第16話 変化を遂げた幼馴染
「えいっ!」
会場を歩いていると、突然左肘あたりを柔らかな水風船で包み込まれたような感覚がした。
何軒か水風船掬いをやってる露店があったから、はしゃいだ子供の悪戯かと思ったのだが、目を向けてみると良くも悪くも予想外だった。
「えーっと、君は?」
俺の腕に巻き付き、膨よかで破壊的な胸を押し付けて、さながら不審者の格好をした頭一つ分程度背の低い女の子がそこにはいた。小さいサイズの服を着ているせいか、逃げ場のない胸の膨らみがz軸正方向へ今にも飛び出してしまいそうに据わっている。
「まあ覚えてないよね。わかってはいたけど、普通に残念かも……」
俺の腕から離れたその子は、口元をわずかに下向かせた。
「ちょっとわかんないかな。もしかして面識ある?」
覚えてないよね。と彼女が口にしたということは、恐らく俺とは面識があるのだろう。
人を識別する最大の要素となる目元がサングラスで隠されているせいで、瞬時にピンとくる人物は浮かんでこなかった。だが脳裏の片隅にちょっとした既視感があった。
「八年ぶりだし無理もないか」
八年ぶりと聞いて、一人の女性の名前を思い出す。
「名前、訊いてもいいか……?」
恐る恐る目の前の彼女にそう言うと、彼女は少し恥ずかしそうに呟いた。
「
感動とも言い難い感情が、一瞬にして俺を包む。
「え、珠璃? 本物の珠璃? 昔一緒に遊んでた珠璃なのか?」
彼女の大胆な行動と奇抜な姿に違和感を感じながらも、月代珠璃との記憶を蘇らせる。
俺、
きっかけは俺が通園バッグに付けていたアニメキャラクターのぬいぐるみに珠璃が興味を持ったこと。そして苗字に月という字が共通して入っていたこと。
好奇心旺盛な年頃で、ごくごくありふれた関係の始まりだった。
それからは基本的に珠璃が俺に付いて回るようになり、外で遊ぶ時も室内で遊ぶ時も必ず近くに珠璃がいた。いわゆる幼馴染と言っても良いだろう。
卒園した後に入学した小学校では偶然同じクラスに振り分けられ、初対面のクラスメイトとのコミュニケーションはほどほどに、業間の休みはほとんど珠璃と過ごす日々が続いていた。
放課後は両親が共働きだったため俺は学校近くの学童に通い、珠璃は集団下校で直接自宅に戻る。一緒に遊べる時間は平日の日中のみだったものの、あの頃を思い返してみると珠璃と遊んでいた記憶しかないほどだ。前日に放送していたアニメの話をしたり、大ヒットしていたロールプレイングゲームの話をしたりと、まあ話題は尽きやしなかった。
そして状況が大きく変わる小学三年生。俺と珠璃は二年に一回のクラス替えでまたしても同じクラスに振り分けられる。
俺は三年生まで通える学童を「家でゴロゴロしたい」という理由を付けて一年早くやめさせてもらい、家が徒歩五分圏内にある珠璃の家にほぼ毎日遊びに行くようになった。
やめさせて欲しいと頼んだ本当の理由は、もちろん珠璃と遊びたかったからだ。
珠璃の家は典型的な日本家屋で、母家の他に蔵や門まであるような立派なものだった。
学校で話をしたゲームを一緒にしたり、外でキャッチボールや隠れん坊をする。
勉強も偶にはやったりして、陽が沈むギリギリまで同じ空気を吸い合った。
夏は定番化した遊びの他にも明るい内の昆虫採集、冬には珠璃の家の庭で雪だるまやかまくらを作って遊んでいたようなエピソードが多い。
そして三学期最後の日。午前中で学校は放課になり、俺は自宅で昼食を済ませて正午過ぎには珠璃の家に着いていた。春休みの宿題を雀の涙程度片付けて、大半はテレビゲームで遊ぶ。
ふと外を見ると、空は朱色に染まっていて、いつも通り帰る俺を珠璃が門まで送ってくれた。
本来なら春休み明けにまた遊ぼうと約束をして別れるはずだったのに、その日は少し事情が違って、母家の玄関から暗い色の着物を着た一人のお婆さんが姿を現した。
幾度となくお邪魔していた家だったが顔を合わせることはその時が初めてで、第一印象は意固地で怖そうなお婆さんだった。
