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 ログハウスのリビングらしき部屋に通された。

 正方形の低いガラステーブル、そこに青いクッションが一つ。

 テレビも時計も、植物も見当たらない。がらんとした部屋だった。

 引っ越しの荷解きが済んでいないのかと思ったが、段ボール箱もない。

 リビングのカウンター越しに見えるキッチンの方が、

 食器や調理器具がある分、まだ充実していた。


「座って待っていて下さい」


 どこから出したのか、青いクッションの隣に黒いクッションを持ってくる。

 同じデザインで色違い。テーブルを挟まず、隣り合わせに置いた。

 妙な期待をしながら黒い方に腰を下ろす。

 君崎さんはパタパタとスリッパの柔らかい音を立てながらキッチンへ向かった。


――あの人は気にも留めていないでしょうけれど。


 緩やかに冷蔵庫を開ける姿を眺めながら意味の分からない焦燥に囚われていた。

 彼氏か、旦那か。

 作り物の笑顔が語った言葉から男の気配がして苛立つ。

 今日会ったばかりの人に何を期待してるんだ。

 否定する理性には靄がかかり、期待する野性に身体が鼓動する。

 汗がにじむ顔を上げてリビングの大きな窓を見た。

 傾いた太陽が強い光を浴びせ続ける。夏の毒気と一緒に。


「麦茶を淹れました」


 涼しい声と共に氷が浮かぶ茶色い液体の入ったグラスが二つ置かれる。

 足音が聞こえなくてハッとなった。

 醜い期待と嫉妬で呆けていたらしい。

 彼女はスリッパを脱ぐと、躊躇せず青いクッションに正座した。

 俺の、隣に。


「ありがとうございます。いただきます」


 隣から香る匂いに耐えながらグラスに手を伸ばす。

 平静を装う声とは裏腹に手が震えていた。

 グラスから伝わる冷たさが鈍く思えた。


「もともと、旦那と別居していたんです。もっと離れたくて、ここに来ました」


 言いながら彼女もグラスに手を伸ばす。

 グラスが唇に触れ、白い喉が動く。

 その一つ一つの動きに目を惹かれて、胸が苦しくなる。

 彼女の言葉は俺が期待し、望んでいたもの。


――我ながらいやらしいヤツだ。


 自分を心の中で罵りながら麦茶を一口飲んだ。

 香ばしい冷たさが胸の苦しさを少し和らげてくれた。


「どうして別居したんですか?」


 短い問いかけすらひどく緊張する。

 君崎さんはグラスを持つ手を膝に置いて即答してくれた。


「一緒にいる必要がないと思ったので」


 窓の外を見ながら、声色も顔色も一定に、淡々と。

 一緒にいる必要がない。

 その回答にどれだけの想いが含まれているのだろう。

 俺の休職理由とは違う、深くて暗いものが蠢いているように思えた。


「ここに来てから嘘みたいに仕事がはかどるんです」

「何の仕事をされているんですか?」

「お見せしましょうか」




 リビングを出て、階段を上がって二階に。

 一番奥の部屋に案内された。

 入ってすぐ、壁一面を埋め尽くす大小様々な本に圧倒された。

 色とりどりの背表紙は小説だけじゃない。

 実用書や図鑑、歴史書、エッセイ、写真集や絵本もある。

 空っぽのリビングとは大違いだ。


「まるで図書館じゃないか」

「書斎ですよ」


 本棚の間には木目のオーディオコンポがあり、

 控えめな音量で古い洋楽を流していた。

 他にはブランケットが投げ捨てられたソファーベッド、

 がっしりした重厚な印象のデスクと、座り心地の良さそうな革椅子があった。


「ここでお話を書いて過ごしています」


 細い指でデスクをとんとん。

 達筆な文字が走る原稿用紙とペンが置いてあった。


「作家さんなんですか」

「はい。遠城えんじょう 美月の名前でいくつか書きました」

「えっ!?」


 驚いて大きな声を出してしまった。

 なんてことだ、知っている小説家の名前だ。

 彼女のライトノベルは持っているし、

 ハードカバーの難しそうな長編も読んだことがある。

 いくつかの作品は映像化だってされている有名な作家だ。

 先程までの妙な気分が一転、子供みたいにはしゃぎたくなった。


「信じられない。お会いできて嬉しいです」

「どうして?」


 冷ややかで反応が薄かったのに、今だけはっきり首を傾げた。

 黒髪がさらりと流れる様は少女のようで可愛かった。

 そんな直球に理由を聞かれるのも困るんだけどな。


「そりゃ、好きな作品を作った人だからですよ」


 広い世界には「作品は好きだが作者は嫌い」というケースもあるだろう。

 更に作者の顔までは知らなかったから、熱狂的なファンに比べれば浅い方だ。

 とはいえ、少なくとも俺は彼女の物語を楽しみ、尊敬や憧れの念を抱いた。

 だから、嬉しい。それだけだろ。

 君崎さん――先生はしばらく俺を見つめた後、パタパタパタ、と近づいてきた。

 俺の視線から少し下に、触れられる距離に先生の顔がある。

 心臓の音が伝わってしまいそうだった。


「褒めればいい思いができるとか?」


 それは違う。

 褒めちぎってご褒美をもらおうだなんて思ってない。


――家に招かれたときからもう期待していたのだから。


「……褒める前から期待してましたよ」

「幻滅しないんですか?」

「むしろ都合がいいです」

「正直な方ですね」


 もう一歩、先生が近づいて俺の胸に頭を預けてきた。

 尊敬や憧れなんて遠いどこかに消えた。

 目の前にいるのは旦那から逃げてきたワケありの女性。

 美しい、一人の女。

 両腕をゆっくり回して彼女の柔らかい身体を抱き寄せた。


「お名前は?」

あきらです。太陽の『陽』って書いて、あきら」


 名前を教えた直後、どちらからともなくソファーベッドに倒れた。

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