壁がある。人と猫。

@maiko-zaka

壁がある。人と猫。

 おばあちゃんは、「えんがわ」にすわるのが好きだった。

 空を見たり、土を見たりしてた。

 お母さんは「おばあちゃん、なにしてるのかな?」と言ってたけど、なんでわからないんだろう、とおもった。

 すわってるのに。

 ぼくはそれを見るのが好きだった。

 ぼくが見ていると、おばあちゃんはぼくをよんで、いろんなはなしをしてくれた。


 あるとき、へいの上にねこがいた。

 おばあちゃんは、そのねこをへんななまえでよんだ。

 ぼくはふしぎだったから、おばあちゃんにきいた。

「なんでそんななまえなの?」


**********


 母が、階段から落ちて足を折った。

 母は父が2年前に他界してから、ずっとひとりで暮らしていた。

 母親には悪いが、骨折程度で済んでよかったし、かたくなに「私と一緒に住まなくていいから」と言っていた母親もさすがに拒むことはなくなった。

 まだ入院中だが、母親と暮らす良いきっかけをもらったことになる。


 引っ越し、職場も変えた。

 これに対して妻は文句を言わなかった。


「実家に引っ越し?」

「どう思う?」


「めっちゃいいわ」

「ほんと?結構、大変だと思うけど」


「大丈夫よー、なんとかなるわ。むしろちょうどいいわよ。あそこの公園の子たち、明日香に意地悪するのよ。ママたちもちょっとアレな人たちだったし。忍くんの実家でしょ?家賃ゼロとか最高」


 こう話したのが先週だ。

 明るいのはいいが、妻の言葉には遠慮がない。


「保育所か幼稚園は探す?」

「んー、まぁそれもそうだけど、まずは私が仕事探さないとね。お義母さんの方が大変だから、そっちが落ち着いてからだけどね」

「そうだな。ありがとう。じゃあ、とりあえず仕事行ってくる」

「はい、行ってらっしゃい。明日香、パパ行くよ」


「はーい」

 4歳の娘が玄関に来た。

「パパ、いってらっしゃい」


**********


 ここ最近の筋トレブームの影響か、フィットネストレーナーとして就職先には困らなかった。


 新たな住居から駅まで歩いて5分。

 電車に乗って15分。

 笹塚の駅で電車を降りて、歩いて5分で仕事場に着く。


 大きなビルのワンフロアがジムになっている。

 マシン、フリーウェイト、スタジオ、シャワールームなど、ひととおり揃っている。

 利用者は老若男女さまざまで、初級者から上級者までいる。


**********

 再就職から1週間。

 この店舗での業務にも大方慣れてきた。

 元々同じ業界で仕事をしていたので、新しく覚えることは少ないが、利用者への対応はいつまで経っても疲れる。


(『好きなことを仕事にするな』っていうのはこういうことなのかもなぁ)


 昼休み。

 ジムで着ていたウェアの上から1枚羽織って、外に出る。

 ジムが入るビルから1分も歩くと、コンビニがある。

 そこに入り、サラダチキン、おにぎり2個、サラダを買って出た。


 ビルには公開空地があり、ベンチがいくつか置かれている。

 その中のひとつに腰を下ろした。

 ガサガサとレジ袋を鳴らしていると、にゃあ、と聞こえた。


(猫か)


 どこで鳴いているのだろう。

 見渡すが、猫の姿はない。


(そうか、そう簡単に姿は見せないんだな)

 なぜかニヤついてしまった。

 サラダチキンを手に取り、ひとくちかじる。

 また、にゃあ、と聞こえた。

 遠くではない。


 にゃあ。


 自分が座るベンチの下を覗くと、そこにいた。

 黒と白のブチ猫だ。

 黒の方がやや多い。


「おや、また来たんだね、その子」

 顔を上げると、清掃員の服を着た中年の女性が立っていた。


「また?ずっといるわけじゃないんですか?」

「最近見るようになった子だからね。いたりいなかったりよ」

「へー」


 このビルの清掃員だろうか。

「この子、去勢終わってるし、トイレの場所もわかってるから、ご飯あげるのは大丈夫だよ。置き餌じゃなけりゃね」

「そうなんですか」

「食べるかどうかはわからないけどね」


 にやりと笑って、女性は立ち去った。

 再び、ベンチに座ったまま、下をのぞき込む。

 そっぽを向いていたが、こちらを見て、またそっぽを向いた。

 いるのはわかっているが、あえて相手にしない。


 新入りのあいさつを待っている先輩のようにも見える。

 サラダチキンを8割ほど食べ、残りを猫に差し出してみた。

 猫は動かない。


(ま、そうだろうな)


