第23話 運び出された観音さま――文化財の疎開




 これは、自分自身や家族の暮らしだけで精いっぱいだった戦時下に、

 古来から日本人の心の拠りどころだった文化財を戦禍から守ろうと

 けんめいに知恵をしぼった、有徳のひとたちの埋もれた物語です。

 

      *

 

 戦争末期、日本本土にも空襲の危機が迫って来ると、東京をはじめ、標的とみなされそうな都市の住民たちは、安全と思われる地方へ疎開することになりました。


 小学生はいち早く集団で学童疎開しました。

 大人は親戚や知り合いに縁故疎開しました。


 縁故疎開とは、大切にしてきた家具を防空壕に隠したり、必要な荷物を送ったり背に担いだりして遠くへ移り住むことですから、とても気疲れすることなのです。

 

 ――カタツムリがうらやましいなあ。

   おれたちも家ごと移れたらなあ。

 

 主要な駅はどこも、大きな荷物を背負い幼児の手を引き、暗い表情をした人たちが列車に乗ろうと詰めかけています。みんな気持ちが苛立っているので、ささいなことで争いが生じます。荒々しく刺々しい空気が日本列島全体を覆っていました。

 

      *

 

 みんなが目の前の暮らしに追われ、今日明日の食べ物を思い詰めているときに、一般の人たちには想像もつかない方向から戦局を見守っている人たちがいました。


 先人から伝えられて来た大切なお宝を、空襲からどうお守りしたらいいだろう。

 いつか戦争が終わったとき、民の心の拠りどころが残っていなかったら……。

 

 それで、もっとも危険な首都・東京の博物館ではどこでも、収蔵品の多くを関西の博物館へ疎開させました。疎開先の博物館の地下蔵は預かり品でいっぱいです。


 ところが、さらに戦局が悪化し、関西の都市も危険になって来たので、職員さんたちはみんなで相談し、大事な収蔵品をさらに田舎へ疎開させることにしました。

 

      *

 

 国宝や重要文化財など仏像をお祀りしている寺でも同じ悩みを抱えていました。

 もし米軍のB29から爆弾が落とされたら、大事な仏さまも……。それで、空襲警報が発令されるたび、ご本尊さまを担架におのせして防空壕へ運びこみました。

 

 初夏の朝、由緒ある古寺から白い布に包まれた大きな物体が運び出されました。

 重そうな物体を運ぶ屈強な人夫たちに付き添っているのは数人の尼僧たち。人体の倍はありそうな物体を注意深く運んで行く一行は、郭公の鳴く森に消えました。


 それから間もなく、奥山にひっそりと佇む古寺の小さな堂宇に、一体の観音さまが安置されました。古巣の尼寺から仮屋に移された観音さまは、戦乱の世の苦悩を一身に引き受けようと「大丈夫、大丈夫」ゆったりと微笑んでいらっしゃいます。

 

      *

 

 滝音と蝉の鳴き声ばかりの山寺に、終戦の知らせは少し遅れて伝えられました。

 それから数日して、白布にくるまれた大きな物体がふたたび山道を運ばれて行きます。般若心経を称える尼僧たちの襟元を、ひんやりした秋風が撫でていきます。

 

 各寺院の仏像の多くはこうして難を逃れましたが、有無を言わさぬ金属供出令によって鋳つぶされた重要美術品や、軍艦の造船用に伐り出されたり、松根脂を採るために傷つけられた松の木など、戦争の犠牲を免れ得なかったものもあります。

 

 いま、当たり前のように拝観できる文化財の多くは、こうした心ある先人の手で守られて来たのです。その事実を忘れず、つぎの世代に語り継いでいきましょう。

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