二十五 落日
一方の、毛利元就の状況はどうだったのか。
実は、大内義興は更なる安芸侵攻を企て出兵し、佐東銀山城を囲んでいたのだ。
「……やれやれ、難儀なことだ」
今度は素直に熊谷信直と香川光景から救援要請があり、尼子家重臣・亀井秀綱からも「今は備後で……」と頼まれ、元就は出陣することにした。
出陣にあたり、留守居を妻である妙玖に託し、また、高橋家にいる娘の対応も一任することを告げた。
「無理難題を言ってきたら、私が帰ってからと先延ばししてくれ。とにかく、あの子を……」
「承知しております」
妙玖は恭しく一礼して、夫を送り出した。
妙玖が夫に成り代わり、毛利家を切り盛りし、しばらく経った。
吉川家の娘であり、当時まだ多治比元就といって、毛利家を継ぐ前の、分家の当主であった毛利元就に嫁いでから、もう何年も経つ。
戦に赴く夫の代わりを務めたことは、幾度と知れず、もう慣れた観がある妙玖である。
しかし、高橋家への人質として預けられたままになっている長女の返還交渉については、難航した。難航したというべきであろうが、何かがちがう。手ごたえがちがう。
「何というべきか……悪意を以て拒否されているのとはちがう……もっとこう……何か……」
こういうとき、夫である元就がいれば、その才智で正解を導き出すことが可能であろうが、さすがに自分には無理だ。
同じく留守居役であり、交渉を担った粟屋元秀に聞いてみたところ、元就に文を書いてみてはどうかと言われた。
「……実は、従軍している志道どのより、佐東銀山は佐東銀山で、いろいろと錯綜していて、御館さまも気をもんでいる様子」
「いろいろ、とは」
気色ばむ妙玖に、元秀は、いやいやそういうのではと答える。
「大内が、退いてしまったのでござる」
「大内が、退いた?」
「だから困っているのでござる。ある日、不意に帰っていった……そんなところでござる」
*
忽然と消えてしまった大内軍について、元就ら尼子派の国人たちは、詭計ではないかと勘繰っていた。
だがどうも様子がおかしい。
反転して逆撃を狙っているわけでもなさそうだ。
そうこうするうちに、ひと月、ふた月と過ぎ、とうとう、「単に逃げたのではないか」という意見が軍議の場で出始めていた。
軍議の場を仕切っているのは、自然と毛利元就になっていた。これまでの戦績と、何より、先年の佐東銀山城の戦いを引き分けに持っていったのが大きい。
「逃げた、と申している者がいる」
元就は、その大きな地声で話す。平生と変わらぬ調子だ。だが内心には、早く、吉田郡山に戻って、高橋家との交渉に携わりたいという想いでいっぱいだ。
「これについて、安芸武田の光和どのは、どう思うか」
武田光和としては、父の仇である元就と同席など、許されるものではないが、さすがに前回の大内家の攻勢を退けた相手とあっては、粗略には対応できない。
「……首肯する。大内にしては粘りが無いし、引っ掛けるにしても、唐突過ぎる」
大内義興は執念深く攻め寄せるのを持ち味としている。また、陶興房が策を弄するなら、もうちょっとうまい時機を狙ってくるだろう。
「だが、それがない」
光和は言うだけ言うと、また黙りこくった。
元就に対する義理は果たした、と言わんばかりの沈黙である。
元就としては、特にこだわることなく、光和に謝辞を述べ、自身もまた同様の見解であることを述べた。
「大内に何が起きているか? これはもう、尼子に調べてもらうほかあるまい。その上で、撤収すべきかどうか、判断を仰ごう」
元就は帰心矢の如しであるが、さすがにここまで来て、しかも大内の動きに変異が目立つ以上、帰ることができない。大内の反転攻勢は無いにしても、この「逃げ」は何なのか追究しておかねば、後が危ないと思う。
元就が尼子経久に文を出すのと同時に、妙玖からの書状が届く。
「これは……」
高橋家の妙に白けた対応。
何というか、あっちへ行けとばかりの、使いへの扱い。
「ただならぬことが起きている」
それは、大内家に起きていることと似通ったものがあるのでは、と元就は予感めいた感想を抱いた。
*
出雲。
月山富田城。
毛利元就からの書状を一読した亀井秀綱は、急ぎ、城主の間にいる主君・尼子経久の下へと馳せ参じた。
「なんじゃ、秀綱」
「……これを」
水魚の交わりである経久と秀綱には、それだけで変事であることが伝わった。
「…………」
経久は、秀綱から受け取った書状を具に見て、それから歎息した。
「秀綱」
「は」
「急ぎ、大内へと使いに行ってもらいたい」
「承知。して、何と」
大内へ何を伝えるのか。
この折りに。
秀綱の問いに、経久はあらぬ方を向き、沈思し、やがて言った。
「……和睦を申し込んでみろ」
「和睦?」
「別に成立しなくとも良い。大内の反応が見たい」
この時期、尼子は、備後の大内方、多賀山家の蔀山城を包囲している。陥落は時間の問題と思われていた。
それに加えて、安芸の大内義興自身が率いる軍の撤退である。
世間は尼子有利、大内不利と見ていた。
和睦を申し込めば、大内は乗ってくるかもしれない。
秀綱としてはそう分析していたが、経久の見解はちがった。
「乗らぬ。わしの読みが合っていれば……不幸にも、な」
「なにゆえ」
「本来は、安芸で勝ち、備後の敗色を塗り替えるつもりだったのだろうが、それを諦める……らしくない」
天下人と称していた大内義興らしからぬ撤退である、と言いたいのだ。
加えて、一の家臣である陶興房も、その義興について、山口に向かっていると聞く。
「そんな無駄なことをして、どうする。義興自身に何か思惑があったにせよ、陶興房に一軍を与えて安芸に残すか、あるいは備後へと派するべきであろう……先年の、細沢山のように」
大永七年(一五二七年)、尼子経久自身が備後へと出陣するも、彼の地の細沢山にて、陶興房と激突し、敗北している。
「義興に何かあり、それには陶興房が随行し、そして……嫡子の義隆も随行している」
「……まさか」
大内家の安芸出兵は、たしか義興が主将であり、嫡子の義隆は副将として参陣していた。
その義隆も、山口へ共に帰っているのだ。
秀綱の脳裏に、経久の考えていることが浮かんだ。
「……死病?」
「かつて、このわしも随身したが、上洛し、戦い、天下人とまでなった、まこと一代の傑物であった……」
秀綱に使いに行けと言っておきながら、経久にとっては、それはもう確定事項のように思われていた。
少なくとも、秀綱にとっては――年来の謀臣にとっては、希代の謀将たる主君の心中が、そう思えた。
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