199;菜の花の殺人鬼.22(牛飼七月)
「《
聞き覚えのある、とても懐かしい声が響きました。
闇雲に放たれたような、それでいて鋭く重い連刃の一撃は、その声によって展開された半透明の障壁にぶつかって、障壁をばぎりと打ち壊しながらも弾かれてしまいます。
恐る恐る、という形容が相応しい、そんな情けなくだらしない速度と心地で振り向けば。
茹ったみたいに顔を赤くさせたアイナリィさんが、唇を噛み締めながらそこに立っていました。
その背後には、慄いて顔を引き攣らせながら尻を地面に着いているショウゴさん――でも彼よりもっと、僕の方が。
それにしてもアイナリィさん、何で泣いているんですか?
「アイナリィ、お前さ」
「アホぉっ、出来るかぁこんなんっ!」
「お、おう……」
「そもそもうちはなぁ、こないなヤツやっぱ守りとう無いねん! 庇いとう無いねや! それよりも何よりもやな……っ、……ジュライ! アホぉ! あんた何で、何で妹の味方しぃひんねん! 何で、……何で、妹もお
その号哭は、まるで時間を支配しているみたいでした。
誰もが固唾を呑んで見守るだけの、静止した
刃を差し向けていたナノカでさえも、何が起きているのかまるで判然としない幼子のような表情を顔全体に拡げています。
唯一スーマンさんだけが浅く斬り裂かれた胸に手を当てて、でも痛いというよりは面倒臭いというような溜息を吐きました。
僕は。
「アイナリィさん、本当に――」
ごめんなさい、と言おうとした僕の横を擦り抜けて――――
ナノカの振るった剣が再び地面を抉りながら飛翔します。
真っ直ぐに向かい、赤く濡れた、鋭い切っ先が――――
「っぶねぇっ!!」
「っ《
瞬時に張り直された半透明の《
その代わりにスーマンさんの握った手からは尋常じゃない血が滴り、たじろいだその身体を翻った刃が斬り刻みます。
「スーマン!」
「邪魔しないでよっ!!」
アイナリィさんの悲痛な声を掻き消すナノカの切実。黒く濁った目の奥の憤怒が、仄暗い紫色の
「ひ、ひぃぃぃいいいいいっ!!」
どすんと尻餅を着いたショウゴさんが泡を吹きそうなほど慄き、それを猛り狂う死神のような形相で睨み付けたナノカが振り被った連刃剣は、ですが伸びた
やがて、街の人が通報したんでしょうか、衛兵がゾロゾロと駆け込んで来るのが見えました。
“菜の花の殺人鬼”はこの界隈では流石に名を馳せ過ぎたのでしょう。その数は土煙が上がる程。
「放、せっ!」
「放すかよ!」
未だ綱引きを続けるナノカとスーマンさん。
ですが衛兵が辿り着く直前――――それまで激昂を身に宿していたナノカは、流石にもう駄目だと感じたのでしょう、しな垂れ、その場にへたり込みました。
スキルの効果も消え、
誰もが固唾を飲みました。
誰もが静止を決め込みました。
血に塗れた手で今も
呼気をしゃくり上げさせながら、それでも未だ警戒するアイナリィさんも。
その場に尻餅を着いたままわけの分からないといった表情を見せるショウゴさんも。
輪の最前列で事態をずっと見守っていたスーマンさんのお姉さんたちも。
情けない僕も。
「“菜の花の殺人鬼”はここか!」
「退いてくれ! 通してくれ!」
「衛視局だ!」
誰もがそのまま動けないまま、ただただ結末だけが訪れようと――――
そんな中、ナノカはまるであの時の表情で、僕に振り向きます。
「ナツキ……」
聞きたくない。聴きたくない。
そうしてしまえば、きっと僕は――――
僕は――――
「っ!?」
だから僕は、駆けました。
その言葉が発せられる前に。僕がその言葉を、聴いてしまう前に。
駆け寄って、抱え上げて。
そして、出来た輪の穴を探します。
「ショウゴさんっ!!」
「ひぃっ!?」
怒号を散らせば、怯える彼は慄いて尻餅を着いたままで後ずさります――――そこが、穴でした。
幸い、衛視達は輪の反対側からやって来ています。ですから僕はナノカを両腕で抱え上げたまま、そのままショウゴさんを跳び越える形で駆け出しました。
「おいっ、」
「ジュライ!!」
振り切ります。当たり前です。
その言葉を聴くわけにはいかないのです。聴いてしまえば、僕はきっと――――
今も、鞘に納めた軍刀を通じて声が聞こえるのです。
――斬りたい。
――――斬らなければならない。
――斬り殺したい。
――――斬り殺さなければ。
心臓の鼓動が否が応でも耳に響き、その拍動に載せて響いて来るのです。
僕の、罪が、本性が、本能が、脳をそうやって揺さぶるのです。
それからはもう、無我夢中でした。
傷だらけでボロボロのナノカを抱え上げたまま、抱き締めたまま、街を飛び出して街道を外れて何処へ向かう訳でも無くただただ遠くを目指して駆け抜けました。
理性が、正気がそうさせている気がしませんでした。
でも狂気にはまだ遭いたくはありませんでした。
ですから、兎に角ただ駆け続けました。
息が切れても、目がぐるぐると回っても、ナノカが何かを言っていても。
そうやって走り続けましたから、何処まで来たのか、何処にいるのかもよく分かりません。
きっと林の奥の方でしょう。地面から少し飛び出た、植林の根っこに足を取られて僕は前方へと倒れ込みました。
ナノカは胸の高さで抱え上げていましたから、その拍子に放り出してしまいました。「あ」と思いましたが、どうすることも出来ませんでした。
そのまま転がって、ごろごろと転げて、荒く呼吸を繰り返して漸く起き上がり、未だ泣きじゃくって横たわるままのナノカに振り向き。
「……ナツキ」
ああ、駄目だ、駄目です。きっと彼女は、あの言葉を言う。
犯されて穢された絶望から生まれたあの言葉を。
その復讐を咎められ、阻まれた絶望から。
ふるふると首を横に振っても、それは彼女には届きません。
言わないで。言わないでくれたら、僕は――――僕は。
「死にたい」
ああ――――分かったよ。
大丈夫、僕ならやれる。
辛かったね、痛かったよね。
悲しいよね、赦せないよね。
その痛みの、全部は理解できそうに無いけれど。
それでも、君が望むのなら。
僕は、僕だけは、その望みを叶えてあげられる。
その痛みから、何もかもを解放してあげられる。
ゆっくりと、ゆっくりと起き上がって。
それと同時に引き抜いた軍刀が、〈七七式軍刀〉が鈍く輝きを照り返して。
彼女の、妹の傍に寄り添って、そして僕は刃を振り上げて。
渾身の力で、一太刀に切り離せるように、狙いを定めて。
ぎゅうと両手で強く、柄を握り締めて。
「大好きだった」
「やめろ」
肩を、強く掴まれぐいと後方に引かれました。
でもそんなことはどうでもいいんです――――驚くのは、眉根を寄せるのは、それが誰なのか、ということ。
「やめろよ」
何で――――何で、僕がそこに?
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