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 震える彼を慰めて、慰められた。

 西の空が宵に染まるまで、何度も。

 引っ越してから彼の存在を知り、窓から姿を眺めるようになった。

 顔が好み? 簡単に釣れそうだったから?

 それとも、あの人への当てつけ?

 分からない。そうかもしれないけれど、違うかもしれない。

 ただ、後悔はしていない。望んだことだもの。


 書いても書いても埋まらない何かを満たしたかった。

 快楽や愛情とは別の、黄昏が似合う儚い熱が欲しかった。

 沈みかけた夕陽の色。崩れかけた砂の城、ついの匂い。


 彼がそれを持っていた気がして。


「まだ震えてますね」


 狭いソファーベッドで裸のまま抱き合っていた。

 彼の頭を胸に抱き、あやすように撫でる。

 彼も私を強く抱いて離さなかった。


「正直ビビってます」


 左手に指輪はない。

 それでもまだ「旦那」であるならば、私は不貞を働いたことになる。

 あの人の存在は伝えていて互いに承知の上。

 私たちは罪を犯した。だから怯えているのだ。


「後悔しました?」


 彼の腕に力が入った。


「……いえ。幸せです」


 彼の返事は、一度だけ、私の胸を高鳴らせた。


「嬉しい」


 作品を褒めてくれたときよりも、ずっと幸福だった。

 嬉しくて嬉しくて、彼の頭をもう一度抱き直した。

 私の鼓動は熱くて大きな鼓動に交じって消えていった。


 肌を重ねる黄昏は瞬く間に過ぎた。

 心地良い時間は零れ落ちるのが早い。

 彼は帰り際、空っぽのリビングに置きっぱなしの麦茶を飲んでくれた。

 汗をかいた二つのグラスから流れた水が、

 テーブルの上で交わって大きな水たまりになっていた。




 翌朝。

 ソファーベッドに残る違う人間の匂いで目が覚めた。

 昨日の黄昏を思い出せば朝からそんな気分になりそうだった。


 朝のルーティンを済ませて書斎へ戻ってきた。

 窓から見えるお向かいさんの家がほんの少し気になる。

 可愛い可愛い私の読者様。

 少しでもあなたが心地良く感じられたのなら、私は幸せです。

 口元が緩む。今の私はどんな顔で笑っているのだろう。

 革椅子に座ってペンを持つと、彼が褒めてくれた幻想を創造することにした。

 昨日の出来事を調理して盛り付けたら、本になったときに驚いてくれるかしら。

 ペンを持つ指は完璧なスケート選手のごとく軽やかに滑ってくれた。


 玄関のチャイムが鳴ったのは昼下がり。

 一階に降りてリビングのモニターから外を確認する。

 映っていたのは丸刈りで狐目の老人。この辺りの町内会長だ。

 ため息をついてマイクのボタンを押した。


「はい」

『あぁ~、町内会の佐竹ですが。町内会への加入、考え直していただけませんか』


 また勧誘。もはやドアを開けるまでもない。


「先日も申し上げた通りです。お断りします」

『女の人の~、一人暮らしは危ない。加入すれば顔も知ってもらえて、防犯にも繋がると思うんですがねぇ』


 どの口が防犯を抜かすのか。

 越してきたばかりの私に水島家の話をしたのは町内会長だろうに。

 仮に加入すれば、私の仕事も、越してきた理由も、

 どこかで調べ上げて町内会全員に広めてしまいそう。

 この老人に関わった方がよほど危ない。


「まあ。こちらの地区はそんなに治安が悪いのかしら」

『そういう、そういうわけでは~、ないんですがね』


 間延びした口調は初めて会ったときと同じで胡散臭い。

 老父が言葉を詰まらせている間に改めて強く断ることにした。


「金銭的にも時間的にも、参加できる余裕がありませんわ。他を当たってください」

『ん~……。分かりました。失礼しましたぁ』


 丸刈りの頭をかきながら、老父がモニター越しに背中を向ける。

 画面から消えた後、入ったままのマイクが『あばずれが……』と呟きを拾った。

 二階へ上がって窓の外を見ると、白い軽トラックが緩慢に走り去るところだった。

 弱々しいエンジン音を聞きながら老父の言葉に首を捻る。

 私はあばずれなのか、と。

 不特定多数の誰かと寝たいわけではない。

 旦那とは二度としたくない。

 抱きたい、抱かれたいのは一人だけ――。


「陽さん……」


 嫌な笑みがこぼれる。

 結局、あばずれの意味はよく分からなかった。

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