 脳裏に、缶詰で猫を呼ぶ祖母の姿が浮かぶ。

(ばあちゃん、どうやって手懐けてたんだろ)


 祖母は、可愛らしい猫を、妙な名前で呼んでいた。

(そうだった、変な名前だったな)


 再び、猫にサラダチキンの残りを差し出してみた。

「ゴスケー、食うかー?」


**********


 ゴスケとの出会いから1ヶ月経った。

 ゴスケは昼飯時以外、見かけることはなかった。

 彼の好物はノンオイルのシーチキン缶。

 高級品だが一度食べさせたら、以降はこれより安いものは口をつけなくなったので、仕方なく毎日買っている。


 俺の昼休みは、ゴスケとのランチミーティングだった。


「うちのカミさんがさー、税理士事務所の就職決まったんだよ。早いよなぁ」

 ゴスケがベンチにのぼって腹を見せてきた。


「やっぱ俺も手堅い資格とっときゃよかったなー」

 腹を撫でる。


「ゴスケはどう思う?」

 にゃあ。


**********


 別店舗への転勤が決まって1か月。

 今日が笹塚店での最後の出勤だった。

 特に何事もなく終わった。


 着替えを済ませ、近くのインドカレー店に入った。

 遅番の勤務の時は、決まってここで夕食を食べて帰った。

 馴染みの店と言っていいだろう。


 この店に来ることもなくなる。

 寂しくなる。

 ここのマンゴーラッシーは絶品だった。


 転勤先は初台。この笹塚から電車で数分だ。

 ゴスケに会うのも、今日が最後だったのかもしれない。

 そんな寂しさから、店主にいろいろと打ち明けた。

「それ転勤って言うのかよ」と言っていた店主だが、彼が教えてくれたインド映画のタイトルが、心に残った。


「きっとうまくいく」

(そうだよな。きっと、うまくいくよな。ゴスケと会えなくても)


**********


 新しい店舗での勤務が始まった。

 別段、覚えることが増えるわけじゃない。


 あっという間に昼休憩の時間になった。

 別に、大変じゃない。

 ただ、毎日昼飯を一緒に食べた仲間が恋しい。


**********


 昼休みの1時間をまるまる使って、笹塚店のあるビルまで足を運んだ。

 ゴスケとのランチミーティングが恋しくて、仕方なかった。


 ビルの正面のコンビニでゴスケが好きなノンオイルシーチキンを買った。

 もしかしたら、この姿も見られているかもしれない。

 見てくれているかもしれない。


 いつも座っていた、あのベンチの前に立つ。

 はやる気持ちを抑えて、缶を開ける。


「ゴスケー、いるかー?」

 猫の姿はないし、声も聞こえない。


「ゴスケー、いないのかー?」

 ふと後ろに人の気配があって、振り返る。

 中年男性が立っていた。


 黒いキャップ、黒いセーターに薄いブルーのジーンズにスニーカー。

 パチンコ店に行くためだけに出てきたような服装だ。

 ジッとこちらを見ている。


 何も言わずに、ジッと。

「あ、すみません」


 絡まれても嫌なので、とりあえず謝った。

 男は何も言わず、ジッと見ている。

 男を気にしながら、シーチキン缶を片手に、周りを見渡す。


「あぁぁぇわわさん」

 男が急に声を出した。驚いたが、こちらから話しかける用事もない。


 少し、わざとらしくないように距離を取る。

 男が再び声を出した。


「はぁしぇがわぁぁしゃん」

(!?長谷川さんって言ったのか?名前を、呼ばれた……なんで俺の名前を?知り合い?)


