4
震える彼を慰めて、慰められた。
西の空が宵に染まるまで、何度も。
引っ越してから彼の存在を知り、窓から姿を眺めるようになった。
顔が好み? 簡単に釣れそうだったから?
それとも、あの人への当てつけ?
分からない。そうかもしれないけれど、違うかもしれない。
ただ、後悔はしていない。望んだことだもの。
書いても書いても埋まらない何かを満たしたかった。
快楽や愛情とは別の、黄昏が似合う儚い熱が欲しかった。
沈みかけた夕陽の色。崩れかけた砂の城、
彼がそれを持っていた気がして。
「まだ震えてますね」
狭いソファーベッドで裸のまま抱き合っていた。
彼の頭を胸に抱き、あやすように撫でる。
彼も私を強く抱いて離さなかった。
「正直ビビってます」
左手に指輪はない。
それでもまだ「旦那」であるならば、私は不貞を働いたことになる。
あの人の存在は伝えていて互いに承知の上。
私たちは罪を犯した。だから怯えているのだ。
「後悔しました?」
彼の腕に力が入った。
「……いえ。幸せです」
彼の返事は、一度だけ、私の胸を高鳴らせた。
「嬉しい」
作品を褒めてくれたときよりも、ずっと幸福だった。
嬉しくて嬉しくて、彼の頭をもう一度抱き直した。
私の鼓動は熱くて大きな鼓動に交じって消えていった。
肌を重ねる黄昏は瞬く間に過ぎた。
心地良い時間は零れ落ちるのが早い。
彼は帰り際、空っぽのリビングに置きっぱなしの麦茶を飲んでくれた。
汗をかいた二つのグラスから流れた水が、
テーブルの上で交わって大きな水たまりになっていた。
翌朝。
ソファーベッドに残る違う人間の匂いで目が覚めた。
昨日の黄昏を思い出せば朝からそんな気分になりそうだった。
朝のルーティンを済ませて書斎へ戻ってきた。
窓から見えるお向かいさんの家がほんの少し気になる。
可愛い可愛い私の読者様。
少しでもあなたが心地良く感じられたのなら、私は幸せです。
口元が緩む。今の私はどんな顔で笑っているのだろう。
革椅子に座ってペンを持つと、彼が褒めてくれた幻想を創造することにした。
昨日の出来事を調理して盛り付けたら、本になったときに驚いてくれるかしら。
ペンを持つ指は完璧なスケート選手のごとく軽やかに滑ってくれた。
玄関のチャイムが鳴ったのは昼下がり。
一階に降りてリビングのモニターから外を確認する。
映っていたのは丸刈りで狐目の老人。この辺りの町内会長だ。
ため息をついてマイクのボタンを押した。
「はい」
『あぁ~、町内会の佐竹ですが。町内会への加入、考え直していただけませんか』
また勧誘。もはやドアを開けるまでもない。
「先日も申し上げた通りです。お断りします」
『女の人の~、一人暮らしは危ない。加入すれば顔も知ってもらえて、防犯にも繋がると思うんですがねぇ』
どの口が防犯を抜かすのか。
越してきたばかりの私に水島家の話をしたのは町内会長だろうに。
仮に加入すれば、私の仕事も、越してきた理由も、
どこかで調べ上げて町内会全員に広めてしまいそう。
この老人に関わった方がよほど危ない。
「まあ。こちらの地区はそんなに治安が悪いのかしら」
『そういう、そういうわけでは~、ないんですがね』
間延びした口調は初めて会ったときと同じで胡散臭い。
老父が言葉を詰まらせている間に改めて強く断ることにした。
「金銭的にも時間的にも、参加できる余裕がありませんわ。他を当たってください」
『ん~……。分かりました。失礼しましたぁ』
丸刈りの頭をかきながら、老父がモニター越しに背中を向ける。
画面から消えた後、入ったままのマイクが『あばずれが……』と呟きを拾った。
二階へ上がって窓の外を見ると、白い軽トラックが緩慢に走り去るところだった。
弱々しいエンジン音を聞きながら老父の言葉に首を捻る。
私はあばずれなのか、と。
不特定多数の誰かと寝たいわけではない。
旦那とは二度としたくない。
抱きたい、抱かれたいのは一人だけ――。
「陽さん……」
嫌な笑みがこぼれる。
結局、あばずれの意味はよく分からなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます