三十四 人質
大内義隆当人の意向はどうであろうと、毛利元就にとって、長男の少輔太郎を山口へ差し向けることは人質以外の何物でもない。
しかも、高橋家に「養女」に出した長女を喪った経験のある元就にとって、酷な要求である。しかし、それは百も承知であろう。
大内家としては、「毛利元就」という駒を、もう手放したくないのだ。そう考えると、安芸への支配を確立したいという意志の顕れやもしれぬ。
いずれにせよ、この発案は、陶興房、あるいは弘中興勝によるものであろう。
大内義隆という「お坊ちゃん」が考えるには、あざとすぎる。
「では戻りて、妻女なり家臣なりと話してみます」
と、正直でありつつも、確答はしないという対応をした。
義隆としても、重要な事柄ゆえ、返答は急がぬと言い、特段、機嫌を損ねることはなかった。そして、では具体的なことは興房と興勝と話してくれと言い残し、場を去った。
あとに残された元就は、言われたとおりに興房と興勝と、尼子経久と大内義隆の和睦の段取りと、塩冶興久への対応を打ち合わせした。
元就としては、いつ頃に息子を寄越すのかと言われるかと思っていたが、その打ち合わせにおいて、興房も興勝も人質の件については一言も言及せず終わった。
そして大内館において、元就は饗応を受け、最後には大内義隆自身に見送られて、吉田郡山への帰途についた。
*
毛利元就は吉田郡山に戻ると、即座に粟屋元秀を出雲へと差し向けた。尼子の宰相・亀井秀綱に対して、大内家との交渉の余地ありとの書状を持たせて。
秀綱からは、早速に礼状があり、秀綱自身は山口へと直接向かっていると、元秀が報告してきた。
「大内と尼子が結ぶ、か……」
これで塩冶興久の叛乱が鎮圧されれば、中国地方の戦乱は、少なくとも形の上では終息する。
尼子家の上洛という因子があるため、その平和は、おそらく、もって数年だろう。
その尼子家の上洛進軍が現実のものとなった場合、やはり大内家としては尼子家との和睦を破り、安芸・東西条をはじめとする尼子家の領域へと攻め入るだろう。
元就の献策のとおりに。
「そうなった場合、どうなるか」
東西条は、今や鏡城は廃され、平賀家の頭崎城が要害として立ちはだかることになるだろう。
「これを陥とせるかどうか」
しかも、安芸西部には、佐東銀山城・安芸武田家が健在である。皮肉なことに、元就自身の活躍によって。
「最悪、反攻されることも、あり得る」
尼子家は天下取り、すなわち上洛を目指すことを公にしていない。つまり、それほどまでに入念かつ細心に準備を重ねており、それが確実になったときにこそ、公にするつもりであろう。
「それだけ、上洛に懸ける思いは、強い」
それを中断させた場合、どれだけの憎悪と攻撃が来るであろうか。
「…………」
城主の間にてひとり、思い悩む元就。
その城主の間に、ひとりの女が入ってきた。
「わが君」
「妙玖」
妙玖は当然ながら、長男の少輔太郎の人質の話を聞いている。元就がそれを保留にしてきたことも。
「太郎について、お悩みですか」
「そうであるとも言えるし、そうでないとも言える」
元就はこれまでの思惟について余すところなく妙玖に語った。隠し事はしない夫婦であるし、したところで露見するのは目に見えている。
後世、謀神とまで呼ばれる元就であるが、妻の妙玖の目と耳は謀れないことを知っていた。
「……以上により、東西条を攻めることを提案し裁可を得たようなものだが、だからこそ、反攻を食らった際の手立てが」
「太郎をお預けなされませ」
妙玖の発言は、直截的であった。
元就が目を剥く。
妙玖は言葉をつづける。
「その時、尼子の反攻があった時こそ、人質として預けた太郎が活きましょう」
「活きる、とは」
「毛利が滅ぼされれば、太郎が再興を」
いきなりの最悪の想定に、元就は度肝を抜いた。
しかし、最悪から始めることに、意義があるらしいと見抜いた元就は、妙玖の次の言葉を待った。
「……その前に、毛利が攻められれば、太郎が大内義隆公なり、あるいは共に修養を積む仲である、陶さまや弘中さまの子弟に、働きかけてくれましょう」
「……うむ」
「何より、太郎を預けていること、それ自体が、毛利の大内への信の証。この信を裏切ることは、復古を目されている義隆公には、にわかに肯えぬこと」
つまり、毛利が攻められれば、大内としては援護に出る流れとなるであろう、と妙玖は唱えていた。
「……そうだな」
これが家臣であれば、その言や良しと褒めるところであろう。
