二十一 塩冶

 毛利元就が、大内義隆(事実上は陶興房)の率いる大内軍別動隊を退けていた頃。

 出雲へ向けて、牛尾幸清と亀井秀綱が悄然として、本格的に帰国の途に着いた。

 元就が夜襲による勝利をもぎ取った結果、先に敗北を喫した尼子軍は、大内軍と痛み分けのような感じで、安芸を撤収するかたちとなった。

 だがそれでも、幸清は素直に喜べない。というか、ぬか喜びしたところで、賢明なる主・尼子経久は必ずや真実を知り、そして裁定を下すだろう……敗北にまみれた将に対し。

 それは亀井秀綱も同様で、彼はむしろ尼子経久の意向を汲むことに必死だったが、それがかなわず、それどころか毛利元就にいいようにされた挙句の撤収である。主の機嫌がどうあろうと、己を責める気持ちでいっぱいであった。


 そうこうするうちに出雲へと至り、懐かしの月山富田城へと到着した。

 兵らを解散し、幸清と秀綱は、打ち揃って城主の間へと向かった。


「いやいや、ご苦労でおざった」


 しかし迎え入れたのは主君・尼子経久ではなく、その三男の塩冶興久えんやおきひさであった。

 塩冶興久。

 尼子経久の三男として生まれ、長じて大内義興から偏諱を賜り、「興久」と名乗る。そして出雲の名族・塩冶へ養子に入り、その塩冶氏の勢力を尼子側へと取り込むべく腐心していた。


「いや、親父はまだ伯耆よ。叔父御も、甥御もじゃ。で、わしは、まだまだ留守居じゃ」


 この頃、尼子経久の副将である尼子久幸、ならびに尼子経久の後継者たる嫡孫・詮久あきひさも伯耆に入っており、尼子の本拠地たる出雲は、興久が統括していた。

 経久の嫡男・政久亡き後、政久の兄弟である興久が尼子を、という目もあった。

 次男である国久は、どちらかというと久幸の後継者として、兵権をもって尼子を支える向きがあり、まつりごとには疎い。

 だが、興久は単身で塩谷一族に入り込み、その一族の力をものの見事に手中にした政治手腕があった。

 それなら……という話であるが、しかし、政久の子、詮久がいた。

 のちの尼子晴久である詮久は、その麒麟児ぶりを遺憾なく発揮し、早くも経久から跡取りとして認められるようになった。


「詮久には、国久の娘を嫁がせる」


 それが尼子経久の、今後の尼子家の在り方を示唆していた。

 尼子の正嫡は、亡き嫡子たる政久の子、詮久に。

 その詮久には、次子たる国久の娘を正室に。

 尼子は、これで盤石。

 相剋の余地など、ありはしない。

 そういうことだと、示唆されていた。

 誰もがそう、納得していた。


「どうされた? さあ、ゆるりと休まれよ。暫くは登城せんでも良いぞ」


 骨休めじゃ、と笑う興久のその様は、若き日の経久によく似ていた。

 気前よく振る舞い、よく笑う。

 天性無欲正直の人。

 そううたわれた、あの尼子経久もそうだった。

 そう言えば経久さまは最近笑わなくなったなと亀井秀綱は振り返りつつ、それではと城主の間を辞そうとする牛尾幸清を追いかけるように、自らもまた辞するのであった。



「慮外者めが!」


 尼子経久の出雲帰国の一日目は、その罵声から始まった。

 折からの安芸における「引き分け」に対し、大いに機嫌を悪くしていた経久であるが、出雲に帰ってみると、その「引き分け」の当事者である牛尾幸清と亀井秀綱が「許し」を得ているという扱いに、ついに怒気を発した。

 その「許し」を与えた塩谷興久を呼びつけ、家臣一同が揃っている中で、前述の罵声を浴びせ付けたのである。


「しかし父上」


 興久もさるもので、父の虫の居所の悪さは承知らしく、特に怒るでもなく反論に出た。

 だが、その反論も、発する前に封じられる。


「誰が父上じゃ。そなたは臣下ぞ。塩冶ぞ。わきまえよ」


「…………」


 こうなるともう、経久は聞く耳を持たないということを、興久は知っていた。なまじ親子なだけに、経久は意固地になるきらいがあることを、興久はこれまでの人生で悟っていた。

 経久は経久で言い分がある。ここで興久の勝手なやり様を黙認するようでは、老い先短い自分が逝ったあと、若い詮久では、興久をぎょせなくなるやもしれぬという危惧がある。尼子の正嫡は、あくまで詮久。脇を支えるは、次子・国久。

