに……
そのとき ふわっと なにかが ゆれました
わたしは 「きゃあっ!」と さけびながら
かあちゃんの もんぺに しがみつきました
すぐ 目の まえに たれさがっていたもの
それは 血の色をした
*
晩秋の風が 木枯らしに かわる ころ わたしたちは
ようやく
収容所 といっても 破れ
東北部の 極寒を しのぐ 毛布一枚とて ありません
親子3人 生き延びられたのは まさに 奇跡 でした
*
あれから 76年の 歳月が 経ち わたしは 傘寿に
敗戦忌 スーパー銭湯の 浴場から 見える 中庭に
血の 色をした 凌霄花が 涼風に ゆれて います
いや こっちへ 来ないで
はやく あっちへ 行って
戦争を 知らない 世代は 「きれいな 花だね」と
けれど わたしに とっては 集団自決の 開拓村の
全き 沈黙を 思い起こさせる こわい こわい 花
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