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 山に囲まれた田舎の端。

 子供の頃に有刺鉄線で囲われていた近所の更地が開発され、多くの新築が建った。

 俺と同世代の連中が結婚して建てた家。

 田舎で余生を過ごそうと、都会から引っ越してきた老夫婦の家。

 水田や田畑に囲まれ、遠くに美しい山々を望むこの地は様々な人が訪れる。

 観光地としても、終焉の地としても。

 その土地の片隅に、俺が生まれ育った家もある。




 病院から帰った後はいつも奇妙な気分になる。

 理由のない寂しさが胸に込み上げて瞳が濡れる。

 庭に停めた車から降りると、西日が強く刺さって思わず目を細めた。

 天気予報の人が「梅雨明け」と話していたのを思い出す。

 眩しく刺さる日差しは夏のそれらしく。


「……忘れろ」


 振り払って足を前に出した。

 こんなに重たかっただろうか。歩くだけでひどく疲れる。

 重い足取りで自宅の玄関へ向かう途中、

 何となく、最近引っ越してきたお隣さんの新築ログハウスを見上げた。


 ほとんど車の通らない道路を挟んだ向かい側に建つ、二階建てのログハウス。

 今日も二階の窓が開いていて、白いレースカーテンが涼し気に揺れている。


「君崎さんか……」


 ログハウスは去年完成、今年の春を過ぎて人が住み始めた。

 君崎きみさき美月みづき――まだ、一度も見たことのない女性の名前。

 俺が病院へ出かけているときに引っ越しの挨拶に来たらしく、

 高級な都会の菓子折りをくれた。美味いお菓子だった。

 仕事を辞めて老後を過ごしている父も「高級なお菓子だ」と興奮していた。

 父の話によれば、俺より何歳か年上に見える女性で、一人暮らし。

 礼儀正しくたおやかで、綺麗な人だったとか。

 レースカーテンの向こうでは何をして暮らしているのだろう。

 暑さにぼんやりとした頭で考えていたら、ログハウスの玄関が開いた。

 まさか玄関が開くとは思わず、驚いて身体が硬直した。


「こんにちは」


 冷たそうな女性が、優しい声色でそう言った。

 黒くて長い髪が柔らかに波打ち、シルクのように日差しを照り返している。

 薄手のブラウス越しに白い肌が透けて見えた。

 たおやかで綺麗な人。

 現れたログハウスの家主を見て、父の言葉を理解する。


「どうも、こんにちは」


 顔を見て返事をしてすぐ、彼女の瞳から逃れようとログハウスを見上げた。

 二階の開かれた窓、風に揺れるレースカーテンを指す。

 彼女の視線が俺の指先を追った。


「カーテンが揺れてると、涼しそうに見えたので」


 思ったことは嘘じゃないが、奇妙な話の振り方かもしれないと自己嫌悪する。

 しかし、彼女の横顔は穏やかだった。


「ああ……。実際、涼しいですよ。こちらの夏は爽やかでいいですね」


 不器用な話の振り方に対して難なく返答してみせる。

 これがデキる女ってヤツだろうか。

 そよ風がまた吹いて、か細い指が髪を押さえた。

 その仕草さえ疑いたくなるほど出来過ぎている。


「……君崎さんでしたっけ」

「はい。お菓子、お口にあいました?」

「美味しかったです」

「それは良かった」


 こちらを見て、ふっと微笑む。

 目を合わせられない俺は、今度は水田に目をやった。

 水を張った水田が西日を受けて煌めいている。

 風に乗って、君崎さんの甘い香りが鼻を掠めていった。


「今日はお休みですか?」


 多分、仕事のことを話しているのだろう。

 少しの沈黙を挟んで、手短に真実を伝えた。


「休職中です。自宅療養ってヤツで」


 職場の人間関係でトラブった。相手は気にも留めていないだろうが。

 ある土曜日の朝に茫然自失としていたらしく、気がついたら通院していた。

 壊れる前に相談して解決すればいいって?

 とてもじゃないが、誰かに相談できる内容じゃない。

 悪いのは俺だと分かっている。分かっているからこそ、壊れたんだ。


「お疲れに見えたのは気のせいじゃなかったんですね」


 初対面の女性にも心配されるなんてどうかしている。

 でも、会ったばかりの人に深く語る話じゃない。

 何か話題を切り替えようと考えを巡らせていたら、

 君崎さんが先に小さくつぶやいた。


「私も似たようなものかも」


 頬がピクりと震えて、彼女の横顔をにらんだ。

 さっきまで美しいと思っていた相手が途端に憎たらしくなる。

 田舎に家を建て、都会から引っ越して一人暮らし。

 恵まれた容姿を持っていて、家を建てられるだけの稼ぎがあるのに。

 それで「療養」なのか。


――ふざけやがって。


 自分のひねくれ具合を棚に上げ、心の中で吐き捨てた。

 その瞬間、彼女の顔が緩慢にこちらを向いた。

 恐怖に近い驚きが身体を強張らせた。


「あの人は気にも留めていないでしょうけれど」


 見つめ返された。

 口元は薄い笑みを。しかし、目は笑っていない。

 彼女の瞳は水晶みたいに澄んでいるのに、冷たくて不気味だった。

 何だか、妙に喉が渇く。


「冷たいお茶でもいかがですか」

「……俺ってそんなに分かりやすいですか?」

「気が利く女だと思っていただければ傷つかなくて済みますよ」


 そうかい。じゃあ、そう思うことにするよ。

 肩をすくめて、歩き出す彼女の背中を追った。

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