 今ここで興久を掣肘せいちゅうせねば、尼子の中で、相剋が生じる。

 そのためにも……興久は飽くまで、尼子の正嫡を支えていれば良い。


「……申し訳ござりませぬ」


 興久には、その経久の頭の中が透けて見えた。だからこそ分別のある彼は、頭を下げた。


「ふん、まあ、やってしまったことは仕様がない。牛尾、亀井への許しは追認する。さあ、ね。暫く、そなたの顔は、見とうないわ!」


「……かしこまりました」


 こうして興久は、尼子家の興隆を懸けた伯耆遠征を下支えするという功績をに捨てられ、あまつさえ、蟄居ちっきょにも等しい扱いを受ける羽目になった。

 後日、亀井秀綱のしにより、尼子家内の扱いは旧に復したものの、この経久の対応は、興久の心の中に、おりのように溜まり始めた。


 ……なぜ、自分は尼子なのに、かような扱いを受けるのか、と。



 尼子家に良からぬ兆候が見え始めた頃。

 安芸。

 毛利元就は、なし崩し的に亀井秀綱に黙認された、安芸における裁量と取次の権限を駆使し、己の勢力の伸長を図っていた。

 そうなると手始めに、というか必ずややり遂げねばならない、とまで元就に思わせる命題があった。

 石見の高橋家である。

 石見・高橋家は安芸にまでその勢力圏を広げており、元就の兄・毛利興元が、尼子家の安芸侵攻に対抗して安芸国人一揆を形成した際に、その傘連判状に名を連ねている。その関係で、興元の正室に、高橋家からむすめを迎えた。

 そして興元と彼女の間に、男の子が生まれた。

 毛利幸松丸である。

 だが幸松丸二歳のとき、興元は酒毒が祟って死去する。後に残された幸松丸を支え、当時破竹の勢いで安芸を荒らし回っていた安芸武田家を撃破したのが、元就である。

 ただ、興元死去の際、当然ながらという勢いで、石見の高橋家は、毛利家へ介入を始める。幸松丸の祖父という立場で、当時の高橋家の当主・高橋久光は毛利家を専横した。

 この専横に苦慮した元就は、事実上の毛利家当主である己の子女を差し出すことを決意。断腸の思いで、長女を高橋家へと送り出した。


「あれから――数年」


 毛利は、元就は強くなった。兵も、政も。


「時は今」


 元就は、高橋家に対してへりくだることをやめると決めた。


「向後、毛利は高橋の下風には立たん」


 娘を取り戻す。それだけではない。今後、毛利は独自の道を進む。それは大内寄りであったり、尼子側であったりすることもある。だが、その際に、何者かの介入を、何某かの無理強いを、通すわけにはいかない。

 飽くまで毛利は毛利のために、その道を採るのだ。

 そうでないと、また――相合元綱のような悲劇を生む。


「粟屋元秀を尼子へ使いに出せ。高橋家へのやり取り、毛利の裁量に任せよと」


 佐東銀山城の戦いで勝利をもぎ取ったのは、この時のため。

 そう言わんばかりに、元就は、粟屋元秀が戻るのを待たずに、高橋家への画策を開始するのだった。



 一方。

 尼子家。

 毛利元就からの使い――粟屋元秀と相対したのは、亀井秀綱である。

 秀綱は、先述の塩冶興久の「許し」の有り無しに関わらず、変わらず尼子経久からの信頼を得ていた。実は、経久が興久の勝手な「許し」を知ったのは、秀綱からの書状による。秀綱としては、興久の器量を評価しており、それを経久にも共有してほしかったのだが、それが裏目に出て、頭を抱えていたところだった。

 さすがに家臣一同の面前での面罵には、秀綱も一命を賭して覆すように経久に迫ったが、それでも親子の確執は消えず、それどころかむしろ、興久は秀綱の書状による「讒言ざんげん」を知ったらしく、隔意のある扱いを受けるようになっていた。


「このままでは、いかぬ」


 そういう煩悶を抱えた状態の秀綱は、毛利からの高橋家に対する路線変更について、正直どうでもいいという思いしかなかった。

 どちらにしろ、毛利家には、佐東銀山城の戦いでの「借り」を返さねばならない。それは尼子経久も認めている。


「良いのではないか」


 そう答えた秀綱に対し、元秀は、場合によっては高橋家以外の他家との間について、いろいろとあると思うが、それも毛利に任せてもらえるか、と聞いた。


「仕方なかろう。尼子も手元不如意であるし、おいそれと兵を出せぬのは事実。そこを念頭に置いていただけるのなら、構わぬ」


 ありがたき幸せ、と元秀は何度も頭を下げ、秀綱にもう良いと言われるまで、それを止めなかった。

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