三 兄弟
「多治比どのは来ぬのか?」
毛利幸松丸が緊張のあまり、躰を固くして頭を下げるのを見ながら、尼子経久は聞いた。
「左様」
幸松丸が顔を赤くして口ごもったため、粟屋元秀が平にご容赦をと言ってから答えた。
「ふむ……」
経久は顎を撫でながら、幸松丸の顔を眺める。その目が、一瞬だが
だが下を向く姿勢になっている幸松丸と元秀にそれが気づけるわけもなく、ただただ、経久の次なる反応を待つばかりである。
「よう来られた! いやいや、そう固くなるでない! ささ、この爺が戦の手ほどきなど、してやろうのう」
経久は破顔した。
そしてそのまま、顔を上げた幸松丸のそばに来ると、よい子じゃよい子じゃよう来たのと頭を撫でる。
「なるほど! たしかに大内が九州から返して来たら、そりゃ多治比どのに抑えるなり、物申してもらったほうが、ええのう!
思ったよりも上機嫌の反応に、ほっと胸をなでおろす元秀だったが、亀井秀綱は、
「幸松丸どのは、わずか九歳」
それは承知である。だが、経久は先年、期待をかけた嫡男の政久を喪っている。花実相の大将と
その経久が、敢えて相好を崩して幸松丸の相手をしている。
そこに、何か得体のしれない底知れなさを感じ、亀井秀綱は
*
一方の多治比元就は、今後の毛利の体制を構想し、実現に向けて整えていくことに夢中だった。
将来的には、幸松丸が元服し、真の意味で当主になってもらう。その当主を、政治の面では元就が、軍事の面では、元就の弟の
「当主を支える体制の欠如が、有田中井手の戦いの前の毛利の危機を招いた」
それが、元就があの戦いをめぐる一連の動きから得た結論である。
先代にして元就の兄である毛利興元が急死した時、当時二歳である幸松丸を「支える」と称して、幸松丸の外祖父、すなわち興元の妻の高橋氏の父である、石見の勢威ある国人・高橋久光が出張って来て、毛利の体制を大きく揺るがした。
高橋久光と多治比元就、この二名による幸松丸の「後見」が決まったものの、当然ながら実力といい、年齢といい、高橋久光の発言力の方が強く、早い話が毛利家は牛耳られた。
ただ、有田中井手の戦いに元就が勝利し、かつ、久光がその後戦死するという奇禍があり、毛利家は「元就の」後見により、幸松丸を当主として支えるという体制に落ち着いた。
「しかしこれは偶然の賜物である」
五倍もの敵を相手に勝利するなど、運の良さに恵まれたことに過ぎぬと己を戒める元就であり、かつ、高橋久光の戦死など、それこそ運以外の何物でもない。
「現状、この多治比元就が支えるという体制、これもまた脆弱である」
宿老の
その不名誉な
隠居した父が亡くなった時、元就はその隠居城である多治比猿掛城を譲られた。が、その後見となった井上という家臣が城を乗っ取り、元就を城外へ放逐したのだ。
元就は文字通り物乞いをして生活する破目になり、領民たちにまで乞食若殿乞食若殿と軽侮されるまでに堕ちた。
井上の死により、地獄の生活は終わりを告げた。だが、このことは元就の心に大きな影を落とした。
「当り前と思っていたことも、それはあまりにもあっさりと当り前でなくなる」
後に謀神とまで称えられる男は、そのことを終生忘れず、常に「そうなったとき」を恐れ備えるように努めた。
*
「元綱をこれへ」
元就の命により、相合元綱は吉田郡山城に出仕した。
今義経。
それが相合元綱の綽名である。勇武に優れ、有田中井手の戦いでも奮闘し、その武名を高めた男である。
兄である毛利興元、多治比元就とちがい、元綱は、毛利弘元の側室・相合大方の子であるため、その兄たちより一歩譲る地位にあった。
だが、元就と元綱は仲が良く、この二人で幸松丸を支えるという構想は、現実性を帯び、確かなものと思われた。
このときは。
「元綱、参じました」
吉田郡山城・城主の間。
多治比元就は、馳せ参じた相合元綱を迎え、手を取らんばかりに近くに寄って、内緒話である、と言った。
だが元就の地声は大きく、とてもではないが内緒とはいえない。元綱はそのことに気づきつつも、内緒という名の公然の話がしたいのだと悟り、苦笑しつつ、兄の言葉を待った。
「早速ではあるが、幸松丸さまを支える両翼のうち、片翼を担ってもらいたい」
元より、毛利を支えるという気持ちはあるが、それはどういう意味かと元綱が問うと、元就は破顔した。
「それは承知。だが、今後は、私に次ぐ扱いとする。具体的には、兵のことは元綱に任せたい」
「いやしかし兄上、兵のことと申しても、兄上を差し置いて兵をなど……」
「いいんだ。さすがに危急存亡の秋となったら、私を招集すれば良い。また、平時においても、役割を用意している」
元就は、今後は内政や家臣、国人たちの調整に回りたいと言い、一方で元綱には、取次(外交)を任せたいと語った。
「兵と取次は表裏一体。同じ人間に任せた方が、都合がいい」
「取次……しかし、こう言ってはなんですが、側室の子であるおれには、ちと荷が重すぎるのでは」
「ふむ」
元就は片手に顎を乗せ、少し考えた。
「……では、大内家については、私が受け持とう。これなら文句はあるまい」
「……ということは、尼子家が相手か」
それはそれで、またちがった意味で重荷であった。あの雲州の狼を相手にしなければならないかと思うと、ため息をつきたくなる。
「そんな顔するな、元綱。今後しばらく毛利は、尼子家に重きを置く。現に、幸松丸さまは尼子経久どのに従って、鏡城に居るし」
そして大内家に対しては、元就自身が相手をすれば、少なくとも風当たりは弱まるだろう。有田中井手の戦いは、大内義興が周防安芸を不在にしなければ起こらなかった戦だ。それを鎮圧した元就が「まあまあ」と言えば、大内家としても、強くは出られまい。
「だから、こたびの鏡城攻め、私は行かなかったのだ」
もし、多治比元就が鏡城を攻めたとなれば、大内家は由々しき事態と断じ、それこそ九州から反転して攻勢に出るだろう。なぜなら、有田中井手の戦いの捷報に接した大内義興は「多治比のこと、神妙」と感状を出している。そこまでした相手が――飼い犬が手を噛んできたら、それこそ、ただでは済むまい。
「大内と尼子。この双方の均衡を取ってこそ、毛利は――安芸は安定を図ることができる」
いずれかへの偏重は、やがて毛利を滅ぼすことになろう。そう、元就は元綱に説いた。
「……で、現状、尼子方についているから、元綱の方は大手を振って、尼子経久どのと書状をやり取りすればよい。私は、大内家に対して、知らぬ存ぜぬを貫き通す」
最悪、腹を切る。元就はそこまで言った。
辛い方や苦しい方はやるから、元綱の方は外交軍事に精を出し、毛利を支えて欲しいという……元就の兄として、あるいは家を支える先達としての気遣いだった。
ここまでされては、相合元綱に否やは無かった。
「承知つかまつりました」
「おお」
「しかし」
「何だ」
「逆に……尼子との揉め事が出来した暁には、おれが詰め腹を切ることになるのかな」
元綱は、わざとらしく腹を撫でた。
おどけた顔をしており、元綱一流の冗談と知れた。
「今、幸松丸さまをいわば人質にしてまで出陣しているのに、そんなことあるか」
「そうだな、兄上」
元就と元綱は哄笑した。
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