 改めて男の顔を見た。

 鼻の両脇から、長くまっすぐで固そうなひげが、左右に3本ずつ伸びていた。


「にーんげんにぃ、なぁれましたっ」

「ゴスケ?」


 目の前の、中年の男が、ゴスケ。

 突きつけられた異常な事態を、なぜかすんなり受け入れることができた。


「そぉぉれ」

中年の男のゴスケが、俺の手を指さして言う。


「え?これ?」

「そぉぉれ、くぅぅださい」

「あー!ごめん!食べるのね!じゃ、じゃあ食おうか」


**********


 翌日の昼休み、笹塚店の前のベンチに行った。

 いつものシーチキン缶を持って。

「ゴスケー、いるかー?」


 にゃあ。

 声の方を向くと、白と黒のブチ猫がいた。

(よかった。猫だ)


***********


 昼食後、ビルの前のベンチで空を見上げる。

 何度か通ってわかったことだが、ゴスケが人間の姿で出てくるのは決まって水曜日だった。

 そして今日は中年の男性だ。

 体は中年男性だが、食べる量は猫のそれだった。


 ゴスケは満腹になって気持ちいいのか、今は嬉しそうに手の甲をペロペロと舐めている。

「うわー、すげえきたねえなー」


 ビィィィーッ!

 クラクションが鳴り、ゴスケが弾かれたようにそちらを向く。

「大丈夫だぞー、ゴスケ。なんもないぞー。ベロしまい忘れてるぞ」


**********


 遅番勤務の夜、店舗から駅への道中、いやな声が聞こえてきた。


 おぇぇぇぇぇ


 吐いている。

 すぐに道端にうずくまる人影が見えた。


(駅のホームにもいるんだろうな、飲みすぎて、ぐったりベンチに座るおっさん)

 明日の木曜日は祝日になっている。

 休みの前の日の晩の光景としては、珍しくない。

 珍しくないが、いやなものはいやだ。


 おぇぇぇぇぇ


(こっちのおっさんも、いい年こいて、自分の飲める量もわかんないかね)


