261;月と影.12(綾城ミシェル)
居合とは、素肌剣術が主流となった時代に漸く大成した代物だ。
合戦の時代、甲冑に身を包み見渡す限りの戦場を駆け抜け果てた
戦場で武器を構えない奴などいない。
いや、時にはそんな場面もあったのだろう――戦が常であった時代とは言え、本当に常に剥き出しの刀を手に握って過ごす者などいない。
戦の合間には、帯びる鞘に刀を差したことだろう。
そうした矢先に残党や伏兵と遭遇し、鞘から抜き放ちながらそのまま斬り付けることも、あったにはあったことだろう。
だからその時代にも、居合はあった。
だがそれはあくまで、居合という場面があったに過ぎない。
長き戦国の世が平定され、甲冑では無く着物を常とする世になり初めて――平穏の中で危機と遭遇しやむを得ず抜かねばならない一時が偶に遭った世になって初めて、居合という技術は成った筈だ。
甲冑を着た相手を斬り付ける“介者剣術”に対し、着物を着た相手を斬り付ける“素肌剣術”と名が冠せられて漸く、その技は“居合”と呼ばれるに至った筈だ。
だから再び戦場の上に立ち人の命を奪うために研鑽された牛飼流軍刀術には、もとより得物を非武装にしている仮定が欠如していた。
刃は基本的には抜き放っていて、その切先は常に敵に向いていた。
抜き放っているのだから、剥き出しなのだから、そこに“居合”の術理が存在する筈が無い。
そう、筈が無いのだ。
だがジュライは軍刀を鞘に納めた。
敵を屠るために向ける矛先を、非武装の中に隠しめたのだ。
敵のいない、或いは去った戦場ならいざ知らず。
真っ向から敵に向かうその場面でのそれは、あり得ざるものであった筈だ。
でもジュライはそうした。
もう一人の牛飼七月がそうしたのだ。
牛飼流軍刀術の正統後継者が、その全てを修めた当代唯一の者が、そうしたのだ。
目を疑わないことが、私には出来なかった。
正統な血筋からは外れるとは言え、私もまたその術理の一端を学んだ者の一人だ。
銃剣術に重きを置いていたとは言え、軍刀術も一通りは修めた筈だ。
同年代どころか、前後の世代の誰よりも牛飼流に精通していた、正統後継者よりも正統だったと自負していた私だ。
だからこそ、そんな私だからこそ、目を疑わないことが何一つ出来なかった。
知らない。
知らない。
牛飼流の居合など、私は知り及んでいない。
ならばそれは、もしやするとジュライの
付け焼き刃等では決して無いことは、ジュライの構えを見れば判じれる。今思い立ったにしては様になり過ぎている。少なくともそれは洗練された構えだった。何度も何度も反復し、最大効率と最大威力とを矛盾させず両立させる全ての術を何一つ溢さずに身体に落とし込んで出来た構えだった。
だが、言葉を、思考を失ったのはその後の一連だ。
スキル《残像回避》をスキル《星降り》によって無効化した後で、その《星降り》の分かれた光を得て放とうとした居合の一撃は、七月の《影潜り》による瞬間の後退によって無意にされた、筈だった。
だがどうだ――――振り抜く内に光を宿す刀身は細分され、その一つ一つが光の線で結ばれた、
伸び進む刀身は遠くへと後退した七月が置いた隔絶を衝き抜け、その刃を、渾身を、七月の眼前へと到達させたでは無いか。
まるで、
「ナノ、カ……」
声も無く斬り付けられた七月は、首筋から左脇腹にかけて深く裂かれた断面から夥しい血を噴き出しては、そうしながらもぼんやりと虚空をしか捉えない目で彼女の名を呟いた。
ジュライが放った渾身の“変形
誰もが絶句し残心だけがそこに在る戦場の真中で、しかしジュライは軍刀を再び鞘には納めなかった。
警戒のせいでは無い――――あの“変型神薙”のせいで細かく破砕した、私が貸し与えた軍刀の刀身がまさか元には戻らなかったからだ。
斬ったその瞬間からあの光は途絶え、刃の一つ一つを繋いでいた条もまた消え失せた。ならば、破片の数々となった刀身は地面の砂利に雑じるしか無い。
七月にとってはこれ以上無い好機だったろう、何せ相手は得物を失った。
共に《
だが今、その兆候は七月に訪れてはいない。
開戦時のような静寂が今一度周囲に立ち込めた。
ただ、対峙する光と影のような二人の荒いだ息遣いだけが鼓膜を震わせる。
片や、思い切り斬り付けられ血を垂れ流し、
片や、傷こそ少ないが得物を失ってしまった。
誰もが二人の戦いを、“ここからどうなる”を目の当たりにしようと、見届けようと静観を決め込んでいる。
壮絶にして凄絶な、命のやり取りに相応しい攻防の一つ一つ。一挙手一投足。
だが二人の戦いは、ここで終わりらしい。
「っ!?」
「君の言う通りだ、もう終わりにする」
彼のアニマ《
深手を負っていようと、その傷は徐々に埋まるのだから七月の方が優勢なのは明らかだった筈だ。
だごそれはあくまで表面上の話で、ジュライと七月、かつては一人だった分かたれた二人にしか分からない、深層の遣り取りがあったのかも知れない。
そして七月は定まった視線を握る〈七七式軍刀〉に注ぐと、開いた両の手に載せるように保持して前に差し出す。
それと同時に、彼は片膝を着いたのだ、ジュライに向かって。
誰がどう見ても、完膚なきまでの決着だった。
膝を着いて首を垂れる勝者がいるものか。
ジュライは、勝ったのだ。
「えっと……」
片膝を着いて〈七七式軍刀〉を差し出す七月の
「僕の負けだ。僕は、君の影でいい」
「……いいんですか? 形勢というか戦況というか、圧倒的に君が」
「負けなんだ。僕がどうしてもそう認めてしまった以上、これ以上意味は無い。君が斬ってくれたおかげで、荒れ狂っていた僕じゃ無い魂も収まった。それに――」
「それに?」
「――ナノカに、会わせてくれた」
その言葉に静かに頷いたジュライは、無手のまま歩み寄った。
そして捧げられた刀身に触れ、
「ナツキ。僕と一緒に、生きてもらいます」
「ジュライ。君の影として、君と共に在ることを誓う。ただし――不甲斐なければ、再び光を求め出す」
「――ふふっ。その時はまた、試合いましょう」
不思議な心地だった。
あの、“鉄面皮”やら“無表情”やら“人形”やらと言われたい放題だった男が今、あんなに誰しもに一目で判る表情で笑んでいるというのは。
そして首を垂れていた七月が表を上げるや、ジュライの触れた刀身から俄かに溢れ出した光が七月の身体を覆い、その輪郭の一つ一つ全てがそれと同化した。
まるで死に戻りのような光の粒子へと崩れた七月は、舞い上がり翻ってはジュライの身体へと吸い込まれていく。
ジュライはその光の奔流を浴びながら宙空に佇んでいた己の軍刀を握ると、それを高く掲げて空を仰いだ。
さっきまで降っていた雨が、止んだ。
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