二人は黙ってお婆さんを見つめて、何かしら言葉が発せられるのを待つ。
するとお婆さんは着物の袖から数枚の紙を取り出した。
その仕草を見るや否や、珠璃は俺の手を取って家の庭から逃げるように走り出して、よく遊んでいた近所の神社に連れて来た。急にどうしたんだろう? 俺はずっとそう思っていた。
茜色の空に覆われた誰の姿も見られない公園の寂しさと、カラスの鳴き声だけが無情に木霊する薄気味悪いあの空間だけは、今でも鮮明に覚えている。
「ごめんね、いきなり引っ張ったりして」
「いや、別に大丈夫。でもどうかしたの? すごく慌ててるように見えたけど」
「うちの家には昔からの仕来りがあるんだって……」
あの時の珠璃の声は微かに震えていて、何故だか申し訳なさそうに俺を見つめていた。
そこで小学生の俺は、彼女がずっと隠してきた彼女の家の秘密を知る。
「前から言われてたんだ。高校を卒業する頃には結婚相手が決まってるんだって」
俺はどう反応したらいいか分からず、無難に「そうなんだ」と答えた。
珠璃の話だと、彼女が生まれた月代家には、戦前より遥か昔からの決まり事があったようだ。
月代家に生まれた女性は、二十歳を迎えるまでに結婚をしなければならない。
何百年と続いてきた鉄の掟で誰一人例外はおらず、珠璃も同様数ヶ月前から主に祖父母から言われていたそうだ。当然ながら小学生の子供には早すぎる話で、珠璃が拒んでも「うちの方から相手方を選べるのだから贅沢言うな」と、強く説得を受けていたらしい。
そこであの時お婆さんが取り出した紙が、婿候補となるお相手の写真だと俺は悟った。
相手方もそれなりの名家で、結婚自体が嫌だったのか、好みの相手がいなかったのか、珠璃が拒み続けた理由はわからないが、数日前に祖母から言われた「これは、あなたの〝運命〟だから仕方がない」という言葉が自分の心を折ったと珠璃は話していた。
彼女は何も間違っていない。偶然生まれてしまった家が偶然一般家庭よりも違っていただけ。
特別裕福でも特別貧乏でもない、うちのようなありふれた普通の家庭に生まれていれば、ありふれた普通の少女として、ありふれた普通の恋愛が出来ていたんだ。
そんな自分を哀れんで、彼女は訊いたのだと思う。
「ねえあお
「きっと違う。運命には嬉しいことも楽しいこともあるから、心配しなくていいはずだよ」
落ち込む彼女を救おうと、あの頃の俺は何も知らずにそう答えた。
「あお君が私を助けてくれる?」
逆に俺を気遣って、珠璃は硬く微笑む。
「何が出来るかわからないけど、俺に出来ることだったら」
「そっか。やっぱりあお君は優しいね」
「全然。普通だって。じゃあ来年も同じクラスで会おうな」
「うんっ。楽しみにしてる。またね。バイバイ!」
このやり取りが結果的に珠璃と交わした最後の会話になり、二週間後の新学期、教室で月代珠璃と書かれた机がないことを一人、四年生に進級した俺は知ることになった。
親戚でもない赤の他人である俺が何百年という莫大な歴史に抗えるなんて思い上がりでしかないと承知の上であっても、何か彼女の為にできたはずであったと、幾度となく考えた。
〝運命〟とは一体何なのか。
あの時咄嗟に口にした言葉が正しかったのか、間違っていたのか、少しでも彼女の助けになったのか、寧ろ彼女を追い込んでしまったのか、今でも結論を導き出すことは出来ていない。
これらの出来事が〝運命〟という言葉に特別な嫌悪感を覚えるようになったきっかけであり、俺の生き方を変えた全てである。
「偽物の私ってなんなの? 月代珠璃は世界に一人しかいないよ」
無邪気に振る舞う彼女の姿は、俺の記憶で最後に更新された少女の姿とはまるで重ならない。
お婆さんが言っていた運命というものを受け入れたのか知る由はないが、八年もの歳月が彼女に変化をもたらしたのだろう。目のやり場に困る奇抜な服装と同じように。
「いやまぁそうなんだけどさ、こっちに帰ってくることになったのか?」
