第38話 決別





「……しょう、へい……」



 胸を真っ赤に染めた悪魔は、俺の名前を呼びながら勢いよく口から血を吐き出した。

 その様子を眺めながら、俺はやりきれない気持ちを感じる。

 これは最終手段だった。

 もしも悪魔がこれ以上悪さをするようだったら、それを止めようとするために用意していた。

 でも使うとは考えてもいなかった。

 使ったとしても、こんなナイフで殺せないだろうと護身用として置いていた。


 まさかこんなにもあっさりと、抵抗されることなく刺せるなんて。

 刺した瞬間は高揚していた気持ちは、すっかりと萎えている。

 胸を押さえている悪魔は名前を呼んだきり、ただじっと俺のことを見ていた。


 もう少しなにかしてくると思ったが、静かに最後を迎えるのか。

 あっけない幕引きに、こんなものかと拍子抜けしてしまった。



「……死ぬのか?」



 見てみれば明らかだが、俺は沈黙が気まずくて尋ねる。

 苦しそうな呼吸をしながら、悪魔は頷いた。



「……この、状況は、さすがになっ……」


「そうか……」



 死ぬのか。

 何をしても死なない存在だと勝手に決めつけていたから、実感が湧かない。



「痛いか?」



 これも見れば分かることだったけど、思わず聞いてしまった。



「……しょう、へ……のに、くらべたらっ……こんなの……そうでも、ない」



 殺そうとした相手に、なんで優しさを見せるのだろうか。

 微笑んで罪悪感を少しでも軽くしようとしている姿に、俺の中で怒りが湧いた。



「どうして、どうして俺を責めないんだよ。死にかけているんだぞ。それなのにどうして!?」



 身勝手な言い分だ。

 刺しておいて抵抗しろなんて、支離滅裂だった。


「……な、で……しょうへ、が……そんな、かお、するんだ……」



 悪魔もそう思ったらしく、痛みに顔をしかめながらも苦笑した。



「だって、どうして刺されたんだよ。お前なら、簡単に避けられただろう」



 ナイフを持っていることなんて、すぐに分かったはずだ。

 それなのに、こんなにも簡単に刺された。

 意味不明である。



「……なんで、さされたか……?」


「ああ。どうしてなんだ。最後に教えてくれ」



 残された時間は、決して長くない。

 その前に気になったことを聞けば、悪魔が突然静かになった。

 もしかして手遅れだったかと、息を確認するために、俺は悪魔の前にしゃがみ込む。

 鼻の辺りに手を伸ばせば、いきなり腕が掴まれた。


 騙された。

 油断していたところを、道連れにする気だったのか。

 殺されたとしても仕方ないことをしたので、俺は腕を振り払うことなく、さらに近づいた。



「……しょ、へ……」



 ほとんど虫の息の悪魔は俺の首に手を回し、弱々しい力で引き寄せてきた。

 俺は抗うことなく、顔はあと少しで触れ合う位置まで近づく。


 殺されたとしても、何をされても抵抗出来ない距離。

 さて、何をしてくるのかと待ち構えていれば、耳元に吐息を感じた。





「あいしてる」





 微かな声だったのに、はっきりと耳に入ってきた。

 悪魔になってから、何度か聞いたその言葉。

 こんなにも胸が苦しくなるのは初めてだった。



「りょうすけ」



 俺はそれを悪魔のものではなく、涼介のものだと受け取る。

 生きていた時も死んでいた時も、ずっと俺のことが好きだと、そう言っていた。

 ずっと、涼介の気持ちは変わっていなかったのだ。俺が気づくのが遅すぎた。


 首の後ろに回されていた手が、力無く地面に落ちた。



「涼介?」



 呼びかけても返事は無い。

 体を少し離して見た表情は、とても穏やかなものだった。



 ああ、死んだのか。



 その事実を受け入れた途端、悪魔の体が窓から吹き込んだ風によって、砂のように崩れ出す。

 止める暇なく、あっという間に消え去った後は、存在していたのも幻だと思うぐらいに影も形も無くなっていた。


 血が全くついていない地面に転がったナイフと、俺の握った手の中に残された、小さくて黒い宝石みたいな欠片を除いて。



 光に反射してキラキラと輝くこれが、涼介が最後に遺したのか、たまたま残ってしまっただけなのかは定かじゃない。

 でも握りしめると自然と胸が温かくなって、俺は胸元に手を当てて、また涙を流した。


 悪魔が死んだということは、涼介を死んだことを意味する。

 今日本当の意味で、俺は親友を失った。

 その事実を受け入れて、これからを生きるしかない。



「……っりょうすけ」



 どんなに名前を呼んでも答えは無い。

 あんなに傍にいた存在がもういない寂しさに、後悔が胸をよぎるが俺が悲しむのはお門違いだった。




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