そう思った元就の内心を見透かしたのか、妙玖は目を伏せながら「わが君がそう思われるであろうことを先に言うたまで」と慎みを示した。
そんな妙玖を見て、元就はたまらなくなったが、今はまだ昼日中だ。
「……金言、感謝する。では、疾く各所へ使いなり文なりを出し、なるべく早くに片づけるによって」
「……あい。お待ちしております……閨にて」
そそくさと去る妙玖の後ろ姿に、思わず後を追おうとする元就であったが、かろうじて自制するのであった。
*
毛利元就により、大内家の九州進出の方針と、和睦についての好感触を知った尼子経久は、満を持して、三男である塩冶興久の討伐を始めた。
同時に、宰相である亀井秀綱を呼び、親しく自室へと招じ入れ、密命を出した。
「秀綱」
「は」
「引き続き、山口へと赴き、大内義隆なり陶興房なりと接触を保て。和睦を書状にせずとも、少なくとも山陰へと手を伸ばさないように見張っていてくれれば、それで良い」
「ははっ」
「また、毛利」
経久はそこで言葉を切った。
空いた「間」が、秀綱に緊張を呼ぶ。
「……毛利は、何を企んでいると思う?」
「何を、とは」
「聞くな。大内とのことだ。決まっておろう」
それこそ「何」の内容だろうと秀綱は思ったが、恭しく一礼し、恐れ入ったことを示した。
「……先の高橋攻めにあたって、大内と挟み撃ちに出ておる。ま、これは、尼子にも負い目や引け目があることだし、見逃した」
「…………」
「こたびの興久のことも、まあ、わしからの頼みであるし、大内に働きかけてもろうた……が」
経久は手にした鉄扇を玩ぶ。頭が回り出している証拠である。
「……が、大内の小倅、何やら毛利に吹き込んだか……? あるいは、老獪な陶興房あたりか」
「……老獪ということならば、経久さまもいい勝負で」
「言いよるわ。面白いが、今はそういう話ではないわ」
経久は声を立てずに笑い、そのあと真顔になった。
「毛利は大内と結ぶ」
「それは」
今までも黙認してきたことであろうと秀綱は言った。
だが経久はそういうことではないと否定した。
「もっと鮮明にだ。だが、尼子としても手を拱いているわけにもいかぬ」
「……人質でも、取りますか」
「たわけ」
高橋攻めにて、人質の扱いで不手際を示した尼子が、毛利に対してそうおいそれと人質を求められるか。
経久は言外にそう言っていた。
「……では、いかがなさいます」
「ふむ……」
沈思する経久。
そうこうするうちに、近侍が、経久の嫡孫・尼子詮久の登城を告げる。
「来たか」
経久は、この戦いにおいて、敢えて詮久を将として興久を討つつもりでいた。
主君たる尼子詮久が叛臣たる塩冶興久を討伐するという形を採りたかったのだ。
すなわち、この戦い、飽くまでも、尼子の相剋にあらず、と。
だがそれは、経久の心の弱さの顕れではないかと、秀綱は思った。
「そうじゃ」
秀綱の内心の動きを知らず、経久は鉄扇で掌を打った。
「こたびの戦、終わりしのちは、毛利を尼子の一門として迎え入れよう」
「なんと」
しかし、毛利元就は正室・妙玖以外に側室を持つつもりはなく、嫡男である少輔太郎もまた若年であり、妻女を娶る年齢ではない。
「ちがう、ちがう」
経久は鉄扇で秀綱を扇いだ。上機嫌の証拠である。
「かの毛利元就、わが孫、詮久と義兄弟の契りを結ばせるのじゃ」
これなら、塩冶興久を喪ったのちの尼子家の勢力を補って余りある。
「わしも余命少ない身。尼子のこれからは、詮久の双肩にかかっておる。そういう意味でも、詮久の義兄弟にしておくに、如くはなし」
「仮初にもお命について、左様なお言葉は……」
「世辞は良い……いや、済まぬ、衷心からの言葉、痛み入るぞ」
経久は秀綱の肩に手を置いて立ち上がり、孫の詮久を迎えに行った。
あとに残された秀綱は歎息した。
「……義兄弟。つまりは、詮久さまが毛利元就の弟、とな」
元就の方が詮久より年齢が十七、八くらい上である。つまり元就が兄、詮久が弟となる。
「弟……その元就の実弟を喪わせたのは、尼子というのをお忘れか、経久さま……」
しかもその謀略の実働は、秀綱が担った。
尼子経久にとっては、なるほど、数多の謀略のひとつに過ぎないかもしれない。
だが、亀井秀綱にとっては、後々、毛利元就という「怪物」を生むことになった謀略である。
そういえば、あの元就の弟の名。
何と言ったか……。
たしか。
「相合……」
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