珠璃がいなくなって数日経過した頃にクラスの女子から「珠璃は大阪に引っ越した」と聞かされ、小三の春休み以降珠璃は俺の前に一度も姿は現さず、もう会えないものだと決めつけていた。
月代家の秘密を知った直後に珠璃が引っ越したことが俺が抱く無力感を一層大きくし、彼女が帰って来ているのか否かは、俺にとって気になって然るべき事柄になる。
「私もそうしたいんだけどね。用事があってママと一瞬だけ帰ってきただけなんだ」
「そうか。家庭の事情だから仕方ないな。それで、そっちの生活は楽しいか?」
「楽しいよ! 友達もたくさんできたからね」
「そっか、大阪だもんなぁ〜。それじゃあUSJとかよく行ってるのか? 大阪の学生は漏れなく年パスを持ってると聞いたことがあるんだけど、あれは正しいのか?」
いつだか浅川のリュックに付いているディズニーキャラクターのぬいぐるみの話になった時、大規模テーマパークの近くに住んでいる学生なら持ってて当たり前だと言っていた。田舎者の俺たちには縁もないが、学校帰りの買い食いと同じ感覚で立ち寄れる場所なのかもしれない。
「んんーー。どうなんだろ? み、私はあんまり行かないし持ってないかなあ」
考え口調になる珠璃は、上肢を胸のあたりまで持ち上げて腕を組む。
その際、今にも弾けそうな水風船が両腕に押し上げられて、リアルな生々しい動きを見せた。
本人自ら気づいたようで、「あっ……」と、急いで瞬時に組まれた腕を解く。
「わ、私は持ってないかなっ……。他の子は知らないけど」
街灯と屋台の灯りだけが光源となる薄暗い視界の中でも、弾けそうな胸の谷間には目が吸い寄せられてしまう。まるで宇宙空間で全てを寄せ付けてしまうブラックホールのようだ。
「ってごめん! ママからメッセきたから帰るね? 皆月くんの顔見れて良かったよ」
後ろのポケットに入っているスマホをチラッと見て、素早く踵を返す珠璃。
「え、今皆月くんって……。ちょっと珠璃!?」
LINEなり連絡先を訊いておこうと呼び止めても珠璃は足を止めず、「じゃあね!」と、手を振りながら人混みの中へ消えていってしまった。
中高何の部活に入っていたのだろうか。軸がブレずに理想的な走り去るフォームをしていた。
最初目にした時もそうだったが、どこかで見たことがあるように感じてしまうのは、昔の記憶を鮮明に覚えているからに他ならない。
大きく進化を遂げていたセンスやビジュアルとは対照的に、本能で感じ取る本質的な珠璃は、きっと八年経っても変わっていない。それだけ知れただけでも、なんだか救われた気がした。
「……わたし、帰るから」
その声を聞いて、目の前に雷が落ちたようにハッとする。
「すまん! あいつは小学生の頃仲良かった奴で数年ぶりに会ったんだよ! 紹介するの忘れてた。本当にごめんっ」
悲しい別れ方をした旧友との再会に夢中になってしまい、設定上の彼女である姫岬を置き去りにしてしまっていたことに今更気づく。
偶然あの場面だけ目撃されると珠璃は私服とは言えどちらと付き合っているか判断が出来ない可能性があり、本末転倒の事態に陥ってしまう。契約を持ちかけたのは俺なのに、姫岬には申し訳なく、元々姫岬を知る人間に交際を知らしめるために来たにも関わらず迂闊極まりない。
「かりそめでも付き合ってることになってるんだし、配慮が無さすぎた」
お辞儀程度に誠心誠意頭を下げて、犯してしまった愚行の許しを乞う。
「それもそうだけど……もういい。私先に帰るから」
慌てて頭を上げると既に目線の先に華奢な背中が遠ざかっていく途中で、声を掛けても振り返ることはなかった。普通のカップルなら強引に手首を掴んで引き留めるシーンなのだろうが、俺たちはそんな関係ではないし、しようともならない。
でも客観的に見て、あれほど怒るほどのことだっただろうか。飽くまでもかりそめのはずなのに。姫岬が立ち去ったこの瞬間だけ、彼女にフラれた男の気分がわかった気がした。
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