 すぐそばを通らなければならないのがいやだが、わざわざ車道を横切って反対側の歩道に行くのもしゃくにさわる。

 見たくもないのに、横目で見ながら通り過ぎる。


おぇぇぇぇぇにゃ


「ゴスケ!?」

 猫はよく吐くとは言え、紛らわしい吐き方するなよ。


**********

 笹塚店の前のベンチ。

 昼食が終わり、午後の始業のタイムリミットまであと10分。


「はぁせがわしゃん」


 満腹になったらしいゴスケが声をかけてきた。


「なんだよ」

「ひーざにのっても、いいですか?」


「勘弁してくれよ、疲れてんだよ」

「いいじゃにゃいですか」


「猫のときに来いよ。なんでおじさんのときに来るんだよ」

「さむいし、ちょうどいいとおもいにゃすよ」


「いいよ来なくて。顔近づけんなよ……うわ!くっっせぇ!」

 猫は肉食ゆえ、口がくさいらしい。


**********


 昼飯を終えて、ベンチの上に競馬新聞を広げた。

 年に2回だけ、馬券を買うレースがある。


「にゃ」


 ゴスケは声を上げて、競馬新聞の上に手を置いた。

 人の手だが、猫の前足のような形にしたいようで、指を曲げている。


「ゴスケ、ちょっと、どけてくれ、読んでるから」

 ゴスケは手を下ろした。さて、どの馬に。

 考え始めると、またゴスケは「にゃ」と新聞の上に手を置いた。


「たのむよ、今回のレースは」

 言いかけて、止まった。

 ゴスケの手は、さっきと同じ場所にある。

 競馬新聞の紙面の、馬の名前が並ぶ表の上に。


「お前、当てようとしてんのか?」

 動物には人間にはない力があるらしい。

 地震を事前に察知する鳥。百キロ以上離れた新居にいる飼い主に自力でたどり着く犬。

 特に猫は、ある種、霊的な力まであると言われる。


「よし、わかった。頼む、ゴスケ」

 ゴスケが俺の目を見る。


「今回のレース、どの馬が来る?」

 俺の意図が伝わったらしく、ゴスケはみたび、「にゃ」と手を、紙面の表の上に置いた。


 手の甲を上に向けて、成人男性のサイズの握った拳が、表の上に乗る。

 表のほとんどが手で隠れた。


「いやどれかわかんねぇよ」


**********


 日曜日、ゴスケの手が触れるところを適当に狙って馬券を買ったら2万3千円のプラスになった。

 自分には高いビールを、ゴスケには特別高い缶詰をその日のうちに買った。


(あいつのおかげだからな。明日これで礼を言おう。でもこれで、これ以外食べなくなったらどうしよう)


**********


 月曜日の昼。

 電車を降りて、初台の駅の改札を出る。


 もう昼休みが終わる時間だ。

 今日はゴスケに会えなかった。


(あの清掃のおばさんが言ってた、いたりいなかったりの、いない日なのかな)


 ゴスケへの礼にと持って行った缶詰を、そのまま持って帰ってきた。

「パパー」

 明日香の声が聞こえた。見渡すと、妻と娘、ふたりがこちらに歩いてくるのが見えた。


「あれ?どうしたの?」

「子ども服を買いに来たついでにね、会えるかもーと思って、ちょっと寄ってみた」


「これ!」

 明日香が手の中の丸いものを見せて割って入る。


「お、ガチャガチャか?何にしたの?」

「ねこだよー。みせるね」


 開けようとしてうまく行かず、明日香は丸いケースを落としてしまった。

「このへんに良い店あるの?子ども服」


「そう。私も知らなかったんだけどね……!?明日香!ダメ!」

 一瞬の気の緩み。

 明日香が転がるケースを追って、車道に出ようとしている。

 トラックが迫る。

 明日香はそれに気づかない。


 あと2歩も進めば、ぶつかる。

 ケースを追う明日香の前に、一匹の猫が躍り出た。

(ゴスケ!)


 これ以上ないくらい牙をむき、娘を威嚇する。

 怯えた娘は立ち止まった。娘は車道には出ていない。だが、猫は別だった。


 トラックのスピードは落ちない。

 猫は車道から避難するが、間に合わなかった。


 小さな体が、宙を舞う。


**********


 ぐったりと動かない猫の体を抱いた。

 体は温かいが、動かない。


 だんだんと虚ろになっていく思考の中で、子どものときの記憶がよみがえる。

 記憶のなか、庭の塀に向かって、縁側に座る祖母が声をかけた。


「ほら、ゴスケ、おいで」

 塀の上の猫は、反応しない。


「どした?ゴスケ、ご飯食べないか?」

 祖母が手の中のキャットフードの缶詰を見せるように前に出した。

 猫が塀から身軽に飛び降りた。


「なんでそんな名前なの?」

 祖母がこちらを見た。


「んー?変な名前だと思ったの?」

 意味がわからず、黙っていると祖母が続けた。


「猫ってのはね、自由気ままに生きてるようで、周りをよぉーく見てるんだよ。人を助けてくれることだってある」

 猫を見ると、猫もこちらを見ていた。


「だからね、護り、助けるって書いて、護助なの。あとで漢字で教えてやるね」

「ふーん」


「忍も大きくなったら、そういう人間になりなさい」

「うん」


**********


 日曜日、外は晴れ。

 リビングのソファに座って、ぼんやりと宙を見ていた。

(ばあちゃんがつけた名前、いい名前だったんだな)

 明日香は床で人形遊びをしている。


「ゴスケ」

 つい口に出ていた。

 明日香がこちらを見て言う。


「ん?なに?」

「なんでもない。ゴスケに言ったんだ」

「ふーん」

 明日香は遊びを再開した。


「ありがとな、ゴスケ」

 目をつぶると、初めて出会ったころのゴスケの姿が浮かんだ。

 黒がやや多い、白と黒のブチ。

 目を開けて、ソファの隣を見る。

「今度は俺に助けさせてくれな」


 にゃあ。

 後ろ足のギプスをうっとうしそうに見ていたゴスケが、返事をした。




おわり

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