第3話 trade-craft

「そうか。じゃあ、このあたりに来るのは昼過ぎるね」

「いいタイミングだよ。晴れてよかった。なにか食べるか?」

「いや。終わってからにするよ。これから探しに出ないとね」

「本当に来るのか?」

「わからない」

 太った男の人はポケットからガムを出して、ぼくに一枚くれました。そして自分はいっぺんに三枚ぐらい口に入れて噛みはじめます。もしかしたらガムのせいで、歯がきれいなのかもしれません。それとも歯磨き粉が違うのでしょうか。

 あんなに大きな歯だったら磨くのは大変なんじゃないでしょうか。そういえば、この国では自動車もピカピカだし、窓もピカピカだし、あらゆるものが磨かれて美しく光り輝いているのです。

 泥の山。ぬかるんだ道。水たまり──。そんなものはどこにもないのです。だけどぼくはそれを思い出せます。柔らかな手の感触や温かな吐息とともに。この記憶はなんでしょう。

「警備の邪魔はするなよ。みんなピリピリしているから。プラカードを持ったやつらが空港あたりでかなり騒いでいたらしい」

「気をつけます。ありがとう」

 クリスはぼくに向き直って「行こうか」と告げました。

 残された記憶にある「知った人」を探すようにクリスに頼まれていました。そのわけはわかりません。それが、ぼくのここにいる理由らしいのです。

 誰も思い出せないのに。

「俊君。人間にはまだまだ隠された能力がある。ほとんどの人はそれを発見する前に死んでしまう。モーツァルトのように幼くして才能を発見できる人もいるが、例外だ」

 クリスの発音は「モー」のあと鋭くツァルトとまとめます。彼はオーストリアやドイツ圏の単語は、バイエルン風が好きなのだそうです。

「ま、知っている範囲のバイエルン風ってことなんだけどね。行ったことはないから」

 それでもぼくにしてみれば日本人にしか見えません。クリスは日本に来れば完全に溶け込めるでしょう。

 ああ、どうしたことか、ぼくの日本の記憶はほとんどがぼんやりとしています。

「君は能力者だ。だけど経験がない。trade-craftと言うだろう? 商売がうまくなるには、取り引きから学ぶしかない。欲しい人に売ればいいってわけじゃないからね。駆け引きもあるし。欲しくない人にも、買ってもらえるぐらい技術がないとね。それを学んでいくことで本当の力になる。能力があろうとなかろうと、取り引きから学んだ力にはかなわないんだよ。現実とはそういうもんだ」

 断片的な記憶。

 病院のような場所。Y市──。いやあそこはY市じゃなかったかもしれない。そして長い長い輸送機での移動。細切れに上空から富士山を見たような気もするのですが、それも夢の一部かもしれません。

 青空のハワイの空港。どのぐらいそこにいたのでしょう。判然としません。写真の多い英語の雑誌を眺めたり、コーラを飲んだりして過ごしました。なにもかもが原色。カラフル。赤、青、黄色、緑……。虹のように鮮やかな世界。さまざまな肌の人。さまざまな体型の人。さまざまな国の人……。

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