三話:誰にも否定されない世界で君と

「見て見て。月子。月が綺麗だね」


 マンションの屋上で、帆波は月を指差してはしゃぐ。まんまるな満月が、これから旅立とうとする二人を淡く照らしていた。


「……それに対する返答ってなんだっけ」


「ん?何の話?」


「あ、知らない?夏目漱石がIlove youを『月が綺麗ですね』って訳した話」


「あぁ。……ふふ。ごめんね、今のは別にそういう意味じゃなかったんだ。けど、愛しているのは本当だよ。月子が好き。だーい好き」


「私も。愛してるよ」


「知ってるー。うふふ」


「……ああ、思い出した。『死んでも良いわ』だ」


「へぇ。素敵な返し。……月が綺麗だね。月子」


「……死ぬのは正直怖い。けど、君と一緒ならそんな恐怖も乗り越えられるよ」


「うふふ。……ありがとう。月子」


「こっちこそ。どうもありがとう。帆波」


「うふふふ。さぁ、月子。おいで」


 帆波は落下防止用のフェンスによじ登り、月子に手を差し伸べた。手を取り、月子もよじ登り、並んで座って月を見上げる。


「死後の世界ってさ、どんな世界だろうね。私達はどうなるんだろう。幽霊になるのかな」


「幽霊にはならないんじゃないかな」


「ならないかなぁ」


「だって帆波には、未練なんてないでしょう?」


「あー……なるほど。そうだね。私今、すっごくワクワクしてるもん。月子は?未練ある?」


「……ううん」


「嘘だぁ。あるって顔してるよ」


「……うん。ごめん。ちょっとだけ。美夜にも……話すべきだったかなって思って」


「美夜は駄目だよ。あの子は絶対反対するし……きっと、あの子に必死に説得されたら、決心が鈍ってしまう。だから私は海を協力者に選んだ。私の計画には、私の中の僅かな希望を託す相手がどうしても必要だった。だけど、美夜にはその役は荷が重すぎる」


「……そうだよね」


「……」


 会話が途切れ、沈黙が流れる。

 帆波は月を見たまま、大きく息を吐き、呟くように言った。


「そろそろ、逝こうか。これ以上話していたら君の決心が鈍りそう」


「……大丈夫。もうここまで来たんだから、今更戻らない。戻ったって、君は一人でも行くつもりだろう?」


「うん。いくよ。人はいつか必ず死ぬ。だけど私の心にはもう、そのいつかを待てるほどの余裕はない。だからせめて、このクソッタレな世界に一矢報いてやりたい。その一心だけが、私を今日まで生かした。……例え最愛の君が何を言っても、私はもう止まれない。ブレーキはもう、とっくに捨ててしまったから。月子は?」


「……君だけがいなくなった世界か、君しかいない世界か。そんなの、天秤にかけるまでもないよ」


「……うふふ。月子は本当に私が好きね」


「好きだよ。愛している。さっきも言ったけど、君のためなら死に対する恐怖さえ乗り越えられてしまうほどに。君さえいれば、あとは何も要らない」


「やぁん。情熱的なプロポーズ。うふふ」


「受け入れてくれる?私のプロポーズ」


「もちろん。私からプロポーズしたいくらいよ。月子と一緒に最期を迎えられるなら、これ以上の幸せはないわ」


「ふふ。ありがとう。私も同じ気持ち」


「こちらこそありがとう。うふふ。大好きな人にこんなに想われて、私って、幸せ者ね」


「そうだね。世間はきっと、私達を可哀想だと思うかもしれない。だけど、幸せは私達が決める。誰になんと言われようと、私はこの選択を不幸だと思いたくはない。後悔はしないよ」


「……ありがとう。月子」


「……手、絶対に放さないでね」


「大丈夫。離れないようにね、紐を持ってきたんだ。じゃじゃーん」


 帆波は胸ポケットから白い紐を取り出して、自分の小指と、月子の小指をきつく結んだ。そして、結ばれた小指を月子に見せて「これで大丈夫。ずっと一緒」と笑った。


「……赤じゃないんだ」


「あぁ、これね。敢えて白にしたんだ」


「え?なんで?」


「ただの白い糸を、私達自身が塗り替えるの。運命の赤い糸に」


「赤に塗り替える……あぁ、なるほど。そういうことか」


「そう。そういうこと」


 素敵じゃない?と、帆波はうっとりとした顔で言う。常人が見ればきっと、その表情は狂気に満ちていただろう。しかし、もう常人の感覚などとっくに失っていた月子は、その狂った表情に愛おしさを感じ「ロマンチストな帆波らしい」と優しく笑った。


「うふふ。ねぇ、月子」


「なぁに?」


「最期までついて来てくれてありがとう」


「どこまでもついていくよ。愛する君のためなら」


「うふふ。流石の海と並んでと呼ばれていただけあるわね」


「やめてよそれ……」


「いいじゃない。うふふ。私にとっては王子様というより、お姫様だったけどね。うふふ」


「私にとっての君はお姫様であり、王子様でもあったよ」


「うふふ。何よそれ」


「お姫様みたいに可愛いけど、王子様みたいにカッコいいところもあるから。そのギャップが、すごく、好きだった」


「えー?なんで過去形なの?」


「現在進行形だよ。好きだよ。今も昔も、これからも」


「うふふ。ありがとう。私も好きよ」


 見つめ合い、唇を重ねて、少し恥ずかしそうに——幸せそうに笑い合って、二人はまた月の方を向いた。


「さぁ、そろそろ参りますわよ。月子姫」


「……えぇ。参りましょう。帆波姫」


「うふふ。ありがとう、月子。これからも、よろしくね」


「うん。よろしくね」


 帆波は「うふふ」と楽しそうに笑いながら、月子の手を握って背中をゆっくりと後ろに倒す。繋がれた帆波の手に引かれ、月子も一緒に落ちて行った。

 地上に辿り着く途中で意識を失った二人は手を離してしまうが、二人の小指を固く結んだ白い紐が二人を繋ぎ止めた。




 その数時間後に二人は通行人に発見され、病院に運ばれたが、二人はもう、この世に戻ることはなかった。

 二人を結んだ白い紐は、通行人が発見する頃には赤黒く染まっていた。

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